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源氏物語は、次のような書き出しで始まる。
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際きわにはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。この更衣は淑景舎に局が与えられ、壺(中庭)に桐が植えられていたことから、桐壷の更衣と呼ばれた。多くの女御更衣たちから、嫉妬され、いじめにあって、第二皇子光源氏を産んで、源氏が3歳の時亡くなってしまう。
(いずれの帝の御代であったか、大勢の女御、更衣がお仕えしているなかで、身分はそれほど高くはないが、ひときわ寵愛を受けていた更衣がいた。)
五月の長雨が降り続くある夜、物忌みで宮中に籠っているに源氏の宿直所に、若手の好き者が集まって女の話になる。集まった頭中将、左馬頭、式部丞らが、それぞれの女性体験を語り女の品定めをする。(雨夜の品定め)源氏は終始聞き役にまわっている。どんな女性が理想かそれぞれの体験が語られる。その中で、中の品の女におもしろいのがいるという話が出る。
その翌日、源氏は方違えで、中川にある紀伊守邸を訪れた。伊予の介の後妻になった若い空蝉が目当てであった。空蝉は入内の話もあって、美しいと評判であったが、伊予の介の後妻になった。その夜源氏は、嫌がる空蝉を抱えて自分の局に運び、強引に契った。その後、しばしば文をやるが、容易に逢おうとしない。自分が若い娘の時であれば、源氏の申し出は嬉しいが、今は伊予之介の妻であり、その節を守って、再び会おうとしないのだった。
源氏は空蝉と強引に契ったあと、空蝉が忘れられず、弟の小君の案内で、再三紀伊守邸を忍んで訪れるが空蝉の居場所が分からなかったり会えない状態が続いた。諦められず、ある日源氏は夕闇に紛れて押し入ると、空蝉が継娘の軒端萩と二人して碁を打っていた。たまたまその夜、軒端荻は自室に帰らず、空蝉の部屋で寝ることになり、源氏は空蝉の部屋に忍び込むが、空蝉は気配を感じ取り、小袿を置いて、逃げ出した。源氏は潜り込んで人違いと分かるが、軒端萩と契る羽目になる。
翌日、源氏は、持ち帰った空蝉の薄衣を空しく眺めるのだった。
源氏は六条御息所の処へ行く途中、五条に住む乳母を病気見舞いに訪ねる。惟光の母であった。その隣家の垣根に夕顔の花が咲いているのを見て、源氏は一枝所望する。中から童女が出てきて扇子に乗せて歌が差し出された。源氏の君だろうと推定した歌だった。
心あてにそれかとぞ見る白露の光そえたる夕顔の花女の住まいは、方違えで市井の雑踏が聞こえるような長屋に住んでいた。女の飾らぬ素直さ、男を信じ切ったやさしさに、源氏は惹かれて身分を隠して通うようになる。ある夜、源氏は女を近くの廃院に誘うが、女は夜半に物の怪に襲われて突然死んでしまう。惟光の助けで女を東山に葬った。女に幼女がいることも知り、夕顔は、頭中将が「雨夜の品定め」で語った、北の方に脅されて突然姿を隠した常夏の女であった。子を乳母の処に預けていた。
歌意 源氏の君かと推定します、白露をおいた夕顔の花のようなひときわ美しい御方は
源氏は、瘧病をわずらい、霊験あるとされる聖のいる北山に行く。そこで、ある僧都の庵室にやはり病気治癒で身を寄せていた尼君の一行を見つける。そこに十歳くらいの孫娘がいた。幼い遊び仲間がやったらしく、
雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものをといって少女は泣いていた。源氏は一目見てその少女の美しさを見出す。少女は源氏が慕っていた藤壺にとてもよく似ていた。その少女は藤壺の姪に当たり、尼君の亡くなった娘の処に兵部卿の宮(藤壺の兄)が通っていたときの子であった。源氏は少女の世話をしたいと尼君に申し出るが、まだ幼すぎるとして、断られる。
(いぬきが雀の子を逃がしてしまった。伏籠のなかに入れていたのに)
源氏は、夕顔が忘れられず、あのような素直でやさしい女にめぐり会いたいと思っていた。ある時、乳母子の大輔の命婦から、故常陸親王が晩年にもうけて大切に育てた娘が世話をする者もなく、荒れた邸にひとり琴を友として住んでいる、と聞いた。源氏は命婦の手引きで、邸に入る。その場で、隠れて後をつけていた頭中将と鉢合わせをしたりした。
娘はそうとうに内気でなかなか姿を見せなかった。文を出しても返事が来ない。しばらく訪問は途絶えたが、雪の烈しく降る日に、荒れ果てた邸を訪問して、その雪明りの朝、源氏は娘の容姿をかいま見ることになる。
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。驚いたことに、胴長で鼻が象のようであった、鼻の先が赤かった。末摘花は普通備えているべき教養もなく、琴も満足できるほどでなく、ただ内気だった。がっかりした源氏はそれでも世話をしようと決心する。末摘花とは紅花の異名である。中国から伝来し、染色に使われた。
(まず、座高が高く、胴長に見えるので、「やっぱり」と、がっかりする。それに次いで、異様なのは、鼻であった。自然に目がそこへいってしまう。普賢菩薩の乗物かと思う。すごく高くのびて、先っぽが少し垂れて色づいているのが、とりわけ異様だった。)
桐壷院の朱雀院への行幸が行われる。その席で、源氏は頭中将と二人で青海波を舞うことになる。行幸に行けない藤壺の為に、帝は事前に宮中で試楽(予行演習)をさせることになった。二人並ぶと、
源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。と描写される。源氏の謡いや舞いはあまりにすばらしく、帝は心配になり、禍が源氏に及ばないように寺々に祈祷をさせる程であった。
(源氏は、青海波を舞った。相方は、左大臣家の頭中将。顔立ち所作など、人にぬきんでているが、源氏に立ち並んでは、花の傍らの木立だった。)
秋の紅葉賀に続き、二月には桜花の宴が開かれた。そこでは、舞いを舞い、詩文を作って、遊ぶのであったが、そこでも源氏の天賦の才は際立っていて、人々の賞賛の的だった。その夜、酔い心地で内裏の奥の藤壺のいる辺りをさ迷っていると、たまたま戸口の開いていた細殿に忍び入り、「朧月夜に似るものぞなき」とうたいながら来る女と契ってしまう。誰とも知らず、その場は扇を交換して別れたが女も源氏を憎からず思った。
惟光に女の素性を探らせて、相手は右大臣の息女、弘徽殿の女御の妹らしいことをつきとめた。
三月になり右大臣邸で藤の花の宴が開かれて、源氏も招待され、そこで女と再会した。それは右大臣の娘、弘徽殿女御の妹だった。しかもその春、東宮に入内予定だった。女は、有明の君または朧月夜と呼ばれる。
花宴から二年がたっている。桐壷帝が譲位し朱雀帝が即位した。藤壺の子が東宮になり、源氏が後見に指名される。
六条御息所は、源氏との絆を絶って、娘の斎宮と一緒に伊勢へ下ろうとしていた。賀茂の祭りの御禊の日、行列に供奉する源氏の姿を一目見ようと見物に来ていた六条御息所は、葵の上の車と下人たちが場所取りの争いになり、御息所の車は奥へ押しやられ車は壊されて、ひどいはずかしめを受けた。
一方お産に苦しんでいた葵の上は生霊に憑かれていると思われ、さかんに加持祈祷が行われた。源氏が御簾に入って葵の上に慰めの言葉をかけていると、いきなり懐かしそうな声で、
いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありけると生霊が現れ、御息所その人特有の仕草もして、彼女の生霊が葵の上に取り付いていたのだとわかった。御息所の方では、加持祈祷に使われた芥子の香が衣や髪についてとれないのであった。
