今月の言葉抄 2006年6月

大東亜戦争の教訓

大東亜戦争の戦争性格

しめくくりとして教訓の若干について申し上げたいと存じます。

まず初めに、大東亜戦争を総括いたしまして、所見を述べたいと思います。

第一に、大東亜戦争は日本にとって自存自衛の受動戦争であって、米国を敵とした計画戦争ではなかったということ。

第二に、最終努力として、日本側から米国に首脳会談を要請した昭和16年8月、または、東条内閣において国策の再検討がおこなわれていた同年11月に日米両国の首脳が会談を行い、戦争を回避すべきであったということ。しかし、8月には米国が要請を拒絶し、11月の時点では8月の経過が尾を引いて、日本側に再度首脳会談を要請する空気が生まれなかった。このように日本のリーダー層が開戦間際まで戦争回避の努力を懸命にしていたにもかかわらず、これが適わなかった事は誠に残念であった。

第三に、戦争の責任は日本に一方的にあるのではなく、東京裁判においてインドのパール判事が「在外資産の全面凍結などで日本を窮地に追い込んだ」と指摘したごとく、米国にも戦争の責任はあるのではないか、ということであります。

以上を踏まえ、以下七つの教訓を述べていきます。

教訓一 賢明さを欠いた日本の大陸政策

教訓の第一は、いわゆる大陸政策の功罪についてであります。

日本側の立場から見ると、大東亜戦争の動機はハード面では米国の対日全面禁輸、特に石油の供給停止であり、ソフト面から見ると「ハル・ノート」に示された米国による日本の大陸政策否定、つまり国家の威信の全面否定にあると考えられます。米国による日本の大陸政策否定は、「ハル・ノート」の各条項がこれを示しているばかりでなく、その冒頭にかかげられたいわゆる「ハル四原則」が端的にこれを物語っております。昭和16年(1941年)8月、日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」と述べたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥結事項に含ましめることを、極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なるからでありました。

ともあれ日本の大陸政策に対し、今日の時点において今日の価値観に基づいて断罪を下すことは極めて容易でありましょう。しかし歴史としては日本が歩んできた大陸政策のよって来る由来を、当時の時点においてとらえることを重視しなければならぬと考えます。

既に申し上げましたように、明治維新(1868年)当時における日本の国防環境は重大でありました。インドを併合して清国を植民地化した英国と、沿海州を割取し樺太、千島、カムチャッカに進出した露国、すなわち世界の二大強国が、二百五十年にわたる鎖国政策の夢の醒め切らない日本に対し、南北ニ正面から迫って来ていたのであります。

徳川幕府末期の思想家橋本佐内は日露結んで英国に対すべしと提言いたしましたが、明治政府は日英結んで露国にあたったのでありました。

このような存亡の危機において、韓国も清国も、国家としての自衛独立の機能に欠如し、主権国家としての責任遂行能力をもっておりませんでした。特に清国は露国の満州(現在、中国の東北地域)占領を放任するのみならず、満州経由韓国への侵略も拱手こうしゅ傍観するのみでありました。日清、日露戦争は日本にとってみますと、国防上のやむを得ざる受動戦争、すなわち明治の時代(十九世紀)における日本の大陸政策は、国防上の必要に基づく防衛圏の大陸推進であり、それは明治日本の国是たる「開国進取」の政策的発展でありました。

日露戦争勝利の結果日本が満州において獲得した権益は、露国から移譲されたものが主であり、当時の戦争終結の通念からして戦勝国に与えられるべき権益として世界はこれを明らかに肯定したものでありました。

その後、この権益の確保拡充を中心として、日本の大陸政策は政治的、経済的、軍事的勢力圏設定へと変貌し、勢いの赴く所満州事変となり、支那事変へと発展したわけであります。

しかしその背景には第一に、日本の国土狭小、資源貧弱、人口過多という国家存立上の当時としては半絶望的条件を、大陸発展により克服しようとする国民的意欲の勃興がありました。

