紫式部 ある解釈
式部の宮仕えは、はじめの二、三年は里居がちで、あまり精勤ではなかったらしい。そのことは寛弘五年(1008)の日記の中 でさえ新参意識しばしばみられることからも推察されよう。そしてこの期間こそ、道長や倫子の庇護のもとに『源氏物語』を長編物語として着々と書き進めていた時期であったと思われる。この間ことに道長の強い後援があったことはいうまでもなく、当時貴重であった紙や墨の供給をはじめ、経済的物質的な援助を受けたことであろう。
このような道長の絶大な庇護があってこそ、『源氏物語』は長編物語としての完成を見たといっても過言ではあるまい。そして式部自身も道長の寛大な包容力に惹かれ、やがてその情を受け入れるまでになったものと思われる。女郎花や梅の実の贈答をはじめ、日記に散見される道長への賛辞や温かいまなざしは、『尊卑文脈』に「御堂関白妾」とある注記を裏付けるもので、式部が道長の召人であったことは疑問の余地はないと思われる。
『源氏物語』は、物心両面における道長の強力な庇護のもとに、彰子中宮サロンないし道長・倫子を含めた土御門サロンを初期の享受層として、世に送りだされたものと認められる。
式部の宮仕えがいつ頃まで続いたかは明徴を欠くが、一条天皇崩御の寛弘八年以後も、皇太后宮となった上東門院彰子に引き続き仕えていたいたことが確認されている。ことに長和二年(1013)ごろには、道長に批判的な立場の小野宮実資の重要な用件を取り次いだりしていて、皇太后女房として重きをなしていたことが知られる。今井源衛氏はこの長和二年に式部が宮廷を退いたと推定されているが、『源氏物語』もこの頃までには「宇治十帖」を脱稿していたであろう。その没年は、岡一男氏の説によれば長和三年、推定年齢四十二歳であった。
紫式部日記解説 中野幸一 校注・訳 『和泉式部日記・紫式部日記・更科日記・讃岐内侍日記』 日本古典文学全集(小学館)より