(いいえ、違います。この身がすごく苦しいので、しばし祈祷をやめていただきたいのです。こうして来るつもりはなかったのですが、物思う人の魂は、実に体を離れてさ迷うのです。)
六条御息所は、源氏への愛情を絶とうと決意し、娘の斎宮とともに伊勢へ下ろうとしていた。源氏は秋の風情の深い神域の野の宮(下向前の仮寓)に別れの挨拶に行く。
遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。ここで源氏は、明け方まで逢って、六条御息所との最後の逢瀬となる。
(広々とした野辺を分け入ると、深い秋の気色があった。秋の花はみな衰えて、一面に枯れた雑草から虫の音も絶え絶えに聞こえ、松風が強く吹いて、何の琴の音かわからないがかすかに聞こえて、まことに趣があった)
亡くなった桐壷院の麗景殿女御は院から格別のご寵愛を受けていたわけではなかったが、穏やかで品があり、親しみやすい人だった。院の没後は後見がなかったので、源氏が庇護していた。内裏でたまさか逢っていた妹の花散里と一緒に住んでいた。花散里訪問の途中、中川という所で、昔一度通った女の邸の前を通りがかり、惟光に行かせたが、女は内心残念がり、やんわり断ったのも、もっともだと思う。その時の地の文に、源氏の女に対する扱い方が述べられている。
いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。麗景殿と昔話にふけり、夜遅くなって訪れて花散里を驚かす。花散里は温和な家庭的な性格で、裁縫・染色に堪能で、後に夕霧の母親代わりになり、また夕霧の子供を二人預かって育て、内助の功に徹する。
(どんな女でも、源氏は心の休まる時がなく気を遣った。年月を経ても、会ったことのある女には、情けを忘れないので、多くの女たちの物思いの種であった)
桐壷院が逝去して、朝廷は右大臣派の権勢下になり、左大臣は嫌気がさして、官を辞して隠居した。源氏は、春宮に累が及ぶことを怖れ、決定的な打撃を受ける前にみずから身をひこうと決意した。物語で語られていないが、無実の嫌疑をかけられ、刑が下る前に、自ら身を引こうと決意したのである。隠退の地は須磨にした。源氏はわずかなお供を連れて須磨に下った。家族と別れて、源氏に忠誠を誓って侍する供たちがいた。住まいは唐風の仮住まいで、現地の有り合わせの材料で作ったが、風流な装いだった。右大臣をはばかって、須磨を訪れる人はなく、源氏にとっては、都の人々と便りを交わすことだけが慰みであった。文の送り先は、紫の上、花散里、藤壺、朧月夜、伊勢へ行った六条御息所等々である。それぞれ別れを惜しんだ人たちであった。
太宰大弐という者が上京の途次、須磨へ寄って挨拶をした。娘の五節は思慕の情に乱れた。
時流を怖れず、頭中将が見舞いにきて、一日旧交をあたためた。
明石入道は、源氏が須磨にいることを知り、千歳一隅の時とばかり、娘を源氏に差し上げる決意する。
海辺で禊をしていると、何の気配もなく突然、海が荒れ雨が激しく降り、雷が鳴り、夢のなかで、怪しい者が現れる。龍王が源氏の美しさに魅入られたようで、源氏は住まいを移ろうと思う。
突然、世の終わりかと思わせる大嵐が須磨を襲い、嵐は幾日も続いた。源氏は住吉明神に一心に祈った。落雷で邸の一部も炎上した。紫の上からの文では、都も異変続きの天気らしく、政務も行われていないらしい。
ようやく嵐がおさまり、夢に桐壷帝が生前そのままの姿で現れ、このような所にいては駄目だ、この浦を去りなさいと告げるのだった。
これは、ただいささかなる物の報いなり。我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世を顧みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことのあるによりなむ、急ぎ上りぬるそれに呼応するように明石から舟をしたてて、明石入道が源氏を迎えに来る。入道にも夢に、迎えの舟を出せとお告げがあったのだった。源氏はこうして入道の邸のある明石へ移った。海辺の館は堂々たる造りだが、岡辺のほうに数寄屋造りの瀟洒な住まいがあって、入道の娘が住んでいた。娘は父ゆずりの琵琶の名手だった。入道はなんとかして娘を源氏にさし上げようとしていた。
(これは、ちょっとしたことの報いなのだ。我は帝であった時、過つことはなかったが、自ずから罪を犯していたので、その罪の償いに忙しくて、この世を顧みる暇はなかったが、おまえがひどい苦境に落ちているのを見て、堪えがたくなり、海を渡り渚に上がって、ひどく疲れたが、ついでに内裏へ奏すべきことがあり、これから急いで京へ上る)
明石から帰京してから、源氏は父桐壷院の法要を催し、孝養を尽くした。翌年2月、病がちであった朱雀帝は退位し、冷泉院が無事即位した。ここで右大臣一派の勢力は退潮する。源氏は内大臣になり、致仕の大臣は摂政太政大臣になり、すべて復権を果たした。
明石では、明石の君に姫君が生まれた。さっそく源氏は、田舎では教養ある乳母を見つけるのも難しいだろうと思い、宣旨の娘を説得して乳母として派遣した。宿曜の占いは、
御子三人、帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべしすべて当たっていると思う。この時点で明石の幼子が后になる道筋がみえていたのだろう。
(御子は三人で、帝、后は必ず揃ってお誕生になるでしょう。次男で劣る子は、太政大臣になり、人臣を極めるでしょう)
源氏が須磨・明石に退去していた間また都に帰ってからも、末摘花のことはすっかり忘れていた。末摘花はひどい困窮の状態になっていた。
もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の棲みかになりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所得て、やうやう形を現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに・・・末摘花の不如意を見かねて、母方の叔母が大弐になった夫の赴任にともなって太宰府に行くので同行するよう誘うが、末摘花は同意しない。乳母子の侍従が長年献身的に仕えていたが、大弐の甥と一緒になったので、叔母に同行して離れることになった。
(元々荒れていた邸の中は、ますます狐の棲家になって、気味悪く、人気のない木立に梟の声が朝夕に聞こえるが、人の住む気配があればこそ、気味悪いものたちも姿を隠していたが、今は木霊など怪しいものたちが我が物顔に姿を現し、もの侘しいことのみが数々あって・・・)
常陸の介に任じられた伊予介は、空蝉も一緒に下向していたが、任期があけて上京した。おりしも源氏はお礼参りで石山寺に参拝するところであり、逢坂の関の関屋で行き会うことになった。
昔、文使いで召されていた小君は衛門の佐となり、また空蝉との間を往復する。やがて伊予介は年を重ねて、亡くなってしまう。下心がある継子の紀伊守は空蝉にやさしく接するが、空蝉は出家する。
六条の御息所の娘は斎宮の任を解かれ、帰京した。前斎宮は美しく、朱雀院は伊勢へ送り出す時に、見初めていたが、源氏は藤壺と計って、冷泉帝に入内させて、梅壺を賜った。すでに頭中将の娘の弘徽殿が若い帝と年頃も合い、帝の寵愛を受けていたが、前斎宮は絵が得意で、同じ嗜好の冷泉帝と馬が合った。帝の寵愛が移るのではないか、頭中将は心配する。こうして、どちらがいい絵を持っているか競争になった。帝の御前で藤壺中宮も出席され、左右にわかれて優劣を争い、帥の宮が審判することになった。源氏は梅壺側に肩入れし、最後は源氏が須磨の絵を出して梅壺側が勝利した。
