諸悪莫作 衆善奉行
サッバパーパッサ アカラナム
クサラッサ ウパサムパダー
サチッタパリヨーダパナム
エータム ブッダーナ サーサナム
sabbapâpassa akaranam
kusalassa upasampadâ
sacittapariyodapanam
etam buddhâna sâsanam
ありとある 悪をば なさず
善なるを 行ない そなえ
みずからの こころを 浄む
これぞ 実に もろもろの ほとけの 教え
諸 悪 莫 作
諸 善 奉 行
自 浄 其 意
是 諸 仏 教
諸悪作 す莫し
諸善奉行す
自ら其の意を浄む
是れ諸仏の教え
[註]
(1)上の漢文は、従来は「諸悪(は)作す莫れ、諸善(は)奉行せよ、自ら其の意を浄めよ、是れ諸仏の教えなり」と、第一句〜第三句を、命令形で読んでいる。たしかに、「莫」は、通常は禁止の命令を示す重要な語であるが、一般の否定にも用いられる。しかも第二句と第三句には(訳文は異なるが「法集要頌経」も同じ)命令形を指示する語がまったくない。パーリー文は(他に命令形の文は多数くあるが、ここでは)平叙文としている。以上の理由から上のように読んだ。なお、「奉行」はこころを込めて行なう。「意」はこころ。
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(3)パーリー語の第四句のブッダーナbuddhânaは、buddhaの複数属格(plural genitive)すなわち「多くのブッダたちの」という意。仏教梵語のSにはbuddhânaとあって、正規のサンスクリット語ではbuddhânâmとあるべきものが、詩に特有の韻の関係で、上のようになったらしい。さらに、Uでは、buddhasyaとあり、これは単数属格、すなわち「ブッダの」という意に転じている。また仏教梵語の上述した「マハーヴァストゥ」の引用詩には、次の語と続けて、ブッダーヌシャーサナムbuddhânušâsanamとあり、ここでは、ブッダは、単数とも複数ともとれる。
ところで、第四句に見られる、複数形のブッダ(「もろもろの仏」「諸仏」)とは何を意味するか。それは、最初期にはブッダの普通名詞として扱い、ゴータマ・ブッダ以外にも用いたとの解釈もなされるが、古来の大多数の説によれば、初期仏教のかなり古い時代にすでに、後の第三部に大乗仏教の説明中にも述べるように、いわゆる「過去仏」の登場と符合するとして扱う。すなわち、釈尊への限りない尊崇と、すでに仏教創始以前からの「輪廻―業」の思想と重なって、これほど偉大な釈尊は、その一代で(しかも若い時期の数年間で)その絶大な偉業をなしとげ得たのではなく、すでにその前世に、すばらしい行い(すなわち業)を積んでいたことによると解して、釈迦仏一代前のブッダに迦葉仏を想定し、さらに、その迦葉仏の前世へ、そしてそのまた前世のブッダへとさかのぼり、ついに、毘婆尸仏に至り、このブッダから数えて七代目が釈迦仏に当たる、という説が立てられ、広く普及した。これを「過去七仏」と称し、この過去七仏に関する物語は、『長阿含経』の「大本経」と、『長部』の「マハーアバダーナ(大譬喩経是)」との全体を占め、そのほか単経の異訳経典が数種あるほか、アーガマ文献の各所に、「過去七仏」が言及される。
そして、その七仏のすべてが、まさに上に説明したこの詩を説いたとされ、そのような事情から、この詩は「七仏通誡偈」(偈は詩と同じ)と命名され、上述のとおり、全仏教を通じて最も名高い。
この詩は、わが国においても、古くから現在に至るまでとくによく知られ、愛好された。漢訳の第二句の「諸善」を、おそらく修辞のうえから「衆善」とあらためた詩は、日本仏教のほぼすべての宗祖たち、また高僧や学僧たちによって、必ずといってよいほど、どこかに引用されており、上述したとおり、富永仲基もこの詩を「迦文(釈尊)の文」とした。また、墨痕鮮やかな「諸悪莫作 衆善奉行」の室町時代の一休(宗純、1394年―1481年)による二行の書は、驚嘆するほどに魅せられる。
要約すれば、この詩の前半二句は、「どんな悪もなさず、善を行う」という、最も普遍的な倫理を説き、それが第三句の「みずから、自分のこころを浄める」との、いわば宗教の究極まで高められ、ないし深められており、それを「もろもろのほとけの教え」と押さえて、これこそまさに「仏教」そのものを、一詩により見事に表現している、と解してよい。したがって、たとえ仏教に関心が薄く、あるいはそれを欠いていても、「仏教とは何か」との問いに接した際、この「しょあく まくさ しゅぜん ぶぎょう じじょう ごい ぜしょ ぶっきょう」という、記憶しやすいこの詩をもって、それなりの解答がなされ得よう。
(第二部第二章第二節 阿含経テクストの検討)から
『バウッダ・仏教・』(小学館 1987年)中村元・三枝充悳著
この四行詩はどこだったか、お寺の本堂で見た記憶はあるが、その意味や仏教の中の位置付けがよく分からなかった。この詩が仏教の真髄を簡潔に表現しているということであれば、大変わかりやすい。感激したので、当サイトの詩篇のなかに「仏陀は語る」と題して自分流の訳を添えてそのまま並べて書いてみた。仏教には膨大な経典があり、そのなかに精神が埋まってしまっているので、素人が読み解くのは無理だと思う。阿含経(パーリー語経典―ダンマパダ)という一群の経典が初期のもので、ブッダその人の語ったことをよく伝えているという。(管理人)