今回の最終日。宇和島駅に12時までに着けば、松山に寄り子規記念館に行けることになる。朝食のかわりに、前夜おにぎりを 作ってもらい、早朝5時に出発する。
歯長橋まで順調に来たが、峠に入る遍路道で標識を見落とすところだった。すぐ近くで、早朝6時前に、用水路にかがみこんで 何事かしている農家の人がいたので、道を確認できたのは運が良かった。四国の道は斜めを指している。 斜め前方にそれとすぐ分かる道がある。しかしその道ではなく、もうひとつ先の田圃のあぜ道だった。 よく見るとへんろみち保存協力会の小さい道標が、色も少しはげかかって立っている。
かなり急峻な道を登りいったん尾根に出ると、尾根伝いにしばらく歩いて峠に出る。きつい遍路道で、下りは垂直に近く、 鎖が下がっているところもあった。 下りきったところで、中年男性のお遍路さんに会う。通しで歩いてきたと言う。 20日くらい現地で知り合った4人組みで来たが、自分は足が遅いので先日別れたと言う。この先はどうですかと聞くので、 峠の苦を取るか、車道の楽を取るか思案のしどころと標識に書いてあったよ、と説明をするとちょっと心配そうだった。
龍光寺から宇和島までゆるやかな下りが続く。立ったまま一服していると、地元のおばあさんが寄ってきて、 母親と子供2人のお遍路さんの話をした。子供と言っても小学生だったと言う、泣いて嫌がるのを無理やり引っ張って行ったそうだ。 寺に泊めてもらって巡礼しているのだと言う。かわいそうじゃった、それに比べればお前さんは一人じゃからなんぼらくなことか、 と言われた。嘘のような話。金と暇が必要な歩き遍路が一番贅沢なんだ、と言われたことを思い出した。
12:00 予定通り宇和島駅着。特急で松山に行き、夜行バスの時間まで子規記念館に寄る。漱石の下宿を再現した部屋があった。 「愚陀仏庵」と称していた。
愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石
8畳間と6畳間が並んでおり、その奥に2階へ通じる階段がある。子規が松山に帰省していた40日間、漱石は2階に避難し、 子規は入れ替わり立ち代り来る俳句仲間たちと、8畳間で句会や団欒をしていた部屋だ。漱石も折々下に降りてきて仲間に 加わったことであろう。帰京する際、漱石は子規に100円の餞別をあげている。漱石の友情がしのばれる。その金で子規は奈良に 立ち寄り、あの有名な句を残した。