様々な思想


思想とはもの思うことの言いである
   

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海苔巻の端っこ 向田邦子
  街をあるいていて、小学生の遠足に出くわすことがある。子供に縁のない暮らしのせいか、そっとリュック・サックを触ったり、
 「何が入っているの」
 と尋ねたりする。
 「サンドイッチとサラダ!」
 「チョコレートにおせんべいとガム!」
 「お菓子は二百円以内!」
 子供達は弾んだ声で教えてくれる。
 水筒の中身もジュースが圧倒的に多い。
 リュックの形も中身も、私の子供時代とは随分変わってきいるなと思う。
 今のリュックは赤や黄色やブルーのナイロンやしなやかなズック地が多いが、戦前のリュックは、ゴワゴワしたゴム引きのようなズック製だった。私が持っていたのは寝呆けたよいうな桃色で、背中にアルマイトのコップを下げるかんがついていた。駆け出すと、カラカラと音がして晴れがましいような気分になった。
 リュックの中身もおにぎりか海苔巻と茹で卵。あとはせいぜいキャラメルと相場が決まっていた。水筒の中身も湯ざましか番茶だった。 
 わが家の遠足のお弁当は、海苔巻であった。
 遠足の朝、お天気を気にしながら起きると、茶の間ではお弁当作りが始まっている。一抱えもある大きな瀬戸の火鉢で、祖母が海苔をあぶっている。黒光りのする海苔を二枚重ねて丹念に火取っているそばで、母は巻き簾を広げ、前の晩のうちに煮ておいた干ぴょうを入れて太めの海苔巻を巻く。遠足に行く子供は一人でも、海苔巻は七人家族の分を作るのでひと仕事なのである。
 五、六本出来上がると、濡れ布巾でしめらせた包丁で切るのだが、そうなると私は朝食などそっちのけで落ち着かない。海苔巻の両端の、切れっ端が食べたいのである。
 海苔巻の端っこは、ご飯の割に干ぴょうと海苔の量が多くておいしい。ところが、これは父も大好物で、母は少しまとまると小皿に入れて朝刊を広げている父の前に置く。父は待ちかまえていたように新聞のかげから手を伸ばして食べながら、
 「生水を飲まないように」
 「知らない木の枝にさわるとカブレるから気をつけなさい」
 と教訓を垂れるのだが、こっちはそれどころではない。端っこが父のほうにまわらぬうちにと切っている母の手許に手を出して、
 「あぶないでしょ。手を切ったらどうするの」
 とよく叱られた。
 結局、端っこは二切れか三切れしか貰えないのだが、私は大人は何と理不尽なものかと思った。
 父は何でも真中の好きな人で、かまぼこでも羊羹ようかんでも端は母や祖母が食べるのが当たり前になっていた。それが、海苔巻に限って端っこがいいというのである。
 ひと頃、ドラキュラの貯金箱が流行ったことがある。お金をのせるとジィッと思わせぶりな音がして不意に小さな青い手が伸びて、陰険というか無慈悲というか、嫌な手つきでお金を引っさらって引っ込む。何かに似ているなと思ったら、遠足の朝、新聞のかげから手を伸ばして海苔巻の端っこを食べる父の手を連想していたのだった。
 我ながらおかしくて笑ったが、不意に胸の奥が白湯でも飲んだように温かくなった。親子というのは不思議なものだ。こんな他愛もない小さな恨みも懐かしさにつながるのである。  
 小学校の同級生にNという女の子がいた。資産家の娘で、式の日には黒いビロードの服を着てきた。二階建ての大きな西洋館の邸に住んでいたが、遊びに行って驚いたのはNが靴のままうちへ上がることであった。Nだけではない。弟や妹も、二、三頭いた大型の飼犬まで泥靴泥足のまま絨毯の上を走り回る。絨毯はスレて垢すりのようになっていた。ピアノの上にもカーテンにも、真っ白にほこりがたまっていた。
 幼い弟達の耳や手足も白くひびわれ、ぜいたくな服装もよく見るとほころびが切れていた。生別なのか死別なのかNには母親がいなかった。使用人が二、三人いたが、何時に帰って何時にお八を食べようが何もいわれなかった。
 私達が食堂でお八つを食べていたら、父親が帰ってきた。飼っていた外国産の鼻の長い犬と同じような顔をした人で、大学の先生だという。口ひげが半分茶色なのを子供心に不思議だなと思っていた。これもほこりだらけのサン・ルームで鸚鵡おうむがけたたましい声を立てていた。父親はチラリと私達を見ただけで全く表情を変えずに引っ込んだ。
 あれは何年生の時の遠足だったのか、私の隣でお弁当を開いたNが、不意に両手で顔を覆って泣き出した。膝の上の海苔巻のうち一本に包丁が入っていなかった。
 Nには間もなく新しい母が来た。結婚もクラスで一番早かった。やや暗い美しい人だったから幸せに暮らしているとばかり思っていたが、結婚後間もなく不治の病に冒され亡くなったことを最近知った。
 青草の上に投げ出したNの細い足と黒い上等のエナメルの靴。当時はまだ珍しかった甘い紅茶の入った魔法瓶。そして一本丸のままゴロンと転がっていた黒い海苔巻が眼の底によみがえってきた。
 端っこが好きなのは海苔巻だけではない。羊羹でもカステラでも真中より端っこが好きだった。我が家は到来物の多いうちだったが、どういうわけかすぐに手を付けないのである。
 お仏壇にあげてから。
 お父さんが召し上がってから。
 なんのかんの理由をつけて先へ延す。蒸し返しの当てもなく来客にも出せなくなってから、子供用にお下げ渡しになるのだが、その頃には羊羹色の羊羹の両端は砂糖にもどって白っぽくジャリジャリしている。それがいいのである。
 カステラの端の少し固くなったところ、特に下の焦茶色になって紙にくっついている部分をおいしいと思う。雑なはがし方をして、この部分を残す人がいると、権利を分けて貰って、丁寧にはがして食べた。
 かまぼこや伊達巻の両端。
 木綿ごしの豆腐の端の、布地のついた固いところ。
 ハムやソーセージの尻っぽのところ。
 パンでいえば耳。
 今でもスナックのカウンターに座っていて、目の前でサンドイッチに包丁を入れているバーテンさんが、ハムやレタスのチラリとのぞく耳を惜しげもなく断ち落とすのを見ると、ああ勿体ないと思ってしまう。
 寿司屋のつけ台でも同じで、海苔巻や太巻きを巻いている板前さんが、両端をスパッと切ると、そこは捨てるの?それとも誰かが食べるんですかと聞きたくなる。
 これは端っこではないが、南部煎餅せんべいのまわりにははみだした薄いパリパリの部分。
 鮭カンの骨。
 こういうところが好きで仕方がない。
 何だか貧乏たらしくて、しんみりして、うしろめたくていい。
 端っこや尻っぽを喜ぶのは被虐趣味があるのではないかと友人にからかわれたがこれは考え過ぎというもので、苦労の足りない私はそんなところでせいぜい人生の味を噛みしめているつもりなのだと理屈をつけている。
 
