人生は不要不急か
新型コロナウイルスの問題が生じ、関連する報道が盛んになって、まず印象に残ったのは「不要不急」だった。妻と娘は外出制限で不要不急の脂肪がついたという。
私は八十を超え、当然だが公職はない。この年齢の人なら、非常事態であろうがなかろうが、家にこもって、あまり外には出ない。出る必要がない。今の私の人生自体が、思えば不要不急である。年寄りのひがみと言えばそれだけのことだ。相模原市の障碍者施設で十九人を殺害した犯人なら、そういう存在について、どう言うだろうか。
この不要不急は、実は若い頃から私の悩みだった。不要は不用に通じる。大学の医学部に入って臨床医になれば、その問題はない。医療がどれほど役に立つか、コロナの状況を見ればわかる。医療崩壊と言われるほど病院の現場は大変で、不要不急のどころの騒ぎではなくなった。
学生時代からそれはわかっていた。母は開業医で、私に医学部の進学を勧めた。時代がどうなっても、医療の腕があれば仕事があって食べていける。それが関東大震災を経験し、夫を亡くした状況下で戦中・戦後を生き抜いた母の本音だった。だから私は医学部に進学し、当時の精度で義務付けられていた一年間のインターンも済ませた。その段階で自分の専門分野を選ぶことになる。
ところが本人の気持ちが決まらない。国家試験に合格、医師免許も取得した。しかしインターン生活を通して明瞭に理解したことがある。それは、責任をもって患者さんを診ることなど、まだじぶんには到底できない、ということだった。
それなら勉強を続けなければならない。だから大学院に進むつもりで精神科を志望した。当時の精神科の大学院は入試がなく、でも志望者が定員より多いから、代わりにクジをひけという。私は実はクジが嫌いである。人生自体がクジみたいなものなのに、その上またクジをひけというのか。ともあれ仕方がないからクジをひいたら、案の定はずれだった。
そこで考え直した。要するに自分はまだ勉強が足りない。それなら医学のいちばんの基礎とされていた解剖学から学び直そうか。それで解剖学、正確には第一基礎医学の大学院を受験し、めでたく合格した。ここは定員不足のくせに、入試はちゃんとあった。面白いもんですな。
こうした状況を今思えば、要するに私は社会的に未成熟だったのである。自立して世間に出ていく。そういう当たり前の自信が欠けていた。大学院は四年間、無事に博士論文を提出して、医学博士の学位を得た。一度も浪人も休学もせず、正規の過程を経て、それですでに二十九歳、普通に他の学部を出ていれば、就職して七年目ということになる。世の中への出遅れもいいところではないか。幸い教室のポストに空きがあって、そのまま解剖学教室助手として採用された。お国から初めて給料をもらえる立場になり、なんとか社会的に自立した、と思った。
ところが就職一年目の終わりに、例の大学紛争が起こった。ヘルメットにゲバ棒、覆面の学生たちが二十人ほど押しかけてきて「この非常時になにごとか」と研究室を追い出された。大学封鎖といわれた状況である。研究室のある建物に入れなくなってしまった。お前の仕事なんか、要するに不要不急だろ、と実力行使されたのである。私が不急に敏感になった理由をおわかりいただけえるだろうか。
紛争が終わっても、気持ちの中に問題は残った。学問研究にはどういう意味があるのか。学生たちはそれを問いかけただけで、やがていなくなったが、私の中にその問題が残されてしまった。自分は解剖学をやっているが、それにはどういう意味があるのか。私の著作を読んでくださった人は、その気持ちが所々に表れているのに気づかれたかもしれない。
同業者にそれを言っても、それは哲学でしょ、そんなこと考える暇があったら、解剖学の勉強をしなさい、と言われるだけである。解剖学の意味を尋ねるのは、ふつうは解剖学とは見なされないからである。解剖学以外の医療関係の人に尋ねたら、解剖なんて杉田玄白でしょ、今さらやることがあるの、と言われてしまう。
そこでやっと気が付く。自分のやることなんだから、すべては自分で考えるしかないんだな