様々な思想

   

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日本の歴史 戦争への道

私が物心ついてからですが、1930年代の後半から日中戦争は続いていて、だんだん太平洋戦争に近づいてくる。米国に戦争を仕掛けて、結果はもちろん敗けるわけですから、そうなるのをどこで止められたかということです。
その過程をずるずるそのままいかせないためには、どういう機会があったか、どうしてそういうことができなかったのかという問題がある。今から振り返ってみますと、30代もおしつまってからは、はっきりと、いわゆる翼賛体制で軍部を中心にした対中戦争がどんどん拡大していった。それをなんとか正当化しながら、ますます戦争を続けていくという傾向は、国内では批判意見を潰すという形で出てきた。
その一つの転機になったのが、やはり1936年の2・26事件です。2・26事件が起こった時、私は中学生だったのですが、私の中学校のそばで、いわゆる反乱軍が大蔵大臣とか内大臣を暗殺して、首相官邸などを占拠した。その事件が起こった時はどういうことなのかあまりはっきりしなかったけれど、わりに早い時期にだんだんその意味が明瞭になってきた。当時、陸軍の中に大体二つの流れがあった。一つは皇道派。天皇が直接作った政府を中心にして改革をしようという考え方です。もう一つは、統制派。皇道派に対して、もう少し陸軍の現在の構造を維持したまま、その政策をだんだんに変えていくという派です。現在使われている言葉でいうと、やや原理主義者に近い考え方が皇道派です。
その皇道派が軍事クー・デターを起こしたのが2・26事件です。そしてそれが失敗した。弾圧したのは統制派です。片方が他方の派を弾圧したのだけれど、しかしそれは、ただ単純な弾圧ではない。皇道派の起こしたクー・デターを統制派が弾圧したけれど、同時にそれを利用した。つまり政治権力の内部で陸軍の発言権を強大にした。それが本当の意味です。そして、その年の夏に、陸軍大臣現役武官制復活が議会を通った。
これは陸軍の圧力があったから通ったのですが、これを通してしまうと、今度はもう数年後にはたちまちそれを利用して、陸軍が権力を伸ばしていくことになる。
これは第一部でも記したように全く合法的です。法律は議会で承認されたし、それを使うにあたっても非合法のところはない。
それは比較すれば、ややヒトラーに似ているところがある。ヒトラーは、突撃隊の私兵みたいなものです。その脅しを大いにきかせて権力を取った。権力を取ると、今度はそこの突撃隊の指導者であったレームとその支持者たち、幹部を粛正する。みんな一網打尽に殺してしまって、軍部と妥協的な政策に転換する。2・26事件に似ています。過激な人たちがやって、その人たちが権力取るのではなく、もっと政治的に巧妙な連中が本当の力を握るということです。
しかし、ドイツとの違いはーこれは重要だと思うのですがー、ヒトラーは伍長出身ですから、もともとドイツの政治権力、つまりヴァイマール共和国の権力の中心部から外れたところからでてきて権力を奪取している。ところが、日本の場合には、陸軍の統制派というのは陸軍の中心部そのもので、日本の権力機構の中枢です。だから、陸軍が力を増したといっても、日本の軍国主義は体制の内部から出てきたわけです。
ヒトラーの場合は、外部から入ってきて権力を奪取して、軍国のナチの政策を作った。
日本で、翼賛体制、軍国主義、戦争と歯止めなくすすんでいくのは、内部からの現象であって、外からではない。
今も触れたように、日本の軍国主義化は、大体合法的手段をとっているので、たとえば憲法は一行といえども変わってゐいない。『大日本帝国憲法』のままで、しかもそれは一応合法的な体裁を整えた上で、その内部で変わっていった。だから変わり方がなし崩しなのです。
振り返ってみると、2・26事件が転機でした。しかし、2・26事件にしても天から降って湧いたわけではありません。皇道派の活動というのは前からわかっていたわけですから、どこでそれを止めることができたかというのはたいへん難しい問題です。