 子供の頃、お焦げが大好きだったのも、端っこ好きの延長かもしれない。戦前、祖母が生きていた時分は、ご飯炊きは祖母の役と決まっていたから、朝目を覚ますとパジャマのまま台所へ飛んでゆく。手拭いを姉さまかぶりにしてかまどの前にしゃがんで、長い火鉢で燠を取り、火消壺に入れている祖母に、お焦げを作ってくれたかどうか尋ねる。
 「バリバリいってから七つ数えたから大丈夫だよ」
 そういわれると安心してセーラー服に着がえる。祖母は、父にかくれて、お焦げで作った小さな塩むすびをひとつ作って、そっと私に呉れるのである。痩せぎすで癇の強い人だったせいか、塩もきつめで、きっちりと太鼓型に握ってあった。 
 実においしいと思った。
 今から考えれば、米も水も塩もよかったのだろう。かまどで、固い薪で鉄の釜で炊くご飯。しかもアツアツのお焦げで握るおにぎりである。
 父に見つかると叱られるというスリルもあった。祖母に見張っててもらい、蝿帳はいちょうのかげで目を白黒させて食べるのである。
 食べ終えて、祖母に手を拭いてもらってから、洗面所横の小部屋をのぞく。顔中をシャボン(当時は石けんといわずそういった)の泡だらけにした父が、母の鏡台の脇につるした革砥かわと剃刀かみそりを研いでいる。私がうしろに立つと、父は、わざと大袈裟に頬をふくらませたり鼻の下を伸ばしたりおかしな顔をしてみせながらひげを当たる。
 私はお焦げのおにぎりがバレなかったな、と安心して、父のどてらの袖をもってやったりして手伝うのである。
 
