パレスティナは古来、エジプト文明とメソポタミア文明の間にあって、二つの巨大な文明圏を結ぶ交通路となっていました。 パレスティナ自体が文明の主役になったことはありませんが、皮肉なことにそこに定住した少数のユダヤ民族 から発生した神への信仰が、二つの文明が滅んだあとも生き残り、今日まで世界に大きな影響を及ぼしていることになります。
船で地中海を往来する以外では、陸路ではアナトリア(小アジア)・シリアやメソポタミアとエジプト への往来には、どうしてもパレスティナを通らなければならない。このようなわけで、ユダヤの民がパレスティナに定住する以前から、 古代の交通路として何本かの公道がありました。この道は戦車や騎馬隊や歩兵たちの軍団が通った道であり、 またらくだやロバに荷を積んだ隊商らの交易の道でもありました。 そしてその公道から分岐して、町や村をつなぐ数多くの地域の道がありました。
公道の一つは「海の道」(Via Maris)と呼ばれていました。この道は文字通り海沿いの道ですが、古代には海岸沿いの道と 平行して走っている少し内陸の道を指していたようです。海岸沿いの道はもちろんイエスの時代にはありましたが、内陸の 道よりずっと後に出来たもののようです。大幹線道路(Great Trunk Road)と地図に示されているが、これがガザ(Gaza)から メギド(Megiddo)を通ってガリラヤ地方を横切り、イエスが拠点にしたカファルナウム(Capenaum) を通過して北上し、ハツォル(Hazor)で東に折れて、ヤコブの浅瀬(ヤコブの娘たちという名の橋がありました) でヨルダン川を渡り、ダマスカス(Damascus)へと至るものです。メギドからイズレエル(エスドレロン)の平原を北西に進路をとると地中海に出ます。 そして海沿いに北上するとイエスも一時身を隠すために訪れたティルスとシドンを通ってシリア・アナトリアへ至ります。
メギドはイエスの時代には住む人もなく廃墟となっていましたが、古来ここは「海の道」の要所でした。 ここからダマスカスへゆくか、地中海へ出るか、ヨルダン渓谷へ下るか、また尾根の道をエルサレムへと行くか、の分岐点になっています。 交通の要所であったことは戦略上の重要拠点でもあり、幾多の戦いがここで繰り広げられました。ある研究者は、歴史上メギドより多くの 戦いが行われた場所は世界中でどこにもないだろうといっています。したがって福音書には出てきませんが、「ヨハネの黙示録」 にはハルマゲドンとして書かれています✽1。 世界終末戦争の決戦の地である。ハルマゲドンとは「メギドの丘」と言う意味です。
次の公道は、パレスティの中央の丘陵地帯を南北にはしる道です。この道は、「尾根の道」また古くから「族長の道」と いわれていました。それはアブラハムやヤコブが通った道だったからです。アブラハムは千キロも離れたユーフラテス川上流の ハランからカナン地方に入るのに、尾根の道を通ったのは興味深いことです。地図でシカル(Sycar)とある処は、 アブラハムの時代にはほぼ同じ場所にシケム(Shechem)があり、ここまで来たアブラハムはこの土地を神に約束され、 ここに祭壇を築きました✽2。 ここはエバル山とゲリジム山の鞍部(あんぶ)にあり、ヨルダン川渓谷にも「海の道」にも下りられる交通の要所になっています。 ヤコブはここの土地を買い井戸を掘りました。ヤコブの井戸といわれていました。イエスがユダヤ地方からガリラヤへ戻る途中で ここシケルまで来たとき、疲れてヤコブの井戸のそばに座り、サマリアの女に水を求める話がヨハネに出てきます ✽3。この道を南へおよそ五十キロ行くと エルサレムである。さらに南下してへブロン(Hebron)からベエル・シェバへ(Beersheba)至る道である。ガリラヤから尾根の道 へはいるのにデカポリスの一つスキトポリス(Scythopolis 古名ベト・シャンBeth-shan、ベト・シェアンBeth-shean)を通る道が あります。スキトポリスは水が豊かで土地も肥え、かつ大変美しい処だそうです。あるラビは、もしエデンの園があるのなら、 ここはその入り口になるだろうと感嘆したそうです。イエスも通っただろうと思われますが、何らかの印象を持っただろうか。 ガリラヤからこの尾根の道を歩いて、急げば3日でエルサレムへ行けるそうです。
もう一つの公道は、「王の道」(King's Highway)がありました。ヨルダン峡谷の東側の高地を、モアブ砂漠から真っ直ぐ北へ 進み死海の東側の高地を抜け、フィラデルフィア(現在のアンマン)やゲラサを通ってダマスカスに至る道があります。 南に真っ直ぐ下ればアカバ湾に至り、西に行けばシナイ半島を横断してエジプトへ至る道です。モーセに率いられエジプトを 脱出したイスラエルの民は、四十年の彷徨の後に、この「王の道」からカナンへ侵入しました。カナンに侵入するためには、 この道を通らなければならなかったので、そこの王国のアモリ人の王に、領内の通過の許可を得るため次のような伝令を出しています。 「あなたの領内を通過させてください。道をそれて畑やぶどう畑に入ったり、井戸の水を飲んだりしません。 あなたの国境を越えるまで『王の道』を通ります。」 ✽4 これが断られると戦いとなり、王の道にあったアモリ人の二つの王国を攻め滅ぼします。 「我々はそのとき、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東岸の二人のアモリ人の王の領土を手中に収めた。」 ✽5 こうしてカナンの地に侵入する前に、 まず「王の道」を支配下 に治めました。カナンの地に侵入するのに「海の道」や「族長の道」をとらず、「王の道」から侵入したのは、古来から 絶対的優位にたてないときに取る「搦(から)め手」からの戦略だったと思われます。
次の道は、パレスティナのみの道なので地方道といっていいと思いますが、ヨルダン川渓谷沿いに北から南に下る道があります。 ヘルモン山の麓にピリポ・カイサリアがありますが、この辺りにヘルモン山から湧き出る水が、ヨルダン川の源流の一つになっています。 道は川の流れに沿って南下し、ガリラヤ湖の南からヨルダン川の両岸に道があり、エリコへと続いています。 途中、「尾根の道」や「王の道」からヨルダン渓谷に下りる道が何本もありました。ヨルダン川には沢山の浅瀬がありましたので、 川を途中で横断することもできました。春にはヘルモン山の雪解けの水で、川幅は広がります。 イエスが最後にエルサレムへ行ったときは、過越しの祭りだったので、ヨルダン川は増水し、川幅は広がっていたと思われます。 春の花々も咲いていたことでしょう。
公開日2009年10月3日