ある段階をとると、その段階では、「そんなに大したことはないだろう」と思う。一年たつと陸軍はちょっと前へでる。大きく出たのではないから、そのぐらいなら我慢できると考える。そうするとまた次の年にちょっと先に出る、そういうなし崩しです。日本ではよく「外堀を埋める」という比喩を使いますが、もっと連続的に、無数の外濠を一つずつ埋めていくという感じです。だから阻むのが難しい。
ですから、30年代の終わりの状況は二つの言葉で要約できます。一つは体制内部からの変革。第二に、その変革のやり方がなし崩しだということです。
そういうことはいろいろなところに現れました。当時『中央公論』とか『改造』などいわゆる総合雑誌でさまざまな議論が発表されていたのですが、議会の内部で批判したのは斎藤隆夫です。齋藤隆夫は、2・26事件のあとで”粛軍演説”をやった。
その時は反応がなくて、1940年、日本政府のアジア政策・対中国政策を批判した。そうしたら政府ではなくて、議会が彼の除名動議を出した。そして除名動議に反対したのは六人だけだった。社会大衆党の代議士だけでした。あとはみんな賛成した。
彼はもちろん除名されたのですが、その除名に反対した六名も社会大衆党がみずきから除名した。
陸軍のやっているアジア政策・対中国政策に対する議会内批判は、この斎藤隆夫の演説だけです。それで彼を除名した。議会内からすべての批判勢力、野党を排するということで、翼賛体制は完全に反対のない議会になった。大勢順応、全会一致、議論なし。これが翼賛体制です。

議会の外ではどうかというと、『中央公論』、『改造』が軍部批判をしていた。批判者の中には、たしかに思想的にマルクス主義者が多かったのですが、とにかく批判論文があった。アジア政策、対中国政策の批判が出ていました。その一人は「飢ゆる日本」という論文を書いた大森義太郎です。
大森義太郎の議論は戦争批判です。中国侵略戦争にかかる軍事費による日本の経済的破滅をいっている。「これはばかげた戦争で、こんな戦争はなんの利益にもならない」と批判した。
学生として私はそれを読みました。しかし、そのうちに同じ雑誌で戦争批判どころか、そもそも政治問題を論じることがだんだんなくなっていった。
大森義太郎の書くものも映画批評に変わった。読者の立場からいうと、政治問題を直接に論じないで映画批評に変わったということは撤退です。それからまた二三年たつと、大森の名は今度は雑誌の表面から消えた。映画批評であろうがなんであろうが、一切の執筆が彼には不可能になった。ちょうど齋藤隆夫の除名と同じことになっている。その後新聞報道で、彼が特高警察によって逮捕されていることを知りました。
そういうふうにどんどん事態が進んでいく。私はただ普通の学生として暮らしていても、本当に刻々、一年ずつ、一歩ずつ事態が進んでゆくのがわかりました。
それがたいへんよくわかるようになったのは、高校、大学に行ってからです。しかしれ歴史的過程が一歩一歩戦争に近づいていくという過程は、2・26事件以後です。それがだんだん加速していく。三八年よりも三九年のほうがもっと早くなる、どんどんそういう方向に進んでいった。
日常生活はどうかというと、食べ物はまだ充分にあった。だから日常生活が逼迫するということはなかった。ことに学生の場合は、学校は戦争に関係なく日常のことがなされていた。授業も進んでいたし、食べたり着たりということも普通だった。しかし、思想的・精神的・知的にだんだん逼迫してきた。戦争が近づいていく異常な空気は生じてきました。
大学生になると、大学を出れば徴兵ですから、最大の関心事はもう徴兵になるわけです。そして41年12月を迎えます。
あのとき私は医学部の学生でした。米国との戦争に踏み切るか踏み切らないかということを大変心配していました。それは二つのことを意味していました。米国との戦争、つまり真珠湾攻撃は、対中国戦争の延長線上にあるということはあまりにも明白だったということです。それが一つ。
第二に、中国との戦争は、陸軍を中心とした日本の軍隊の圧倒的な火力、組織と中国のゲリラとの戦いで、米国」との戦いはそうではないということです。日本よりもっと強大な火力との能率的な組織との戦いになる。軍隊と軍隊との衝突です。それは初めから日本に勝ち目はないと思っていました。これは地獄への道です。どういうことになるかと思って心配していたというのが41年の心理状態だったと思います。