兵部卿の宮も大切に育てている娘がいて、入内させようと願っているが、この二人の間に割って入る余地はなかった。
この年、冷泉帝13才、弘徽殿女御14才、梅壺女御(前斎宮)22才であった。
源氏は、二条院の東院を造営している。花散里はそこに移ってもらう予定であった。部屋もたくさん用意した。
明石の君と姫君を明石に残したままなので、都に来るように勧めるが、明石の君はあまりの身分の違いに躊躇して決心がつかない。結局、姫君の養育も考え、上京することになった。
入道は、大井川のほとりに、母尼君の祖父中務の宮の別邸があって放置していたので、そこを改装して住めるように手配した。入道は明石に残り、尼君と明石の君と姫君の3人が上京して、大井川のほとりに住んだ。
源氏は、大井への通いは容易ではなく、嵯峨野に造営中の御堂の監督、また近くに桂の院といって、別荘もあった。源氏はそれらの造作を監督する口実で、大井を月二回程訪れた。紫の上の機嫌は悪く、明石の君の上京を説明し、姫君を養女としてひきとって養育を頼むことで、ようやく機嫌を直すのだった。
源氏は、姫君の将来を思って、姫君を二条院に養女として引き取り、紫の上が養育することになった。幼子と明石の君の悲しい別れがあった。
源氏の舅の太政大臣(左大臣)が亡くなった。
母后の藤壺入道も37才の厄年で亡くなった。
朝顔の君の父の式部卿の宮も崩御する。
冷泉帝は、藤壺の宮家に古くから仕える夜居の僧から、源氏が実の父であることを知る。しきりに続く天変は、父源氏への礼を尽くしていないことが原因と思い、帝位を源氏に譲ろうとするが、源氏は硬く固辞する。秋の司召で太政大臣への推挙も固辞する。
故六条御息所の娘の女御(元斎宮)が二条院に里下がりし、源氏と春秋の比較を話題になり、紫の上は春を好み、元斎宮は秋を好んだ。以後、秋好中宮と呼ばれる。
大井の明石の君はどうしているか。源氏は絶えず思ってはいるが、なかなか行けなかったが、嵯峨での念仏勤行を口実にして、通うのだった。
父式部卿の宮が亡くなり、朝顔の君は斎院を退下し、式部卿の宮の旧邸桃園の宮に移った。そこに前斎院の叔母にあたる五宮も住んでいて、そのお見舞いを口実に、源氏は桃園の宮を訪れ、邸がすでに荒れはじめているのを感じる。
女房の宣旨の案内で、朝顔の君と面談するが、源氏の求愛に対し、朝顔の君は容易に応ずる気配がない。世上、源氏と前斎院の結婚がとりざたされていた。紫の上はそれに悩んでいた。
この邸で、尼になった源典侍に偶然出会うのだった。こちらの邸に仕えていたのである。
夕霧は12歳で元服するが、源氏の意向で、六位という低い位に止めて、学問に専念させるべく、大学に入学させ、二条院に学問所を設けて、環境を整える。翌年春、帝の御前の試みで、進士に合格し、侍従に任じられる。
雲居の雁は、母が頭中将と離別し按察使大納言の北の方になったので、大宮が預り可愛がって世話をしていた。夕霧も大宮の邸によく遊びに来て一緒に遊んだ。幼いながら二人は恋心をもっていた。頭中将はそのことを知り、大宮に、苦情を申し立て、雲居の雁を自邸に引き取ってしまった。頭中将は、雲居の雁を機会を見て入内させようと考えていたのである。
冷泉帝に立后の時期がきて、誰を后にするかの競合があった。三人の女御がいた。先に入内した頭中将の娘の弘徽殿、源氏が後見している故六条御息所の娘の前斎宮と、式部卿の娘の女御であった。その中で、源氏の推した前斎宮が立后して中宮になった。
源氏の一族が隆盛を極めていく。源氏は太政大臣になり、頭中将は内大臣になる。
冬、源氏は五節の舞姫に惟光の娘を推挙する。夕霧は、その舞姫の美しさにひかれる。舞姫の兄に頼んで文を届けてもらう。娘は喜び、惟光もそれを知って喜ぶ。内裏に出さず、夕霧にさし上げようと思う。
源氏は花散里に、夕霧の後見を託す。母親代わりだった。
源氏は、故六条御息所の邸の一部を含め、六条に四町からなる広大な邸の造営を計画し完成させる。四季折々に応じたそれぞれ美しい邸になる。世話する女たち、紫の上、花散里、明石の君、秋好中宮をそれぞれの邸に住まわせる。源氏と紫上は春、花散里は夏、秋好中宮は秋の景色を配した御殿に住んだ。
少し後に、明石上が冬の景色の御殿に大井から移り住んだ。
源氏の絶頂期である。
廃院で、夕顔が急死してから。長い年月がたったが、源氏は夕顔のことを忘れる時がなかった。あのときその場にいた右近も今は紫の上に仕えていた。もし夕顔が生きていたら、明石の上くらいの待遇は受けていたはずと悲しく思うのだった。
夕顔の遺児玉鬘は、乳母の夫が太宰の少弐になって任地に赴任するため、母夕顔の安否がわからぬまま、乳母と一緒に任地へ行った。任期の5年が終わるころ太宰の大弐が亡くなり、姫君の美しさは評判になり、なかでも、大夫の監といってこの地域に権勢のある者が、求愛してきた。弟たちを味方につけた大夫は、結婚の日取りを決めて迫ったが、長男の豊後の介は父の遺言を守り、一家で京へ上る決断をした。妹も夫子どもを置いて上京した。豊後の介一行は、逃げるように早舟で上京した。
知り合いの所に落ち着いて、寄る辺なく、石清水八幡に詣で、初瀬の寺に詣でて願掛けをする。そこへたまたま初瀬詣でに来ていた夕顔のかっての侍女の右近がこの一行を見て話しかける。
右近から話を聞いた源氏は、六条の院に玉鬘を迎える。長男の豊後の介は家司となった。源氏は、夕霧同様、花散里に玉鬘の世話をお頼みになる。源氏には、美しい姫を目当てに弟の兵部卿の宮など出入りする貴公子たちの心を惑わして楽しもうという心づもりもあった。
源氏は、年末には女君のひとりひとりにそれを装ったときの姿を想像しながら、新年の衣装を配るのだった。
年改まり、六条院の新年を迎える様子が描かれる。
年立ちかへる朝の空のけしき、名残なく曇らぬうららかげさには、数ならぬ垣根のうちだに、雪間の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。まして、いとど玉を敷ける御前の、庭よりはじめ見所多く、磨きましたまへる御方々のありさま、 まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。年が改まり、邸うちは実に晴れやかに新年を迎えた。年末に贈った衣裳が晴れの日にどのように着られているか、見る楽しみもあり、源氏は、六条院だけでなく、二条院にもわたって、末摘花やの空蝉の処にも新年の挨拶まわりをする。紫の上は春の御殿に住み、梅の香も御簾の内に入ってきて、「生ける仏の御国とおぼゆ(極楽浄土のようだ)」と描写される。 夏の町には花散里が住み、「実にひっそりして、風流をてらうこともなく品よく住んでいる」と描写される。 美しい玉鬘の処にも寄って、冬の町明石の君の住まいに行き、この日はここに泊まり、夜明け前に紫の上の処に帰るのだった。
(年が改まった朝の空の気配、晴れ渡ったうららかな空模様は、数ならぬ者の家の内にも、雪の間から若草が色づきはじめ、春待つけしきの霞がたち、木も芽生え、おのずと人の心ものびやかに見えてくる。まして、六条院は、玉を敷きつめった御前の庭からはじまって見所が多く、磨きたてた女君たちの御殿の様子は、そのまま形容しようにも言葉が足りないだろう)
隆盛を極める源氏の生活ぶりが続く。