さらに、世界経済恐慌の波及と世界経済ブロック化の趨勢が、ますます日本と大陸との結合関係を促進し、日満支ブロック経済の確立が国家の存立上不可欠の要因なりとするに至ったことであります。

その上さらに、対ソ防衛圏の前線を満ソ国境線に推進することにより、日本本土自体の国防をまっとうするばかりでなく、東亜の安定を確保することが、日本の使命と考えられたことであります。

第四に、当時の中国の実体が、なお近代国家として未完成の域にあったことであります。したがって中央政令の徹底が不十分であるため地方的処理の必要があったこと、治安の不安定、軍隊の不統制のため、在留邦人の生命財産または権益の擁護に日本が自国軍隊による現地保護の措置が必要であったことなど、中国の特殊事態をも指摘しなければなりません。しかも当時の中国の為政者は近代国家統一策の手段として、国権回収、排外思想を強く鼓吹するのを常としていたのであります。そして戦後日本の代表的指導者であった幣原喜重郎氏が、当時外務大臣として平和強調外交を強調されるに対し、間もなくその外務次官に就任した吉田茂氏が武力強硬外交を主張する時代であったのであります。

かくてこの大陸政策は国民的合意を得たものでありました。昭和16年(1941年)十一月東条内閣の国策再検討を求める大本営政府連絡会議において、対外妥協屈服を伴う臥薪嘗胆案を、本来戦争回避を願う東郷、賀ママ文官大臣が意外にも言下に否定したことは、大陸政策に対する国民的熱意を物語るものでありましょう。昭和16年(1941年)十月二日付米側の口上書をめぐって、和戦の議論が沸騰したときにおける木戸内大臣の日記(十月九日)「日米交渉に関する豊田外務大臣所信」及び「現下国際情勢に処する帝国外交方針天羽あもう外務次官意見」(共に十月十三日)は、いずれも戦争回避を趣旨としながら、大東亜新秩序建設または大東亜共栄圏建設の堅持を強調しているのであります。

当時米国または英国においては、日本における軍の強硬分子にとってかわる協調分子の台頭により、日米英関係が好転するかも知れぬことを、指摘する向きもあったようですが、それは日本の実情に対する認識が不十分であり、大陸政策に対する日本国民の合意を的確に把握していなかったものと考えます。

しかしこの大陸政策が中国ばかりでなく米国によっても否定され、戦争となりました。そして日本はすべてを失いました。結果論として様々な事情があったにせよ私は日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。

教訓ニ 早期終結を図れなかった支那事変

教訓の第ニは、もし日本の大陸政策が有終の美を収め得るチャンスがあったとすれば、それは満州事変から支那事変への移行を絶対に阻止し、万やむを得ざるも支那事変から大東亜戦争への発展を絶対に阻止すべきであったということでありましょう。

私の尊敬するある先輩は、満州事変は万里の長城の山海関を超えたるがゆえに支那事変へ移行し、そして、仏印国境の鎮南関を超えたるがゆえに大東亜戦争へ発展したと嘆息たんそくしていました。あの不用意な北支工作が支那事変を誘発し、かの洞察を欠いた北部仏印進駐(続いて南部仏印進駐)が大東亜戦争への悲劇の扉を開いたことはここに多言を要しません。

陸軍中央部としては中央施策による満州事変の終末指導に全力を傾けると共に、現地軍の北支工作をその理由のいかんを問わず断固としてこれを禁止し、長城以南の中国本土には一指をも触れさせない強力な指導が必要でありました。それがためにはトルーマン大統領によるマッカーサー将軍解任というような人事の大英断をも必要とした出ありましょう。そして二十年、三十年かけてひとえに満州国の育英強化に専念すべきでありました。