 端っこ好きは食べるものばかりではないようで、子供の時分から今までの記念写真などを真にいるのはほとんどない。必ず後列の端にやっと顔だけをのぞかせている。
 映画館や喫茶店へ入ったときも同じで、無意識のうちに隅っこを探している。私のような人間から見ると、端の席が空いているのに、真中の席に座り、屈託なく飲んだり食べたりする人は羨ましく仕方ない。
 学生の頃、九人制バレーボールで、中衛のライトをしたことがあったgs、その名残か、右側に他人がいると落ち着かなくて困った。もうそんなことはないが、体の片一方、もしくはに壁を背負うと気持ちが多少落ち着いてくる。
 それでも二度ほど広間の真中に座る破目になったことがある。一度目は十年ほど前に一人で関西へ用足しに行った時だった。京都にはもを専門に食べさせる高名な店がある。名前を覚えていたので電話帖で調べ、お昼を予約した。電話がひどく遠いようだが、「どうぞお越し」といっているようなので探し探しでかけて行った。
 見つけて驚いたのだが、腰掛け割烹のつもりで行ったら堂々とした料亭なのである。向こうは向こうで、まさか女が一人でくるとは思わなかったらしく、一番大き部屋しか空いていない、と多少当惑している風であったが。だが、若主人らしい人が、ボストン・バッグを下げている私を見て、奥へ案内してくれた。
 かなり広い座敷である。
 困ったことになった、と思ったが、今更引っ込みがつかない。覚悟を決めて席につき、次から次へと運ばれる鱧料理を頂戴した。中年の仲居さんが世話をしてくださったのだが、終わり際にこういうのである。
 「私は随分長いことこの商売をしているが、この広い座敷で女一人で床柱を背にして悠々とお酒を飲み料理を食べた人はそうはいない。どこのどなたさんですか」
 こうと判れば来ませんでしたともいえないので、名前を名乗るほどの者ではございませんと恐縮した。仲居さんはつづけて、
 「あんたさん、きっとご出世なさいますよ」
 このとき、隣の部屋の間じきりの襖が音もなく一センチほど開いた。そこから幾つもの目がのぞいている。隣の部屋は中年の女性が十人ほどで会合をしているらしく、関西弁のあけすけな世話話が聞こえていたのだが、どうやらけったいな客を覗いておいでになるらしい。
 八つ目鰻を食べにきたんじゃないのよ、といいたかったが、折角ご出世なさいますと太鼓判を押して下すっているので、やめにした。   
 ご出世のひとことにくすぐられたのか心付けのほうも私としては破格の弾みようで、板前さんから仲居さん一同、店の前にならんで見送って下すった。タクシーに乗ってから、どっと汗がでた。
 二度目は七、八年前、赤坂のあるホテルに仕事でカンズメになった時だった。全国市長会議があるので、一晩だけ和室の大広間に引っ越しをして下さいという。狭い所に飽きていたので喜んだのだが、入ってみて愕然とした。
 五十畳だか六十畳の大広間の中央に屏風をたて廻し、座り机がひとつポツンと用意されている。大文豪ならいざ知らず、駆け出しの三文ライターである。おまけに何より端っこの好きな貧乏性である。もぐらがいきなり土の上にほうり出されたようで、体中がムズムズしてとても駄目ですからっと机を引っぱり部屋の隅にもってきた。
 やっぱり駄目なのである。
 端だから落ち着くのではない。狭い所の隅だから気が休まるのである。大広間の隅っこでは広さが気になってどうしようもない。明かりを消すと不気味だし、あかあかとつけるとまた白々しい気分になる。仕方がないので真中に出て体操してみたり、布団をしいて寝てみたが、どうにも格好がつかない。
 何年か前に見た映画のシーンが頭に浮かんだ。エミール・ゾラの伝記映画で、ドレフュス事件にかかわったゾラが書斎で執筆中にランプの不完全燃焼がもとの事故亡くなるのだが、この時の書斎が堂々たる広間なのである。しかもゾラの机は、部屋の中央に斜めに置いてある。
 こういう位置で、大傑作が書けるというのはやはり私ごときとは人間の出来が違うんだな、と思った。
 次に思い出したのは、「ラプソディ・イン・ブルー」のガーシュインの仕事場である。これも広大な山荘の広間で、五十畳はありそうな真中にグランドピアノが据えてある。
 この二人を皮切りに、古今東西の芸術家諸先生の机の位置についてあれこれと想像をめぐらせた。
 トルストイは、鴨長明は、紫式部は、シェークスピアは、大きい部屋で書いたのか、小さい部屋か、机は大か小か。位置は真中か隅っこか、置き方はまっすぐか斜めかー。
 私は、物を書く人の容貌や体格はその作品と微妙に関わっているという説を持っているが、それにもうひとつ、書斎の広さと机の位置を考えなくてはならないなと思った。そんなことを考えているうちに世は明けてしまい。遂に一行も仕事にならなかった。
 こういう古今の大人物とわが身を比べるのは烏滸おこの沙汰だが、今これを書いている机は、居間の隅っこの壁に田螺たにしのように、はりついている世にも情けない小さな机である。 
 机の上にはビールの小壜。
 サラミ・ソーセージの尻っぽのギザギザになったところを噛み噛み書いている。筆立てには捨てきれずにいるチビた鉛筆ー。
 ご出世なさいますよ、と保証してくださった京都の仲居さんには申し訳ないが、このていたらくでは見たて違いというほかはなさそうである。

向田邦子のベストエッセイはどれだろう。山本夏彦は、「傷だらけの茄子」「海苔巻の端っこ」「父の風船」「ゆでたまご」「スグミル種」をあげている。この人は、「向田邦子は突然あらわれてすでに名人である」と絶賛した人である。5品選んで、「できない相談」と書いてそれでも、あえて5品をえらんだ。私もとりあえずひとつ、「海苔巻の端っこ」をえらんでみた。小学生の邦子と父親の関係が見事だ。大好きなお焦げのおにぎりを食べるとき、父に見つからないように、「祖母に見張っててもらい、蝿帳はいちょうのかげで目を白黒させて食べるのである」 とてもおかしい。何とも微妙な表現だ。 管理人

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公開日2023年6月24日