今をときめく源氏の六条院では、春の盛りに、龍頭鷁首の舟を作り、池に浮かべて舟楽を催すなど、楽しみを極めていた。
折から、秋好中宮が里帰りしていて、その女房たちを舟に乗せ、紫の上の女房たちを釣り殿に集め、かじ取り童はみなみづら結いにして、すべて唐風に仕立てて、他では盛りが過ぎた桜もここでは満開で、池の水に映る山吹が咲きこぼれ、水鳥がつがいで遊び、このようにして六条院では日を暮らした。
翌日は中宮の季の御読経の初日であった。六条院に集まった人々は、帰宅せず、休み処をかりて衣裳を改めて、そのまま参加した。
紫の上も供花を鳥・蝶の童女に歌を添えて献上させた。ここで紫の上と中宮で歌の相聞があり、去年、春秋の優劣を中宮と競ったが、この歌で春の優位が決まったようだ。
一方、玉鬘 の処に、男たちから文が多数来るようになった。中でも熱心だったのは、玉鬘が父の子と知らない内大臣の子息の柏木、北の方と不仲な状態にある髭黒の右大臣、今は独身だが召人をたくさんかかえている兵部卿の宮の三人だった。
源氏は恋文の扱いを教示し、返書について教えているうち、親代わりどころか、源氏自身の好き心が出て、玉鬘に添い臥して、恋心を打ち明ける。
玉鬘は、他に頼る人もなく、困惑し苦悩と不安の日々送るのだった。
養父としてではなく、男として玉鬘に言い寄ろうとする源氏の態度に玉鬘は悩んでいた。玉鬘への熱心な求婚者の中でも、源氏は、それとなく異母弟にあたる兵部卿の宮を推薦して邸に招くのだった。宮の求愛のやり方を拝見しようとして、御簾の奥の玉鬘を蛍の明かりの許で見させようとして、蛍を集めておいて、放つなど演出をする。
五月五日、花散里の丑寅の町の馬場で、夕霧の引き連れてきた左衛門府の官人たちによる騎射の催しが行われ、花散里、玉鬘方の童女たち、南の町の紫の上づきの童女たちも着飾って見物した。
五月雨の時季、六条院の女君たちは、絵物語に無聊をかこつのだった。玉鬘も物語に熱中し、わが身の数奇な来し方を振り返ってみたりした。
夕霧は雲居の雁を思い続けるが、内大臣に頼むのは潔しとしないでいた。
一方、女房たちにも邸の誰にも気づかれぬように、源氏は玉鬘に何とかして近づこうとする。内大臣は玉鬘の素性をまだ知らない。
夏の猛暑の日、源氏は釣り殿に出て涼んでいる。夕霧や右大臣の子らが集まり、殿上人たちも鴨川の鮎などを持ってやってくる。
夕暮れになっても誰も帰らない。源氏が玉鬘のいる西の方へ行くと、皆ついてくる、一目噂の姫を見たいのだ。
雑談で、最近話題になっている右大臣が引き取った近江の君という娘の話になる。柏木が近江の田舎で父内大臣の子だという娘を見つけたのだ。人々は近江の君の破天荒な振舞いに、あきれ、扱いかねていた。内大臣も手を焼いて、弘徽殿女御の里帰りの間、女御に預けて、しつけてもらおうと思っていた。
源氏は玉鬘に和琴を教えていた。それも玉鬘に近づく口実になった。
源氏は相変わらず玉鬘への恋慕が止まず、折々に玉鬘を訪れていた。しかし、源氏は自制している。
内大臣は雲居の雁と夕霧の仲を認めようとも思うが、夕霧が折れてきそうにないので、自分からは言い出せないでいる。意地の張り合いになっている。
常夏は「なでしこ」の古名です。
季節は秋。残暑の折、庭前に篝火をたかせ、源氏は釣り殿に涼んでいる。夕霧の処に頭中将の子息、柏木と弟の弁少将が来て、集っている。三人と源氏が楽を奏で始める。玉鬘は御簾の奥で聞いている。
源氏の恋心も危険なほどではないと、玉鬘は馴れてきて、一線を越えない程度で、相手をしている。
琴を枕辺において、そろって添い寝するときもあった。それ以上無体なことは起きなかった。こんな男女の仲もあるのかと思う。
秋好む中宮の御殿の庭は秋色で鮮やかになり、秋草の花の景観は目を奪うほどだった。中宮は色が変わってゆくのを惜しんでいた。春を愛でる人も、この秋には及ばないと心変わりするほどだった。強い野分がやって来た。その夕刻、野分の見舞いに訪れた夕霧は、何気なく紫の上の対を通ると、妻戸が開いている隙からおくが見通せて、明らかにその人が見えた。普段から、近づかないように注意されていたので、はっきり見たことはなかったのである。夕霧にうつった紫の上は、つぎのように描写されている。
御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。 あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。野分が激しく吹いた翌朝、夕霧は大宮のいる三条院へ見舞いに上がり、それから源氏のいる六条院へ嵐見舞いにむかった。それぞれの様子を聞いてから、源氏は怖がりの中宮を見舞うように指示し、夕霧は、源氏が自ら女君たちに順に中宮、明石の君、玉鬘、花散里と嵐見舞に尋ねるお供するのだった。
(屏風も、風が強く吹いているので、折りたたんで寄せていて、すっかり見通せる廂の御座にいた人、紛れもない、気高く清らかで、さっと照り映える心地して、春の曙の霞の間から、風情のある樺桜の咲き乱れるのを見る心地がした。うっとりして見ている自分の顔に移ってくるかのように、愛嬌が匂い散ってきて、実に珍しく稀有な人の有様であった)
その年の師走、冷泉帝の大原野への行幸があった。源氏も参加を請われたが物忌みを理由に辞退した。玉鬘は大勢の見物人とともに見学した。
玉鬘に求愛している兵部卿宮も髯黒右大将も参列した。念願の父の内大臣の姿も目に止めた。玉鬘は宮中の上達部たちが一堂に会した行列を見て、帝にまさる美し人はいないと思った。
源氏は玉鬘に尚侍として宮使いを勧め、玉鬘は帝の寵を受けることなく一般職として側に仕えてお目通りできるなら、その方がよいと思う。
一方、玉鬘の裳着の儀が源氏によって計画されていた。この際、やはり内大臣に玉鬘があなたの娘だと告げて腰結いを内大臣のやってもらおうと源氏は計画したが、事情をよく知らない内大臣は母の病気を理由にいったんは断った。
高齢な大宮は病がちになり、夕霧は頻繁に見舞って世話していたが、源氏も見舞いに上がったとき、玉鬘のことを宮に話した。ご無沙汰をしていた内大臣は慌てて母を見舞うことになり、三条邸で二人は面談し旧交をあたためるのだった。玉鬘の裳着の儀の腰結い役を内大臣は引き受けることになった。
裳着の儀では、内外から多くの祝いの品が寄せられた。
近江の君は、玉鬘の厚遇を聞いて、嫉妬した。内大臣邸では、近江の君は、笑い者、厄介者扱いされていた。
大宮が亡くなり、孫にあたる夕霧や玉鬘は喪に服している。
玉鬘は内侍の職が決まり、十月から出仕の予定になっている。玉鬘は色々と悩んでいた。秋好む中宮や弘徽殿の女御と、帝寵を競うようなことになったら、どうしよう。様々な人が玉鬘に文を寄せてくるが玉鬘はほとんど見ず、女房たちが読み上げるのを聞いているだけである。蛍兵部卿の宮と髭黒の大臣が玉鬘に熱心に求愛している。
柏木は腹違いの妹になるとわかって、身を引いた。
夕霧も血のつながりがないと知ると、心を寄せるようになる。源氏の使いで、内裏からの要件を伝えに玉鬘の処に行ったとき、恋心を伝える。その時の歌のやりとりが巻名となっている。
そのなかで、玉鬘は蛍兵部卿へは返事を書いたりしている。髭黒は相変わらず熱心に言い寄っている。
藤袴は欄の古名です。
誰もが意外に思ったが、玉鬘は、無骨な髭黒の手中に帰した。源氏も承認せざるを得なかった。意に染まぬ結婚に玉鬘は落ち込み、髭黒は大喜びだった。
髭黒の北の方は、式部卿の姫君で、気の病で乱心がちで、玉鬘の処へ出かけようとする髭黒に後ろから灰を浴びせかけたりした。