不幸にして支那事変への発展拡大を余儀なくされましたが、それでも陸軍中央部としては「支那事変は満州事変の終末戦なり」という透徹した認識―参謀本部戦争指導当局の主任者はこの考えでありましたが、大勢としては少数派でありました―の下に、対支戦争目的を主として満州国承認の一事に限定し、あくまで蒋介石政権を相手とする交渉により、早期全面和平を策すべきであり、昭和15年(1940年)春夏欧州戦局激動の時にこそ、断固としてこの施策を強力に進め、例えば対支占領兵力大部分の撤収を策するなど支那事変の早期終結を図るべきでありました。

そして満州の天地に建国の理想たる五族(満・蒙・漢・鮮・日)協和のいわゆる王道楽土が名実共に建設されるならば、それはわが大陸政策の成功であったでありましょう。また、東亜の安定にとって大きな貢献をしたであろう。満州建国には地理的、民族的、歴史的、思想的にその可能性があったと思われます。

教訓三 時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力

教訓の第三は、明治憲法下における天皇による政治権力の運営統制機能が、昭和の動乱の時代には適応しなくなったことであります。

既に戦争力の運営統制機能は、最終的には天皇の掌握されるところであったわけであります。

もとよりその統帥権または行政権の執行を輔佐する機構として、陸海軍統帥部長または各国務大臣が置かれましたが、これら輔佐者全員が各個に天皇に直接隷属し、統帥権または行政権を一括して統制輔佐するような機構が存在しなかったことは、既にご説明の通りであります。

すなわち明治憲法はその運営統制機能を、天皇自ら直接果たされる建前になっていたのでありますが、それは本来不可能なことでありました。しかるに明治憲法公布後間もなく日清、日露戦争という非常の事態が発生しましたが、その運営統制機能がおおむね適切に果たされたことは、実に「元老」の存在に負う所が大であったと考えます。

明治維新の勲功顕著な者を、天皇の特旨を以って「元勲」に叙し、元勲に叙せられた者を元老と称しました。これは憲法または法令に基づかない慣習的な存在でありました。日露戦争開戦のときには山県有朋公、伊藤博文公を始めとする六人の元老がおり、参謀総長の大山巌公も元老のひとりでありました。従って対露和戦の鍵は元老が握っていたのであります。元老は元老会議を開いて国事を議するの外、随時内閣との会議を行い、また御前会議には出席するを常としておりました。

かくて元老が天皇に代わって実質的に統制機能を果たし、憲法における日本の政治権力の構造的欠陥をカバーして来たのでありました。

しかし昭和の時代に入り、昭和十五年(1940年)末、最後の元老西園寺公望きんもち公が死去するまで、一人の元老がいたわけでありますが、 その運営統制機能の発揮は内閣更迭の際における後継首班の選定に止まりました。従って天皇は各輔佐機構相互間の合意の成立をまって、執行を命ぜられるのを常とされました。そこに陸軍と海軍の対立、 統帥部と政府の不調和、計画の一貫性の欠如、権力の分散に伴う責任所在の不明確があったことは、先刻ご説明の通りであります。

戦後、世上東条独裁を指摘する向きもありすが、昭和19年(1944年)七月米軍のマリアナ群島来攻による戦局悪化に伴い、東条首相が遂に内閣を投げ出した直接の動機は奇妙なものでありました。

すなわち東条首相は重臣(元老ではなく、首相閲歴者)らの倒閣の動きに対し、依然政局を担当する考えで、重臣二名を入閣させて内閣を補強する工作を進めました。重臣入閣のためには国務大臣のポストを空けなければならず、そこで当時軍需次官―軍需大臣は東条首相兼務―でありながら国務大臣であった岸信介氏―戦後日米安保改定当時の首相―に国務大臣の辞任を求めたところ、岸氏は辞職を拒否し、東条首相は内閣総辞職のやむなきに至ったのであります。これは木戸内大臣が重臣中の和平グループと共に計った倒閣工作であり、岸氏はそのグループにいたわけでありますが、戦争遂行の非常事態において、東条首相でも一国務大臣のポストを自由にできなかったという明治憲法の実体に着目する必要がありましょう。

