最後に姉と出掛けたのが、草月会館であったシャンソン歌手のコラポケールのコンサートだった。券が一枚余っていて、私を誘ってくれたのだ。
コンサートはとてもよくて、知っている歌もあったけれど、知らない歌の方が多かった。歌詞はフランス語なので分からないけれど、やっぱり本物のプロ歌手はすごい。本当にいいと泣けてくると思って、帰り道、「すごいね、知らない曲が多かったから、意味はわからないんだけど、泣けてくるように胸が痛くなった」と姉に言ったら、「それでいいのよ。だから私、あなたと一緒に行くのよ」と言ってくれた。その言葉を聞いて私は本当に嬉しかった。
姉には大勢の友人がいるし、専門的なことを語り合える人もたくさんいるだろうから、なぜ私をコンサートや芝居に誘うのかと不思議に思ったこともある。でも姉はいつも、「専門的な理屈はどうでもいい、感じてくれればいい」と言った。
「感じるだけでいい」『向田邦子の青春』向田和子 編著
私自身、小さい頃から学校の勉強が嫌いで、家で猫や犬の世話をしたり、庭で草木をいじったり、家事の手伝いをしている方が向いていたが、姉に勉強ができないからダメだと言われたことはない。
私は授業中、先生に「わかった人は手をあげて」と言われても手をあげなかった。当てられれば答えられることでも、みんながわかっているなら、私があげる必要はないとおもっていた。
万事がその調子だった、他の人からは、「あの子、ぼーっとしていて、何を考えているのかわからない」と思われていたのだと思う。でも、私はひがんだりしたことはまったくない。自分は自分だと思っていた。
姉は私をいつも対等に扱ってくれた。九つ違いでも、子ども扱いはまったくしなかった。映画を観にいって、「あれ、良かったね」と一緒に楽しんだ。感受性が強かった私は、映画を観ながらぽろぽろ泣いたものだった。姉はそこを見ていてくれていたのだと思う。私のことを決してダメだと言わなかった姉には、とても感謝そいている。
「対等に扱ってくれた」『向田邦子の青春』向田和子 編著
三人の姉兄はどこの学校でもいつも優秀なクラスで一番か二番だったが、私には東京の学校の授業は難しく、チンプンカンプンで成績が悪かった。
・・・私は父に通信簿を見せるときは、酔っぱらって機嫌のいいときと決めていたし、ごまかして見せないこともあった。母は学校できっと注意されていたと思うが、私は叱られたことがなかった。
「姿勢が悪いから気をつけるように。知能指数は良いのに、成績が悪いのは、どうしてかしら、といわれたわよ。数学の時間、できた人から校庭で遊んでよろしいというと、いつも、一、二番に出ていくのに。算数は得意なのね。徒競走は一番ね」
そして、父兄通信簿はいつも母か姉の邦子に頼んでいた。六年生の最後の通信欄に、姉は「やや、積極性に欠けるが、やらせれば最後まで責任をもってやりとげる」と、書いてくれた。子供心にもメチャクチャにうれしかった。『かけがえのない贈り物』向田和子著
向田邦子と妹和子の関係がわかってとても感動して読んだ。姉邦子の知られざる面がたくさん紹介されているが、それにもまして、妹和子の素直な性格がよく出ている。最後の頁に、猫をだいて正面からとった写真がいちまいあった。誰と説明がない。それまでたくさんの向田邦子の写真を見た、が違うだろう。いい写真、と思った。上手に年を取った和子氏本人の写真なのか。 管理人