父の式部卿の宮は、北の方を自邸に引きとることにする。髭黒と北の方の間には十二三歳位の姫君と十才と八才の男子があり、北の方は、子供たちを連れて出ることになった。後で、子息二人は髭黒が連れ帰った。姫君は父が大好きで、邸を離れるとき、歌を詠み、真木柱の隙に挟み込んだ
。
今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るなこの巻の巻名はこの歌による。
(今はもうこの家を去りますが、馴れ親しんだ真木の柱はわたしを忘れないでおくれ)
年が明けて、明石の姫君の裳着の儀式の準備に忙しくなる。二月には春宮の加冠の儀が予定されており、それに合わせて姫を入内させる計画である。裳着の当日、秋好む中宮に腰結いの役を頼んだ。
正月の月末で公けの行事も少ない頃、源氏は、薫香比べを企画した。ご夫人方にそれぞれの香りを作ってもらうのである。二品以上の品を組み合わせることにする。蛍兵部卿の宮が来たので、薫香比べの判者に頼んだ。薫香比べの後は、内大臣の子息たちも来て、宴が行われた。
入内の準備のひとつとして、草子が集められた。最上の筆と貴重な紙で装丁をした冊子を用意して、知りうる名筆に製作を依頼した。源氏は何ごとも昔はすぐれたものが多いが、仮名こそは、近年昔よりすぐれたもの出てきている、と感想を述べている。
よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。蛍兵部卿宮もやって来て、宮家に伝わる嵯峨天皇の『古万葉集』四巻、醍醐天皇の『古今和歌集』を持参して、一緒に御覧になりその日を楽しむのだった。この二冊はそのまま源氏に贈呈した。源氏の箱には当代の能書家といわれる身分の高い人々の書いた草子、巻物などがたくさん集まっていた。源氏は、当今の名筆として、六条の御息所を挙げていて、手習いの時みて衝撃を受けたと語っている。次に当代の、名筆として朧月夜と朝顔の君と紫の上を挙げる。また自分も負けないものを書くと自負している。
(すべてのことに、今のものは昔に劣り、末世になって悪くなっているが、仮名だけは今の世のものが優れている。昔の筆跡は決まった書き方があったようで、自由な変化がなく、どれも似通っている )
大宮のもとで一緒に育った夕霧と雲居の雁は恋仲になったが、内大臣は大宮の教育を不満に思い、雲居の雁を自邸の引き取ってしまい、二人は離れ離れになっていた。夕霧は文は折々に出していたが、長いあいだ辛抱して、自分から内大臣に懇願しなかったので、内大臣は、自分の処置を反省し、大宮の命日の法要の場で、夕霧に侘びるのだった。後日、御前の藤が美しく咲いているからと、夕霧を自邸に招待した。それが二人の間を認めるしるしだった。その日、夕霧は、酔ったので宿を貸してほしいと頼み、雲居の雁と契った。雲井の雁は女らしく美しくなっていた。
明石の姫君の入内には、北の方として紫の上が付き添ったが、最終的に明石の君が後見として、宮中に参内した。このとき、明石の君と紫の上は初めて面談し、互いの人となりを理解し、親しくなるのだった。
源氏は四十になり、世はこぞって四十の賀祝う雰囲気になる。源氏は准太上天皇の位を賜る。「帝王でもなく臣下でもない」との高麗の相人の予言は、ここに成就するのだった。内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言になった。
夕霧と雲居の雁は、住まいを大宮が住んでいた三条殿とした。昔から仕えていた女房達も残っていて、喜ぶのだった。
冷泉帝は朱雀帝を誘って、源氏の六条院へお越しになった。源氏一家の繁栄は、今は絶頂期だった。
源氏は准太上天皇になり、その日常が淡々と語られる。
朱雀院は病気がよくならず、出家を希望している。しかし皇女たちを見捨てて出家するわけにもゆかず、特に可愛がっている女三の宮の後見を探していた。しかるべき人を婿にと心を砕く。夕霧も候補にあがったが、結婚したばかりで除外され、源氏に白羽の矢が当たる。源氏は当初辞退したが、朱雀院を見舞い、懇切に頼まれて、藤壺中宮や紫の上の血筋にもつながることでもあり、結局女三宮の後見を承諾する。
年が明けて、玉鬘は源氏の四十の賀を祝い、若菜を献じた。巻名はこの時の歌の言葉による。この年は、源氏の四十の賀の祝いが次々と続き、紫の上が嵯峨野の御堂によせて祝い、秋好む中宮が奈良・京の寺々に祈祷を頼んで祝い、冷泉帝が、夕霧に主催させて四十の賀を祝い、それぞれそのあとの宴や管弦の遊びが続いた。
二月十日過ぎ女三の宮は六条院に輿入する。紫の上は悲しみを抑え夫の婚儀の支度を務める。女三の宮はただ若いだけの姫君であり、源氏の相手をするには幼すぎて、源氏はいたく失望する。
明石の女御は待望の男子を出産、明石の入道は、長文の文を送り、その中で自分が昔夢見た宿願が実現したことを語り、それ故に、山深く入ると伝える。入道は、明石女御が生まれた年に見た夢をありありと語るのだった。
朱雀院の出家を後追いしようとした朧月夜は、院に思いとどめられる。源氏は朧月夜を訪問して、昔のよりを戻した。
一方、柏木は、当初から女三の宮を望んでいたが、六条院に招かれ蹴鞠の遊びをやっていた時、猫が逃げたはずみに御簾をひっかけて、奥の女三の宮の姿をかいま見てしまう。それから悶々として、この恋が叶えられないかと心を乱していた。
冷泉帝が退位し、今上帝が即位する。明石の女御腹の第一皇子が春宮となる。
明くる年は朱雀院の五十の賀が執り行われる。源氏は、それを計画する女三の宮を後見する。
源氏は准太上天皇になり、その周辺の日常が淡々と語られる。六条院で、競射を催したり、女神楽を催したりする。源氏は夜な夜な女三宮に琴の秘曲を伝授する。
柏木は、女三の宮が忘れられず、ちらっと見た猫だけでも手許に置きたく、猫好きな春宮の処に行き、女三の宮の猫と血統の同じ猫をもらい受けて、女三の宮を偲ぶのだった。
真木柱は蛍兵部卿と結婚するが、夫婦仲は良くなかった。宮は亡くなった北の方が忘れられず、その面影を追いかけていた。真木柱が亡くなった北の方に気配も似ていないのにがっかりして、つれなく扱うのだった。
源氏は願果たしで住吉神社へお礼参りに行くが、何ごとも控え目に準備したつもりが、自ずから、今を盛りのその盛大な権勢を見せることになった。
六条院では、女神楽を計画し、その練習に明け暮れた。女三の宮へ源氏は、琴の秘曲を直接伝授した。
柏木は、女三の宮を諦められず、代わりに姉の二の宮と結婚するが、本命ではなく、適当なあしらいであった。
女三の宮お付きの女房は、小侍従といって、柏木の乳母の姉妹で三の宮の乳母の娘であった。柏木は小侍従を説得して手引することを承諾させた。
一方、紫の上が病になり、重篤になって、一度は息絶えるが、源氏が御息所の死霊のなせることだと喝破し、祈祷を続けさせると、紫の上は生き返った。
柏木は、小侍従の導きで女三の宮の寝屋に入り、強引に、長年の思いを遂げた。
女三の宮は妊娠した。柏木は体の具合が悪くなり、邸こもって寝込むようになった。
源氏は、紫の上が死ぬかも知れない心配の中、女三の宮を訪問した時、柏木が不用意にも遣った文を、敷物の隙から見つけて密通を疑う。
柏木の病は回復の兆しはなく、病に伏しながらも、女三の宮に文を出す。宮は思い出すのも嫌な出来事なので、返事を書く気はないのだが、小侍従に促されていやいやながら書いたのを小侍従が届ける。
女三の宮は妊娠し、男子を出産する。薫である。
女三の宮は出家したいと思う。
ある夜、密かに、朱雀院は女三の宮が心配で、宮を訪問する。三の宮は、院に出家を願いでる。源氏は反対するが、院は許可し、僧を呼び、その場で剃髪し出家させる。急きょそうさせたのは、宮にとりついた六条御息所の死霊のしわざであった。