これに対し、天皇がおおむね象徴的存在に止まられ、行政権力が、国民と議会の審判に堪え得る内閣総理大臣に、集中的に帰属している現行憲法の規定は、この点に関する限り、当を得たものだと思います。

教訓四 軍事が政治に優先した国家体制

教訓の第四は、政治が軍事を支配せずして、むしろ軍事が政治を支配した軍事優先の国家体制であったことであります。

問題は明治憲法による統帥権の独立に発しております。これにより陸海軍統帥部は用兵作戦を統帥部の専管事項であるとして、総理大臣を含む政府首脳にも関知させませんでした。総理大臣に対し国防方針は開示されましたが、用兵綱領は開示されなかったのであります。年度作戦計画はもとよりであります。政戦両略統合のため、用兵作戦事項中、統帥部が政府のため必要と認める部分を政府首脳に開示する場合でも、最小限に止められ、開戦当時東郷外相が外交と密接に関係する開戦日時すら、要求するまで知らされなかったことは、既にご説明の通りであります。

そして統帥権が独立している以上、政略と、軍事戦略との統合を必要とする国家意志の決定が、政府と統帥部との協議事項にまたなければならぬことは当然であり、しかも軍事戦略を伴う国家意志の決定が、ややもすれば統帥部の実質的イニシアチーブによって行なわれることが少なくありませんでした。昭和十五年(1940年)春夏欧州戦局激動の頃から、大東亜戦争に至るまでにおいて、政府がイニシヤチーブを取ったのは日独伊三国同盟の締結だけでありました。

さらに問題を複雑ならしめたのは、明治憲法による軍隊編成権の陸海軍大臣管掌と、陸海軍省官製の定める陸海軍大臣の現役武官制でありました。

特に不適当であったのは陸海軍大臣の現役武官制であり、なかんずく陸軍の抱懐する構想と政見を異にする内閣を、要求すれば妥当し得たわけであります。それにはもとより国民世論の支持が必要でありました。私は旧軍時代における国家制度上の一大問題点は、この陸海軍現役武官制であったと考えます。かくて日本における政治に対する軍事の優先は、その根拠において、憲法または法令に一応の基礎を置くものであり、加えるに昭和6年(1931年)における五・一五事件、昭和11年(1936年)におけるニ・ニ六事件等の結果、すなわちテロの脅威が、政治に対する軍事優先にさらに拍車をかけたといえるでありましょう。

教訓五 国防方針の分裂

教訓の第五は、明治時代にさかのぼる国防方針の分裂であります。

明治以来露国を想定敵国として、営々対ソ軍備の建設に努めてきた陸軍が、対米主戦論に傾き、一方明治以来米国を想定敵国として、営々対米軍備の建設に努めてきた海軍が、対米慎重論に傾くという、誠に奇妙な状態を露呈いたしました。それは陸軍にあっては明治以来自ら主となって推進して来た大陸政策が、米国によって否定されたからであり、海軍にあっては本来米国と戦う意志が薄かったからであろうと考えます。

大陸政策は「開国進取」という明治の国是に基づく政策発展であり、大正、昭和の時代を通じて一貫した国策でありました。陸軍はその推進力を以って自他共に任じていましたが、海軍は陸軍に対するパリティ思想からこれに同調しただけであり、大陸政策にはあまり熱意はありませんでした。

しかもその海軍は既にふれましたように、米国を真の想定敵国としたのではなく、時には軍備建設のため目標にしたに過ぎないのであり、海軍自体も実は本来米国との戦争などほとんど予見していなかったものと考えられます。明治40年(1907年)から大正を経て昭和の初め、否大東亜戦争に至るまで、日本国民の大部分は米国との戦争などほとんど考えていなかったのでありました。したがって海軍は折々不脅威、不侵略の軍備たることを呼号いたしましたが、今日いうところのいわゆる抑止軍備論を狙ったものでありましょう。

