以上申し述べたことを要約すれば次のようになるでありましょう。旧憲法下の日本においては内閣総理大臣と陸海軍両統帥部長(参謀総長、軍令部総長)の三者は、全く併立対等の存在であります。その内閣総理大臣は閣内において各国務大臣の首班であるに過ぎませんでした。しかも統帥と行政とのいわゆる混成事項は、陸海軍大臣の輔佐事項であり、内閣の権限外であります。そしてかかる権限をもつ参謀総長と陸軍大臣、または軍令部総長と海軍大臣とは、それぞれ陸軍または海軍という並立的な二大勢力を形成していたのであります。
かくて戦時または事変における日本国家の運営は、内閣、陸軍、海軍の三極構造、または内閣総理大臣(外務大臣)、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長の五(六)極構造を以って行なわれたのであります。そこにはいわゆる独裁の危険は皆無であると共に、決断と事務の停滞、時間と勢力の浪費、妥協に伴う矛盾と不統一、無原則、無目的の弊風を免れなかったのであります。
実に旧憲法下における日本のごとく、その国家権力が分散牽制して、集中統一を欠いたものは少ないと確信します。憲法の形式論としては、統治権を総攬される天皇のみがその集中統一を図り得る地位にあられ、天皇はそれを図り得る絶大な精神的権威を御持ちであられました。
しかし天皇なかんずく昭和天皇はその権力を、1945年8月の終戦決定以外は直接行使されませんでした。すなわち天皇はその権力を国務大臣の輔弼、両統帥部長または陸海軍大臣の輔翼、行政と統合事項に関しては大本営政府連絡会議の決定を、それぞれまって発動せられ、陸海軍の統帥、軍政両面の対立に対しては、両者の妥協合意が成立するまで発動されることはなかったのであります。
ただしこの間にあって、昭和天皇は国務大臣または両統帥部長の上奏時の御下問奉答等を通じ、激励、注意、暗示、示唆等を以ってその御考えを間接的に示されることがしばしばでありました。
1941年9月6日御前会議において、米英蘭三国に対し、戦争を辞せざる決意の下に、10月末を目途に戦争準備の完整と対米外交の促進を併進させることが決定されましたが、そのときの質疑応答において、
上述のように天皇が権力の直接行使をあえて回避されたのは、天皇が凡庸なるがゆえでは断じてなく、かえって天皇が極めて御聡明かつ御賢明であられたからであります。
旧憲法の第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」とあり、万世一系の天皇は憲法上「無当責」であられたのでありました。「無当責」の君主が統治権を主体的に直接行使することが、世襲君主制の根基を危うくすることは歴史の示す所であり、昭和天皇は英国流の「君臨すれども統治せず」を範としておられたと思います。
終戦直後戦争犯罪の法廷に立つことを拒否して自殺した