物の怪は、紫の上にとりつき、女三宮にも憑りついたのである。
柏木は見舞いに来た親友の夕霧にそれとなく事情をほのめかし、落葉の宮に対する配慮を頼み、遺言めいたことを残して、亡くなる。
夕霧は柏木の遺託を口実に、しばしば弔問に一条の宮を訪れる。落葉の君が目当てであるが、一条邸には、
母御息所と落葉の宮が住んでいる。落葉の宮の地味な存在に夕霧は惹かれるようになる。
柏木の一周忌になった。源氏は内心ひそかに薫のぶんとして、黄金百両を別に包んで奉納したので、柏木の父の到仕の太政大臣は訳も知らずその厚志に喜ぶ。
朱雀院は、山寺の周辺の筍や山菜を三の宮に贈る。
夕霧は、柏木の遺志をふまえ、一条院に御息所と落葉の君を訪問する。落葉の君と想夫恋を合奏する。御息所は柏木の遺愛の笛を夕霧に贈る。
邸に戻ると、女房たちが夕霧が落葉の君にご執心の噂話をしていて、北の方の雲居の雁は機嫌が悪くなる。
夕霧は夢に柏木が現れ笛を手に取っているのを見る、笛の相伝は別の人を考えていたらしい。
六条院の源氏を訪問すると、幼子たちがまとわりついてくる。後の、匂い宮と薫であった。一条院へ行ったことを源氏に報告する。笛を譲られた話をすると、その笛の由来を知っている源氏は自分が預かるという。この笛は柏木の子の薫へ伝授すべきものと源氏はひそかに思っている。夕霧は、柏木に何があったのか不審に思うが、それとなく源氏はほのめかすが、明かさないのだった。
女三の宮の持仏開眼供養が行われる。源氏は仏具一切を整える。紫の上も力を合わせ、美しい幡や布施の僧服などを用意する。源氏が建設中の念誦堂の調度類もついでに一緒に供養する。
出家した三の宮が三条の院へ移りたがっているので、源氏は必ずしも賛成でなかったが、三条院の整備をする。
秋になり、虫の音を楽しむべく、秋の虫を集めて庭に放つ。それを、三条院で愉しみ、六条院でも楽しむのだった。
十五夜で、蛍兵部卿や夕霧や上達部たちも集まり、合奏して楽しんだ。冷泉院からお召しがあり、六条院にいる限りの公卿たちが皆、内裏へ舞台を移して、十五夜を楽しむ。
秋好む中宮は、冷泉帝が退位して、気楽な立場であったが、母六条御息所の霊の妄執の噂を聞き、母の霊が苦しんでいるのを救いたいと、出家を希望するが、源氏にたしなめられ、追善供養をすすめられる。
夕霧は、亡き柏木の親友として、下心もあって、あとに残されたものの面倒を見ようとしている。柏木の北の方だった朱雀院の二の宮の落葉の君である。母の一条の御息所と一緒に住んでいた。夕霧の恋心は、柏木・横笛の巻に続く。
御息所は物の怪がついて病がちであったので、修行僧に物の怪を懲らしてもらうべく、山の近くの小野の山荘に移った。夕霧は二の宮の後見人のように装って、二人を訪問する。遅くなっても居続けて、二の宮の部屋に侵入して、意中を打ち明けるが、宮は聞こうとしない。宮の部屋に忍び込んで、朝まで迫るが、結局何ごともなく、見かけは朝帰りのようになって、帰るのだった。
その姿を祈祷僧が見て、御息所の知るところとなり、御息所は宮の後見を夕霧に託そうかと迷いながらも、それを許すような文を出す。そうこうするうち母の御息所は亡くなった。
夕霧は葬儀や法事などの手配をあれこれとして、簡素な式を盛大なものにした。
夕霧は強引に宮との結婚を策して、車などを手配し、宮を一条の邸に連れ戻す。宮は塗籠に入って、夕霧を避けるが、夕霧はついには塗籠に入り、翌日も一条邸に居続けて、一見して二人の結婚が成立したように見えるのだった。宮は心を許さなかったが、成り行き上諦める。
堅物だった夕霧の恋は、周囲を驚かし、雲居の雁は怒って、相手の返書を隠したりするが、ついには嫉妬にかられて、実家へ帰ってしまう。
夕霧と雲居の雁の間には、七人(4男3女)の子がいて、みな出来がよかった。ほかに内侍腹に五人(2男3女)の子がいた。二人の子は花散る里が引き取って育てていた。源氏も可愛がっていた。
紫の上の病状は一向によくならない。紫の上は再三出家を願うが、源氏は生きている間離れたくないとして、許可しない。
紫の上は、書き溜めた法華経千部を供養すべく、紫の上の自分の邸、二条院で行うことになった。紫の上は事細かにその準備するのだった。
紫の上が病床に伏している二条院に、明石の中宮や花散る里が来て、それぞれ別れをして、歌を贈る、巻名はこの時の相聞による。
紫の上は大事に育てた明石中宮に看取られて死んだ。
夕霧は、昔かいま見てその美しさに驚いた紫の上の死顔をゆっくり見て、改めてその美しさに打たれる。
帝をはじめ、致仕大臣、その他の高位高官たちの弔問はひきもきらずやってくるのだった。
物語の作者は、紫の上の生涯を通してその人となりを次のように書いた。
世の中に幸ひありめでたき人も、あいなうおほかたの世に嫉まれ、よきにつけても、心の限りおごりて、人のため苦しき人もあるを、あやしきまで、すずろなる人にも受けられ、はかなくし出でたまふことも、何ごとにつけても、世にほめられ、心にくく、折ふしにつけつつ、らうらうじく、ありがたかりし人の御心ばへなりかし。一方、紫の上をなくした源氏の悲しみは尋常でない。源氏は自分の生涯を振り返って、とても出家できないのではないかと嘆くのだった。
(世に幸運な人も、困ったことに世間に嫉まれたり、高い身分の人でも、奢って周りの人を困らせる方もあるのに、紫の上は不思議なほど、何でもない人にも評判がよく、ほんの少しのことをやっても、それが何であれ、世にほめられ、奥ゆかしく、その折々につけて、行き届いていて、世にもまたとないすぐれた人柄であった)
紫の上亡き後、源氏は籠って弔問や新年の拝賀の人々にも合おうとせず、悲しみの日々を過ごしている。わずかに蛍の宮に対面したほかは、女房たちと故人の思い出にふけるのだった。何ごとにつけ、源氏は悲しみ、法事を行い、自身の出家の準備をする。四季折々に昔を思い、悲しみに沈むのだった。
12月末、仏名会に、源氏は人々の前に姿を現し、導師をねぎらう。暮れの仏会に出た源氏の姿は、晩年になっても、高齢の僧が源氏を見て、その美しさに涙を流すほど源氏は美しかった。
導師と歌の贈答をして、年の終わりとともに、わが一生も終わったことを源氏は悟るのであった。源氏最後の歌。
もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 年もわが世も今日や尽きぬる (41.16)源氏は来る年賀を格別のものにしようと思っている。こうして光る源氏の物語は終わる。次には「雲隠」の巻名だけがあり、文章がない。源氏が亡くなったことが暗示される。
(物思いばかりして月日が過ぎるのも知らぬ間に今年もわが生涯も尽きようとしている)
八年の空白がある。紫の上が亡くなり光る源氏も亡くなり、昔の頭中将の致仕の大臣も亡くなった。今まで舞台を占めていた人々が去り、ここから源氏の孫の時代になる。
世間では、源氏亡きあと、世に優れた将来ある若者として、今上帝の中宮の明石の君腹の三の宮である匂宮と、女三の宮の子の薫が双璧と評判だった。匂宮が一歳年上である。二人は同じ邸で育ち幼少時から仲がよかった。薫はいつの頃からか、自分の出自に疑問を感じ、どことなく内省的な性格だった。薫は、生まれつき身体に芳香があり、どこにいてもわかるのだった。匂宮はそれに張り合って薫物に凝り、世人は二人を匂う兵部卿、薫る中将ともてはやした。
匂宮は紫の上から伝領した二条院に住んでいた。夕霧の子女では、典侍腹の六の君が美人の誉が高い。夕霧は姫を匂宮へと心づもりしている。
夕霧は、落葉の君を六条の院丑寅の町に迎え、三条殿の雲居の雁のもとと、月に十五日ずつ律儀に通う。
