ある遍路日記  第39日目

2002年12月29日(日)  
曇り 寒い

 金泉寺・極楽寺と打って、一番札所霊山寺まで来る。仁王門の真ん中の通り道に遍路の安っぽい人形を置いていたり、 昼なのに本堂などあちこちに電灯を点けてにぎやかな風を演出している。納経するのに初めて靴を脱いで入らなければならない。 境内にゆっくり腰掛けるところもなく、失礼ながら巡礼者への配慮に欠け、一番俗っぽい感じの寺だった。 一応結願(けちがん)した訳だが、特に感慨もなし。八十八番札所へのお礼参りの為十番札所に向かう途中、 昨日時間がなくて素通りした地蔵寺の別院羅漢堂に立ち寄る。

羅漢堂の境内
羅漢堂の境内

「羅漢さんとは、お釈迦さんの弟子であり、仏道修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人である。その羅漢さんを 五百人集めたのが五百羅漢であり、その姿は喜怒哀楽の表情をうかべた実に人間味のある仏さんである。」(パンフレットより) 羅漢堂の境内でのんびりする。一隅に13仏像がある。よく見ると、お経の本にある13佛真言と符合する。 こんなことも知らなかったのかと思う。つまり八十八箇所の寺には13の本尊があるということだ。 そのうち如来が5仏・菩薩が7仏・不動明王が1仏ある。如来と菩薩はどう違うのだろうか、大日如来が一番上位なのではないのだろうか、 釈迦如来もあるが歴史上の仏陀とどう違うのだろうか。仏教はとにかく複雑だ。理解する前に信じるのはとても無理な気がした。

真言について道々考えた。「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す。」 空海は言葉の起源に大変こだわった人だと思う。何故だろう。 たとえば大日如来の真言は「おんあびらうんけんばざらだどばん」。どのようにアクセントをつけて読むのだろう、 発音はどうするのだろう。どんな意味があるのだろう。空海は長安でインド僧から直接サンスクリットを学んだようだ。 発音は口真似で練習したはずだ。原音で唱えなければ、元の意味もその存在自体も無意味なものとなるだろう。 もともとそれぞれの意味があるはずだ。どうして阿(あ)や吽(うん)のように音そのものに、 存在の起源や宇宙そのものの意味を込めたのだろうか。分からない思想だ。空海はインド伝来のものを、 音も思想も様式もすべて違和感なく受け入れて消化してしまったのだ。

境内で間延びした真言を唱えるのをよく聞いたがとても真似できなかった。今回はお経は曲がりなりにも読んだが、 真言は唱えられなかった。

本日の行程

坂東旅館
07:30
0.5km

3番金泉寺(こんせんじ)
07:30
2.5km

2番極楽寺(ほうりんじ)
08:00
1.2km

1番霊山寺(りょうぜんじ)
08:30
10.7km

地蔵寺別院羅漢堂
11:30
10.6km

民宿坂本屋
17:00

距離 25.5km
所要時間 9:30