背骨で呼吸することについて
背骨で息することについての昔の原稿が、六月の『月刊全生』に載りましたところ、これを実行しようとする人の質問が毎日いく日たっても減りません。昔発表した時は、誰からも質問もされず、実行したということも耳にしませんでした。私はそれ故、こういうことは話しても駄目なのだと思い、以後は口にしませんでした。しかし、私は実行しておりました。p>
相手や周囲が強大に感ずる時は、自分の背骨の気の抜けた時だけだと分かりましたので、気の弱い私には人と口をきくのにも、人に会うのにも、新しい場所に行くのにも、都合がよかったからです。それに疲れた時に行えば、それこそ忽ち背中に汗が出。ポキポキ音がして疲れは抜けてしまいます。心が統一すると、バラバラの心では分からないことが分かり、感じられないことが感じられるようになるので、私は随分便利をしました。
食物を食べるにしても、絵を観るにしても、音楽を聴くにしても、私は背骨で息をしてからにします。心が澄んできます。それに実行するのに場所を選びません。いつ、どこででも、そのまま行えます。歩いていても、話しながらでも、そのまま行えます。私は忙しいので特定の時間を要することはできません。背骨で息をすることなら運転していてもできます。もし活元運動のあと二、三分を費やせば、その効果は倍加するでしょうし、活元中行えば、さらに活発な運動が出ます。もし始める前にこれを行っておけば、活元運動は、始めからその必要な処にくっきり現れます。私はずうっと実行しておりました。
しかし、他に伝えるとなるとむずかしいし、説明困難です。ただ、合掌行気の時、手で呼吸する如くするということしか言えません。気を鎮めようとする時は、誰も無意識に行っているのですが、いざやるとなるとむずかしい。しかし、人間の真中に気を充たすことは、考えている以上に人間の行動を楽にするものです。感覚が敏になると世の中がこうも豊かに美しく感ぜられるものかと自分で実行するたびに驚いております。
背骨で呼吸せよ
呼吸は鼻でするものと決めてしまっている人がいる。中でも大切なことは背骨で呼吸することだ。特に心を背骨に集中して背骨で腰髄まで吸い込むことは、一切の健康問題を解決する力を持っている。そして背骨から腰で息を調えると疲れない、老いない。いつも元気に、活き活き生きられる。
吾々は今まで健康法というと、いろいろの体操類似行為を連想し、養生法というと飲食物の摂取方法の如く考え、修養法というと、いろいろの観念をこらすことの如く考えて、心を無にし、呼吸を調えることの重要なことを閑却していたきらいがある。しかし息が乱れては運動もスムーズにはいかない。足に力があっても馳け続けるわけにはいかない。人間という生活機関の原動力としては飲食よりは空気の方が一そう端的である。
どんな観念をこらしても、心を無にするより他に呼吸を静かにする状態はない。
東洋に於ける古来の養生修身の方法が、一致した如く、呼吸を深く調えることにつきていることは故なきではない。印度に於けるアナ・アバーナ、中国に於ける煉丹術、我が国に於ける息長の術、その他は一つもない。剣をとるにも、華を活けるにも、茶をたてるにも、息ということを無視して、その真髄はつかめない。養生修身の道に、心を無にし、息を調えることが閑却されていることは、養生修身の道の不徹底なるを物語るものだ。あまりにも外物に頼り過ぎて自分を失っていたのである。この辺で落ち着いて調息のことを生活にとり入れる考えを持つべきだろう。
背骨で息する
だるい時、疲れた時、身体に異常感がある時、心が不安定な時、気がまとまらぬ時、静かに背骨で息をする。腰まで吸い込んで、吐く方はただ吐く、特別に意識しない。この背骨で息することを、五回繰り返せば心機一転、身体整然とすることが、直ちに分かるであろう。
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背骨で呼吸するといっても、捉え処がないという人が多いが、それを捉えた人は、皆活き活きしてくる。顔がそれ以前と全く異なってくる。腰が伸びる。何故だろう。平素バラバラになっている心が一つになるからかもしれない。脊髄が行気されて、その生理的なはたらきがたかまるからかもしれない。
ともかく、人間はこういうわけの分からぬことを、一日のうちに何秒間か行う必要がある。頭で分かろうとしてつとめ、分かってから分かったことだけ行うということだけでは、いけないものである。自分の心が静かになった時、自分の心に聞いてみるがよい。広い天体のうちの一塵である地球の上の人間が、分かったことだけやろうとしているその寂しさは分かるであろう。頭で分からなくとも、背骨で息をすることが、宇宙の心に通う道筋になるかもしれない。
荒唐無稽にあこがれる心は、潜在意識の裡には誰も持っている。そのため、詩があり、お伽話があり、宗教がある。疲れたまま眠るより、乱れたまま心を抑えるより、まず背骨で息をしよう。その後でどうなるか、そういうことを考えないでやることが脊髄行気の方法である。