この巻は、突如、舞台が変わって、右大臣家の状況が語られる。
致仕の太政大臣家(旧頭中将)では、柏木亡きあと、次男の按察使大納言が跡を継いだ。紅梅大納言ともよばれる。紅梅と亡くなった北の方との間に、娘が二人いて、大君と中君と呼ばれていた。大君は東宮の妃として宮中に上がり、麗景殿に住んでいた。紅梅は中君を匂宮にと思っている。
一方、北の方亡きあと、紅梅は、蛍兵部卿の宮の未亡人真木柱に通い、今は、晴れて北の方に迎えている。紅梅と真木柱の間には童殿上している子が一人いて、若君と呼ばれている。
真木柱には、故蛍兵部卿との間に、琵琶の上手な宮の御方という連れ子があった。とても恥ずかしがりやで、義父にも容貌をを見せようとしないのだった。異母姉妹は分け隔てなく習いものも一緒にして育てられた。宮の御方はとても控えめな性格で、結婚など考えられなかった。
大納言は庭に美しく咲く紅梅を一枝摘んで和歌につけ、匂宮の気をひこうとして若君に持たせるが、匂宮は気乗りがしない。匂宮は宮の御方の方に興味があった。巻名はこの場面による。
この巻の冒頭で次のように記される。
これは、源氏の御族にも離れたまへりし、 後の大殿わたりにありける悪御達の、落ちとまり残れるが、問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、「源氏の御末々に、ひがことどもの混じりて聞こゆるは、我よりも年の数積もり、ほけたりける人のひがことにや」などあやしがりける。いづれかはまことならむ。これからは、前とは別の物語だと改めて語っているのである。源氏一族のその後の物語だと言っているのである。
(これは、源氏一族から離れて、後の太政大臣の髭黒に仕えていたおしゃべりな女房のなかで、生き残った者たちが、問わず語りしたもので、紫の上の話に似ていないが、彼女たちが言うには、「源氏の末裔について、間違ったことが混じっているのは、年寄りの女房がぼけて喋ったものです」などと言っている。どちらが本当なのか)
ここから54帖夢浮橋までの十帖は、俗に宇治十帖と呼ばれ、物語は宇治を舞台に新しい展開になる。主な登場人物は、匂宮、薫、八宮、八宮の娘の大君、中君、それに八宮の認知されない子の浮舟などである。
薫は、冷泉院の御前で、ある高僧の阿闍梨から、仏典に詳しく聖のような生活をしている宇治の八宮のことを聞き、ぜひお会いして教えを請いたいと思った。
八宮は、一時、弘徽殿の女御の画策により、帝の後継に祭り上げられる事件に巻き込まれたが、とりわけて後見もなく、その後は俗世が嫌になって、宇治でひっそり暮らしていた。
薫は、宇治へ通って、三年がたったある日、宇治を訪問すると、八宮は寺にこもって修行中であった。薫は、二人の娘、大君と中君が合奏しているのを聞いて魅了され、挨拶に伺った。
姫君や女房たちが戸惑っているところへ、弁という老いた女房が現れ、亡くなった柏木のことで、薫の出生に関してお告げしたいことがあり、改めてゆっくりお会いしたいという。老婆は柏木の乳母子弁だった。彼女は柏木の形見の品を薫に手渡すことを目的に後半生を生きてきたのである。
八宮は、自分の死後、娘二人の後見をそれとなく薫に頼み、薫は了承した。
薫は大君の落ち着いた気品と優しさに惹かれていた。
一方、薫は匂宮に宇治の姫君たちのことを話し、宮は興味をそそられるのだった。橋姫は宇治川にかかる橋の守護神です。
匂宮は、長谷寺の初瀬詣でに出かける。ずっと以前の願果たしだったが、ほんとうの目的は薫から聞いた宇治の姫君たちだった。
匂宮は帝や后に格別の寵愛を受けていたので、殿上人がこぞってお供した。源氏から夕霧が伝領した邸が、宇治の山荘の川向にあり、夕霧たちも子息そろって歓待した。匂宮一行はそこに泊まって、管弦の遊びをした。八宮は川向うから昔懐かしく聞こえて来る楽の音を聞いた。
匂宮は川向こうに文を出した。八宮は中の君に返事を出すよういう。以後、匂宮と中の君の文のやり取りがなされる。
薫は八宮の山荘に出向いて、お迎えした。弁尼をよびだして、大君と歌の交換をする。
薫は八宮から、姫たちの後見を託され、承諾した。
八宮は、娘たちに次のような訓戒をのこして、山寺へ行った。軽々に山里を出てはいけない、ここで生涯を終えるのが定めと思いなさいと。
おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべきそうこうするうち、八宮は山寺で修行中、死んでしまう。
(充分に頼りになる人でなくては、人の甘言になびいて、この山里を出てはいけません。ただ、人と違ってこのような特別の定めと思って、ここで生涯を終えようと思いなさい。一途にその気になれば、歳月は何でもなく過ぎてしまうものです。まして女は、女らしくひっそり閉じこもって、不体裁な評判にならないよう非難を浴びないのがかしこい生き方です)
八宮の一周忌に薫は宇治を訪問した。姫君たちは経の飾りの糸を編んでいた。総角のその結びの糸に寄せて、薫は大君への思いを歌に詠む。そこで大君に恋慕の情を切々と訴えるが、大君は薫の後見としてのこれまでの気配りに感謝しているが、薫の慕情には応じない。大君自身は結婚する気はなく、中の君を薫にと考えていた。
ある夜、薫は大君の寝所に迫るが、大君は中の君と寝所を入れ替え、自分は隠れて、中の君と薫が実事なく一夜を明かすこともあった。
秋の暮れ時雨れるころ、宮が気軽に宇治に出掛けることもできず、物思いに沈んでいた頃、薫がさそって、二人でひとつ車で出かけた。道々、宮は中の君への恋慕の情を薫に語るのだった。
弁尼は薫と思って、匂宮をは案内してしまい、匂宮を中の君の処へ入れた。二人は契ることになった。一方薫は大君に恋心を訴えるが、大君は応じない。二人は実事なく朝を迎える。
第二夜第三夜と匂宮は通い、第三夜には薫は祝いの品を用意するのだった。
そうこうするうち、大君は心労が重なったのだろう、病を得て、あっけなく亡くなった。
薫は深く悲しんだ。
一方匂宮は、夕霧の娘の六の君との縁談を勧められていた。宮は気乗りがせず、中の君を京へ迎えることを考えていた。母の明石中宮は、匂宮に宇治に女がいることを知り、一の宮付の女房に迎えたらと勧めた。
年が明けると、新年のあいさつとともに、山寺の阿闍梨から、いつものように蕨や土筆が届けられた。
匂宮は、母后にも帝にも外出が過ぎると忠告されて、気軽に宇治へ出かけられず、中君を京へ呼ぼうと考えた。薫も賛成し、宇治の山荘は、髭の宿直人と弁尼が残ることになった。中君は二条院へ移ることになった。二条院は、薫が三条院に住んでいるので、隣町である。
一方、夕霧は六の君に匂宮を迎えるべく裳着の準備をするのだった。宇治から、思いもかけぬ女を呼び寄せる宮を、夕霧は不快に思うのだった。
移転も落ち着いたころ、薫は二条院の桜を見がてらに中君を訪問するが、匂い宮は二人の仲を疑うのだった。
今上帝の女二宮の母藤壺女御は、宮が十四歳のとき、裳着の支度をするうちに亡くなった。宮は帝の寵愛が厚く、薫が帝と碁を打っている時、帝は、女二の宮を薫に許す内示をするのだった。
匂宮は、宇治にいる中君を京の二条の邸に移した。住まいが近くなったので、薫は時々は訪問し、昔話にふけるが、大君が中君を薫へと思っていたのに、何故自分のものにしなかったか、薫は後悔するのだった。
薫は大君が恋しく、宇治に、大君の人形を作り御堂を建てる考えを中君に漏らす。中君は、ふと思い出して、大君にとてもよく似た姫がいることを薫に告げる。
夕霧は六君に匂宮を迎えるべく、強引にことをすすめるのだった。匂宮は、中君が気の毒で、口に出して言えないうちにその日がきた。
