戦国時代に「地球は球体」
織田信長はヨーロッパの宣教師から地球儀を貰い、地球は球体だと理解していた。これは有名だ。だが重要なのは、信長がこの知識を家臣や子どもに教え、ひろめようとした点だ。
信長はオルガンティーノ司祭とロレンソ修道士を「多くの武将の前に呼び、外にいる者も聞けるように彼らがいた広間の窓を開けさせた」うえで「地球儀をふたたびそこへ持ってこさせ、それについて多くの質問をし反論した」(フロイス『日本史』)
信長は地球儀を皆にみせ、家中の意識改革を図った。宣教師の宇宙の知識は「仏僧らのそれとは大いに異なっている」のをみせつけた。そして、信長は「デウスや霊魂の存在にはつねに大きい疑問を持ちながらも、心から満足し納得していると告白した」(同)
信長は「来世はなく、見える物以外には何ものも存在しないことを確信して」いた(同)。だから見えない神と霊魂は信じなかったが、天文地理の話は信じた。信長はこの天文地理の学習会で、仏僧の誤りを家臣団にみせ、地獄や極楽にとらわれぬよう誘導したのだろう。
信長はオルガンティーノとロレンソに会うのが好きで、何度も呼んだ。一度呼べば三時間も質問した。給仕と称して、子どもまで同席させた。信長はまがい物を生理的に嫌う。宇宙観や世界知識が正しそうだから、キリスト教宣教師は厚遇した面がある。
信長だけが天才で宇宙論を好み、地球が球体だと理解したのではない。これは戦国時代の日本人に共通した特徴だ。その時分から日本人は好奇心が強く宇宙論が好きだった。イエズス会は最初からこの日本人の性質に気づき、布教の戦略として、意図的に、日本人に宇宙論を提供していたとの指摘もある(平岡隆二「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論」)。「地球が円いこと」をザビエルが教えると日本人は「大変満足して喜び」宣教師を「学識のある者だと思ったようで」話を信じる。「日本人は、天体の運行・日蝕・月の満ち欠けなどについて知るのを大変喜びます」「(日本人の)質問に答えるために、学識のある(神父)が必要」とされた(「ザビエル書簡」1552年)。
それでイエズス会はのちにゴメスというすごい科学者を送り込み、緻密な宇宙論の講義を日本国内のコレジオ(学院)で行った。ゴメスは「天球論」という宇宙論教科書まで書き、日本語訳もあったらしい(森ゆかり「イエズス会日本コレジオの宇宙論講義(1))。
当時の日本人の宇宙観は二つだ。仏教系はインドの「須弥山思想」で高い山が真ん中にある砂時計のような形の世界を想定した。太陽が須弥山の周りをグルグル回る。もう一つの儒教系は中国の「天円地方説」だ。天は円形で地は方形と考える。
月食をみれば、球形の地球の影が月面にうつる。簡単に地球は球形とわかりそうなものだがそうではなかった。江戸時代になっても、儒学者の林羅山は天円地方説を信じた。「動くものは円く静止したものは方形にできている」などと言った。17世紀にも山鹿素行のように天円地方説は違うという鋭い儒学者もいた。
200年前になると、ちょっとした物知りなら「世界は弾丸のごとく」動いていて球体だと知っているようになった(「譚海」)。大阪の金貸しの番頭さんだった山片蟠桃も、よその恒星の近くに土や湿気があれば、きっと虫・魚貝・鳥獣、そして人民も生じているだろう、と宇宙人の存在を想ったのである(『夢の代)。