これ以上日本が戦争の道を進んで行って、遂に米国と衝突 ようになるかどうかの大きな要素は、ヨーロッパの戦争にあったと思います。
もうその頃になると、外からの情報は非常に限られていましたから、それについては情報不足でしたが、41年12月に日本が真珠湾攻撃をする前、同年6月にドイツはソ連攻撃を開始していた。ソ連を攻撃した時には、ヒトラーは第二戦線を作って、数週間のうちにソ連の問題を片づけるといっていた。そして初めの一か月、二か月ぐらいは、ドイツ軍の進撃は圧倒的で、ソ連軍を追ってレニングラードやモスクワの要点に迫っていた。しかし少なくとも41年夏には、明らかにヒトラーの計画は狂った。レニングラードは抜けない。モスクワには入れないということで、だんだん作戦が停滞して予定通り進めなくなった。だからヒトラーの”電撃作戦”がうまくいかなかったということは天下の常識だったのです。
しかし情報不足のために、どのぐらいの困難に出会ってきたのか、どのぐらい失敗の規模が大きいのかということはあまりよくわからなかった。情報ソースを持っていない、普通の東京の大学生にはわからなかったと思います。
しかし、その当時、ヒトラーがソ連侵攻で失敗して重大な危機に臨んでいるということは、ヨーロッパではもちろん、米国も含めて常識だった。
41年の秋になると、対ソ戦の行く先は、プログラムが遅れただけではなく、いったいどっちが勝つのかわからない、という展開してきます。もしヒトラーが勝てなければ、それは彼の滅亡につながる。大問題はもうすでに発生していたのです。
ところが日本の政府は、アメリカとの戦争に入る時に、ヨーロッパではヒトラーが勝って、アジアでは日本が勝つと考えた。それは日本政府そのものが情報の獲得とその分析をまちがえていたということです。もし日本政府が、ヒトラーには将来がない可能性が大きいということを知っていたら、もう少し真珠湾攻撃に対する反対は強かったでしょう。
それでも、私たち学生は、米国に挑戦すれば敗けるだろうということは知っていましたから、いよいよ真珠湾という時には、暗澹たる気持ちでした。しかし、日本政府は、米国の太平洋艦隊の重要な部分を真珠湾で撃沈したということで、国民に大いに宣伝した。マレーシア沖ではイギリスの最新鋭戦艦を沈めた。そして英米に対する戦線は”大勝利”となった。
「ちょっと怖いな」と思っていた人たちも、すぐ大勝利のニュースが届いたので、みんな沸き立って、嬉しがった。暗い顔をしていたのはわれわれぐらいのもので、きわめて少数でした。
私は普段どおりに学校に行って、お昼のニュースで、「今朝、始まった」ということを知ったのです。
12月8日はよく晴れた日でしたけれど、この日のことをよく観察していた一人は、そのころフランスの日本駐在記者だったロベール・ギランです。彼は「アヴァス」というフランスの通信社の特派員でした。その後「ル・モンド」に替わっています。
ギランは、回想録のなかで説得的な観察をしています。それは午前にラジオが報告した。だから戦争が始まったということを日本国民が知った。彼は支局からすぐ町へ飛び出した。みんなどういう顔をしているか、日本の大衆の反応を見た。そうしたら、みんな、あまりにも大きなことが起こって、それで茫然とした感じだったと書いている。心配も含めて、「いったいどうなるんだろうということで、決して喜んではいなかった」という。ところが午後になると、もっと詳しい真珠湾の戦果が報道されて、明るい気持ちになって、みんな嬉しそうになったと書いている。それが正しいと思います。
/それが戦争への道です。
私自身は、」1939年より前のファシズムに対する批判などがヨーロッパにあることは知っていました。久野収さんや新村猛さんらが京都で出していた『世界文化』を読んでいたからです。その雑誌が人民戦線の動きを伝えていましたから、反ファシズムの動きがヨーロッパで広がっていること、われわれの知っている有名な作家たちもどんどん参加しているということは知っていました。
