今月の言葉抄 2006年11月

死について

「誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。信じているならちがうやり方ををするはずだ」
 みんな自分をだましているんですね。
「そのとおり。しかし、もっといいやり方があるよ。いずれ死ぬことを認めて、いつ死んでもいいように準備すること。そのほうがずっといい。そうしてこそ、生きている間、はるかに真剣に人生に取り組むことができる」
 死ぬ準備なんて、どうすればいいんですか?
「仏教徒みたいにやればいい。毎日小鳥を肩に止まらせ、こう質問させるんだ。『今日がその日か?用意はいいか?するべきことをすべてやっているか?なりたいと思う人間になっているか?』」
 モリーは、実際に小鳥がいるかのように、ぐるりと首を肩のほうに向けた。
「今日が私の死ぬ日かな?」

モリーはどんな宗教からもいいところを自由に取り入れた。生まれはユダヤ教だが、子供の頃いろいろな目にあったことが一つの原因で、十代のとき不可知論者になった。仏教やキリスト教の哲学にもある程度共鳴するものの、依然、文化的にはユダヤ教に安らぎを感じている。宗教についてはいわば雑種で、そのことが長年教えてきた学生たちに対していっそう寛容な姿勢をとれるもとでもあったのだ。この世の最期の何ヶ月でモリーの口から語られるもの、それはすべての宗教のちがいを越えている。死がそれを可能にする。
「実はね、ミッチ。いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べるんだよ」
 ぼくはうなずいた。
「もう一度言っておこう。いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」そう言ってにっこり笑うモリーのやり方がぼくにはよくわかった。あれこれ質問してぼくが気まずい思いをすることを避け、要点をまちがいなくのみこめるように気を配っている。それもモリーがすぐれた教師であるゆえんだった。
 病気になる前に、死についていろいろ考えましたか?
「いいや。みんなとおんなじ。いつかある友だちに、元気にまかせて言ったことがある。『おれ、おまえが見たこともないような健康なじいさんになるぞ』」
 おいくつのときですか?
「六十代」
 ずいぶん楽天家でしたね。
「そうともさ。さっき言ったとおり、誰もいずれ死ぬことをほんとうに信じていない」
 でも、みんな誰か死んだ人のことを知っているわけですよね。それなのに、どうして、死のことを考えるのがむずかしいんでしょう?
「なぜかっていうと、みんなまるで夢遊病者なんだな。われわれがこの世界のことを心底から十分に体験していない。それは半分眠っているから。やらなければいけないと思っていることを無反省にやっているだけだから」
 死に直面すれば、すべてが変わる?
「そうなんだ。よけいなものをはぎとって、かんじんなものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっと変わるよ」
 そして、はあっと息をつく。「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」

(第四の火曜日―死について)から
『モリー先生との火曜日』(日本放送出版協会 1998年)
ミッチ・アルボム著 別宮貞徳訳
 

私も同じ理由からホームページを作ろうと思い立った。死が近いとは思われないが、そんなに遠くでもない。それで今まで散らかしていたものを整理し、できるだけ枝葉末節なものにかかずらわず、大事なものに集中し、新しい知見を得るようにしたい。すでに少しずつ効果はでてきているように思われる。(管理人)

更新2006年11月3日