六君は、思ったより、かわいらしく穏やかで、匂宮は気に入るのだった。匂宮は、六条の院に北の方の六の君の処に通い、また中君の処にも通わなければならない。
中君に男の子が生まれた。
薫は、宇治へ行き、弁尼と昔話をし、宇治の山荘を山寺に移築して御堂を建てる考えを伝える。
移築の様子を見ようと、薫は宇治へ寄ったとき、長谷寺の初瀬詣での帰りに立ち寄ったある姫君の一行に遭遇した。その姫君を垣間見た薫は、大君に似たその気配に強く引き付けられた。浮舟であった。
浮舟の継父常陸の介は東国の受領暮らしで財を貯え、それを目当てに求婚者は多かった。立派な縁組みをさせようと、母はその中から、左近の少将を婿に選んだ。しかし結婚の日も迫ったころ、少将は浮舟が介の実子でないことを知り、まだ幼い実子の娘を所望し、介は喜んで承諾するのだった。母は、このまま浮舟を実家においておくわけ人もゆかず、中の君にしばらく預かって貰うことにして、都に出てきて、中の君に浮舟を預けた。
しかし、そこで偶然匂宮が浮舟を見つけて、新しい女房かと思って、強引に迫った。母君はその話を聞いて驚き、浮舟を三条の隠れ家に移した。これを聞いた薫は、すかさず浮舟を連れ出し、宇治へ連れて行ってかくまうのだった。
薫は、浮舟を宇治の邸に一時的に隠したが、いずれ京へ迎えようと思っていた。匂宮は垣間見た浮舟を忘れることができず、宇治から中君の処に来た新年の挨拶の文で、宇治にあの女がいることを知り、薫の邸の事情に通じた家司に探らせて、薫が宇治に女をかくまっていることをつきとめ、お忍びで宇治へ行った。
薫と偽って部屋に入り、首尾よく契りを結んだ。匂宮はすっかり浮舟に夢中になり、浮舟も一途な匂宮に惹かれた。匂宮はその後も、忘れられず、お忍びで宇治へ行き、舟で宇治川の向こう岸の仮屋にまで行って、二日間二人で逢瀬を重ねるのだった。
巻名は、このときの小舟のなかで唱和した歌による。
宮も浮舟を京へ連れて来るべく住まいの準備をした。薫は、浮舟を京につれてくる段取りをしていたが、匂宮の微行をそれとなく気づいて、宮を近づけない為に宇治の警備を厳重にするよう申し付けた。一時は浮舟を宮に譲ろうかとまで思ったが、浮気な匂宮が手を付けた女を、姉の一宮の侍女にしているのを思い、浮舟をそんな扱いにさせたくないと思うのだった。
匂宮と薫と、二人の男に愛された浮舟は、どちらか一方に思いを寄せることができず、身の置き所がなくなって、思いつめて入水を決意した。
浮舟失踪の翌朝、宇治の人々は何がどうなったか分からず、右往左往するばかりだった。右近は昨夜の母君への手紙を開けてみて、入水の覚悟を知った。母からも宮からも使いが来たが、事情を伝えることもできない。
やがて母君もやって来て、入水の噂が世間に広まるのを恐れ、山寺の僧たちを呼び、亡骸のないまま荼毘に付し、葬送をすませてしまった。
薫は母の病気祈願で、石山寺に籠っていたが、御庄の人からの使いから聞いて、「このような一大事では自ら行くべきだが、今は参篭中で、身を慎んでいるので、葬儀などは日を延べてもよかったが、死んでしまってものはどうしようもない。御庄の田舎者に、人の一生の最後の作法を軽んじた、と批判されるのもつらい」と思い、四十九日の法事を手厚く催すのだった。
薫は、明石の中宮の法華八講にでて、中宮方の女房の小宰相に会うため訪れたとき、女一の宮をかいま見て、その美しさにひかれる。薫は妹で妻の女二宮に同じ装いをさせて見たが、比べようもなかった。
一方、故式部卿の娘が、元皇族の身で、継母が並みの男に縁づけようとしたことに、中宮が哀れに思って引き取り、女一宮の相手として侍女にした宮の君の運命の変遷を、薫はあわれに思うのだった。
そのころ、横川の僧都という高徳の僧が比叡山に籠っていた。母尼が、初瀬詣でに行った帰り急病になり、妹尼からの連絡で急きょ下山し、近くの院に宿をとると、そこの裏庭の大木の根元に意識を失った若い女が倒れているのを見つけて、部屋につれてきた。妹尼は、亡くなった娘の身代わりと喜び、大切に世話をするのだった。
母尼と妹尼は住まいにしている小野の山荘に、その若い女も一緒に連れ帰った。重態の状況が続くが、僧都に下山してもらい加持祈祷をつづけると物の怪が退散して、ようやく意識を取り戻した。浮舟は、決して身元を明かそうとしなかった。出家したい、死んでしまいたいと思うばかりだった。浮舟はわずかに手習いにその鬱々とした心情を託すのだった。巻名はこれによる。
妹尼の亡き娘の婿であった中将なる者が、浮舟を垣間見て、興味を示すのだった。
一の宮の具合が悪くなり、天台座主が祈祷したがよくならず、横川の僧都が呼びが出された。内裏に向かう途中、僧都は小野の山荘に寄った。その時を捉えて、浮舟は尼にしてくれるよう切に頼んだ。今夜内裏に行くので、戻ってからと僧都が言うのだが、妹尼君が願果たしで初瀬詣中だったので帰ってくると反対されると思い、今すぐ、戒を授けてくれるよう頼み、髪をおろして、尼になった。
戻ってきた妹尼は、僧都を恨んだが、後の祭りだった。
浮舟の一周忌に当たり、妹尼の甥の紀伊の守が薫の処に出入りしていて、薫のその後を語ったり、紀伊の守が薫に頼まれた浮舟の法事の布施を、尼たちに頼んで調達するのを見たりするのだった。
一の宮の病は僧都の祈祷で良くなり、話好きな僧都は、不思議な若い女の話を、中宮にした。女房の小宰相も一緒に聞いていた。後にその話を聞いた薫は、真偽を確かめようと、横川の僧都を訪ねるのだった。
薫は、叡山の根本中堂に経仏を供養して、その足で横川に寄って僧都に会い、浮舟の発見された様子や出家に至った経緯を、僧都の口から直接聞くのだった。僧都は薫の深い愛執の思いを察して、出家させたことを後悔した。薫は僧都に小野の山荘に案内してくれるよう頼んだが、僧都はそれをやんわり断り、代わりに、浮舟に一筆書いて薫が来たことを知らせ、その中で還俗を勧めるのだった。
今朝、ここに大将殿のものしたまひて、御ありさま尋ね問ひたまふに、初めよりありしやう詳しく聞こえはべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あやしき山賤の中に出家したまへること、かへりては、仏の責め添ふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。 いかがはせむ。もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはるかしきこえたまひて、一日の出家すけの功徳は、はかりなきものなれば、なほ頼ませたまへとなむ。ことごとには、みづからさぶらひて申しはべらむ。かつがつ、この小君聞こえたまひてむ薫は弟の小君を使いに出して、文を持たせたが、浮舟は小君に会おうとしなかった。小君は会うこともできず、薫の文に返書もえられず空しく帰るのだった。誰にも知られないで終わりたいという浮舟の気持ちは強かった。
(今朝、こちらに大将殿が来られて、あなた様の状況を訊ねられましたので、初めから事情を詳しく述べました。愛情の深かった御方に背を向けて、あやしい山がつの中で出家したことは、かえって仏の責めを受けかねないと思い、承って驚きました。 仕方ないことです。元の夫婦の契りを損なわずに、大将殿の愛執の罪を晴らして、一日の出家の功徳は、はかり知れないので、還俗しても安んじてその功徳にあずかることができましょう。詳しくはそちらに赴いて申し上げます。とりあえず、この小君に託しました)
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