大学のフランス文学の研究室はフランスの雑誌を取っていて。39年までは入っていました。一つは『ユーロップ』という雑誌で、もう一つは『ヌーベアル・ルービュ・フランセーズ』(『NRF』)という雑誌で、どちらも39年、40年当時はファッシズム批判の雑誌になっていた。
日本の国内ではファシズムについてほとんど批判がなく、ドイツとイタリアと同盟して、三国同盟がやがて世界を支配するなどといっているけれど、それがいかに井の中の蛙か、欧米の知識層の中では弾劾されている反民主主義的な妄想かということも、知っていました。
ただ、41年12月以前に、ヒトラーをはっきり見抜くところまではいっていなかった。戦争がこの先どうなるかということもわからなかった。しかし、日本が真珠湾を攻撃して、米国が入ってきてことで今後どうなるかは感じました。そのときは私たちの意見と、世界中の指導者たちの意見とは完全に一致していた。要するにヒトラーは、いつかということまではわからないけれども、時間の問題だと思っていました。もちろん日本も没落する。
その当時、私より少し年配の知識人たちは、どういうことを考えていたかというと、私が個人的に知っていた人物で、戦争の先行きについていろいろな意見を聞くことができたのは、たぶん二人しかいないと思う。一人は仏文科の渡辺一夫先生です。もう一人は私のおじです。
渡辺先生も、初めからどうせ負けるだろうと思っていたでしょうけれど、丸山真男さんの41年12月8日の回想によると、南原繁先生は、もう初めから全然希望はない、「勝ち目はない、こういう軍国主義者の指導者たちが没落するのは時間の問題だ」とはっきり考えていたということです。」ほかにも横田喜三郎とか、そういう意見の方がいたらしい。
/それから、これもその当時、私は知らなかったけれど、日本共産党の知識層のある部分は、やはり初めから戦争に希望はないと思っていたでしょう。
あとは学生のなかに若干の友達がいて、同じ意見だった。それだけです。
爆撃もそろそろ始まるという44年になると意見はずいぶん変わってきた。少なくとも知識層ではこの戦争の先行きは難しいと考える人が増えたと思います。
そのときはもう東条内閣です。近衛文麿が、いつ頃からこの戦争の先行きはないと考えだしたか私は知りませんけれども、「早く降伏した方がよろしい」という考えで行動を起こしたのは45年の一月です。
もう一人、私のおじは海軍艦本部長だったのです。艦本部というのは、船を作るところですから、彼もやはり希望はないと考えていました。
軍人だから、政治的な状況ということよりも、軍事技術的に考えていた。英国または米国の海軍と一国相手ならば戦争の作戦は立てられる。しかし、日本には英米と同時に戦争するだけの船はない。だから作戦は成り立たない。作戦計画がそもそも立てられない戦争を始めるのは愚かである。「残念なことである」といっていました。
彼は公然とではないけれど、親類の大学生にそこまでは言った。その問題に関しては、私はもちろん長い間黙っていましたが、彼も亡くなったし、長い歳月がたったからもうしゃべっていいでしょう。私も個人的に知っていて、戦争に対して希望もなければやるべきでもないということを始まったときからいっていたのは、この二人です。
思想的問題については渡辺先生はかなりご存じだったけれども、軍事技術的な面ではただ一人、おじだけでした。しかし、彼と同じ意見の人は必ず海軍内部にいたはずと思います。
『私にとっての20世紀』加藤周一著 岩波書店

加藤周一は、日本の最高の知性のひとりと考えていいだろう。彼の著書の中から、戦争へと進んでいった日本の状況を引用した。加藤は青春時代に戦争へ向かう日本に生きた人である。なぜ戦争が起きたのか。当時にあっても、アメリカと戦ったら敗けると、正しい認識をしていた人はいたのだが、戦争を止めることができなかった。政府の誰が、どの時点で、なぜ戦争を決断したのか。冷静に戦力分析をしたとも思えない。こんな調子で戦争に突入するなんて。当時の政府や軍部には愚か者ばかりいたのか。覚めた人がいたとしても、時代の勢いを止めることはできなかったなんて。時の勢いとは何だろう。・・・管理人

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公開日2022年11月24日