しかし戦争抑止軍備が時に戦争促進軍備になることは―核軍備については別として―軍備がもつ慣性のしからしむるところであります。日本海軍もその轍をふんだのであり、特にそれに拍車をかけたのが、昭和15年(1940年)8月末の海軍の実質的出動準備第一号着手発動でありました。

いずれにいたしましても明治40年(1907年)の国防方針策定以来、陸海軍間に国防方針の完全なる思想的背離があり、陸海軍が自軍軍備の建設に注力し、自軍軍備建設に好都合な国是国策の決定推進を主張して対立を続け、極言すれば自軍軍備あるを知って国家あるを知らざるの状態が続いていたことは、誠に悲劇であったと言わざるを得ません。

教訓六 的確さを欠いた戦局洞察

教訓の第六は、戦局の将来を的確に洞察することが、いかに至難であるかということであり、戦争指導ないし最高統帥の最大使命が、戦局の洞察にあるということであります。

日本の最高統帥部は、昭和12年(1937年)蒋介石氏直系の中国軍に一大打撃を加えれば、支那事変は早期に解決できると楽観し、昭和15年(1940年)夏英軍がダンケルクから撤退するや、ドイツによる欧州の制覇はいまや決定的であり、大英帝国は遠からず崩壊するであろうと判断し、昭和16年(1941年)六月独ソ 開戦するや、ドイツの圧倒的優勢による独ソ戦の短期終結―シャーウッド氏の「ルーズベルトとホプキンズ」によれば、米陸軍当局も最小限一ヶ月最大限三ヶ月、海軍当局も六週間ないし二ヶ月で終結すると大統領に報告したようであります―を期待したのでありました。

さたに致命的な誤判を申し上げるならば、大東亜戦争開戦にあたり、対米英蘭作戦に充当する陸軍兵力は、11個師団基幹を以って足り、しかも南方要域攻略作戦終了に伴い、そのうち数個師団は北方または中国戦線に転用し得ると計画したことでありました。すなわちて太平洋正面の作戦の運命は、ひとえに大艦巨砲による艦隊決戦によって決せられ、大きな陸軍兵力を必要としないと判断したのであります。

しかるに昭和20年(1945年)終戦時太平洋戦面において、主として米軍と相対した総兵力は、実に約100個師団以上の多数に 及んだのであります。米軍の対日反攻は大艦巨砲にあらずして、航空勢力を骨幹とする陸、海、空、海兵、四軍の統合戦力による島から島への躍進であり、かのソロモン、ニューギニア、グアム、フィリッピン、沖縄等への躍進的上陸となり、それぞれの地において、陸戦が大規模に行なわれたのでありました。

教訓七 実現に至らなかった首脳会談

教訓の第七として最後に申し上げたいことは、国家間における話し合い、特に責任ある首脳会談の重要性であります。これにより外交破局即戦争という事態は回避し得る場合が少なくないと考えられます。

昭和16年(1941年)8月、近衛首相提案の日米首脳会談が米側の拒絶により実現に至らなかったこと、および東条内閣発足後、国策再検討を行なっていた頃に会談が行なわれなかったことは、今日からみて誠に残念であり、もし実現しておれば日米の破局=戦争はあるいは回避し得たかもしれないと申せましょう。

それは当時日米両国共にまだ戦争へとは考えていなかったと思考されるからであります。また、日本側としても昭和16年(1941年)は対米戦争決断の折、今一度両国首脳会談を執拗に提案し破局の打開を希求すべきであったと今日考えられるのであります。

(「終章 回顧よりの教訓」から)
『大東亜戦争の実相』(PHP研究所1998年)瀬島龍三著 
更新2006年6月10日