ある遍路日記  第26日目

2002年12月16日(月)  
曇りのち小雨 

朝、ロビーの方から誰かが、今日の日の出は7時、日の入りは5時、と言っているのが聞こえる。同宿の遍路さんと 屋上に登って、雲間からひととき現れた土佐湾の日の出を見る。

青龍寺境内の恵果阿闍梨の墓
青龍寺境内の
恵果阿闍梨の墓

青龍寺を打つ。へんろみち保存協力会の説明には簡潔に以下に記述あり。「開基弘法大師。この寺の名称は、弘法大師が在唐中、 長安で学んだ青龍寺にあやかり、恵果和尚への敬慕の情を表したものであろう。」境内に恵果阿闍梨 (けいかあじゃり)の墓というのがあった。本当だろうか。 長安の墓はどうなったのであろうか。寺の人に聞くがそっけない。縁起を探してもらったが、説明が載っていなかった。 恵果和尚とは、空海在唐時、密教のすべてを相伝された師である。中国の弟子達も沢山いたであろうに、金剛系・胎蔵系両部 の密教を伝授されたのは空海だけであった。出会いは劇的である。恵果は空海を見ると、笑みを含み歓喜して次のように告げた。 「我れ先より汝が来ることを知りて相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し。報命竭(つ)きなんと欲すれども、 付法に人なし。必ず須らく速やかに香花を弁じて潅頂壇に入るべし。」空海は、会ったときの恵果の言動を生き生きと書いているが、 自分の印象は一言も述べていない。こうして密教は日本にのみ完全な形で伝わったことになる。 当時密教は最も新しい世界観を持った哲学であった。

師恵果にはここに墓がある。入滅した(死んだ)のである。空海の場合は入定と言うそうだ。入定とは、瞑想三昧に入っている ことを言う。空海には墓がないのであろうか。してみると原理的にはまだ生きているということだろうか。空海には墓がない のであろうか。

塚地峠への道
塚地峠への道

塚地峠を越える。砂防ダムの工事現場を過ぎると、完全な遍路道に入る。のぼり1時間、下り30分の快適な山道だ。 頂上からの眺めもよい。かってここは、宇佐で取れた塩や新鮮な鰹を、高知城内や近隣の内陸部に競って届けた人馬が往来した道とか。 どこの峠も昔は重要な交通路であったことが、案内板などで分かる。峠道は人一人がやっと歩けるような処が多い。 人が歩ける道は、どんなに急峻でも馬も行けるらしい。

種間寺を打ってから暗くなり、道行く人や通り沿いの商店などに何度も道を確かめながら行く。分かりづらい道だが、 どうにか間違わずに行けた。宿の近くまで歩いていくと、向こうから自転車を押しながらやって来る人がいる。 高知屋のおばさんが心配して迎えに来てくれたのだ。この宿では洗濯のお接待も受け、ありがたかった。

本日の行程

国民宿舎土佐
0800
0.5km

36番 青龍寺 しょうりゅうじ
08:30
6.3km

塚地(つかじ)
10:00
8.5km

35番清滝寺(きよたきじ)
13:30
9.5km

34番種間寺(たねまじ)
16:45
6.5km

民宿高知屋
19:00

距離 31.3km
所要時間 11:00