監督は気づかせ屋
長く監督をやってきて、この仕事は「気づかせ屋」だと感じることがある。
プロに入ってくるような選手は、みんな、一般の人には考えられないような能力、素質を持っている。だからといって、全員が長嶋やイチローになれるわけではない。優れた能力を持っていながら、その使い方が間違っていたり、自分に向いているのは別の分野なのに、方向違いの努力をしている選手は少なくない。
わたしは講演などに招かれて、よく、「組織、チームづくりの上で一番大事なことは」と尋ねられた。ひとつだけあげるのはむずかしいが、わたしは人間教育が基本だと考えている。チームをつくるには、まず選手ひとり一人をしっかりしたプロにつくり上げなければならない。人間形成だ。そして人間形成には。その人物が持っている可能性、自分も知らなかったような能力、資質に目を開かせてやる必要がある。「気づかせ屋」とは、人間づくり、チームづくり、それが組織再生の基本である。
好みを言えば、「野村再生工場」と称賛されるよりも、「日本一の気づかせ屋」と言われたほうがうれしいのだが、残念なことに、そう呼んでくれる人はあまりいない。
わたしが選手たちに一番気づいてほしいことは、野球を引退してからの人生の方が長く、「自分から野球を取ったらいったい何があるか」ということである。人生観、価値観の確立が根底になければ、どの世界でもプロとは呼べない。
古田起用の意外なきっかけ
「気づかせ屋」とは、意識改革と適材適所を徹底させるということだ。現役を退いて九年間の評論家生活を経たのち、ヤクルトスワローズの監督に就任して、一番強く感じたことは、適材適所がおこなわれていないことだった。
長い間低迷していたチームなので、特にそう感じたのだろうが、そのポジションに一番向いていないような選手が、本人も周りもさほど気にしないまま、そのポジションをやっているといった例が多かった。
私が就任した1990年当時、ヤクルトの正捕手は秦真司だった。法政大学から入団して六年目の選手である。左打ちの打撃は「少年野球の手本にしたい」といったような、クセのない素直なフォームで見どころがあった。
だが捕手はなんといっても守り、とりわけリードである。その肝心のリードとなると、秦はからっきしだった。私の目から見ると、信じられない配球をするのだ。秦は前年には80試合あまり、その前年には120試合近く出場していた。「よくこの捕手で我慢したなあ」と、私は前任者の関根潤三監督の忍強さに驚いた。
ある試合、カウントがノ―スリーになったことがあった。得点差が何点あったかは忘れたが、ともかく次の一球は打者が絶対打ってこないという状況だった。誰が見てもど真ん中にストレートを投げさせる場面である。
ところが、百人が百人ストレートと思った場面で秦は変化球を要求し、それが外れて四球を与えてしまった。
私は信じられない出来事にすっかり頭に血が上り、横に座って見ていた新人の古田敦也に、「お前行け!」と叫んで秦を引っ込めた。うなだれてベンチに戻ってきた彼に、私は変化球のサインを出した理由を問うた。
「なんであそこで変化球なんだ!」
「はあ、打ってくるような気がしたもので」
この答えを聞いて、私はクラクラ来そうになった。素人でも打ってこないとわかる場面で、「打ってくるかもしれない」と考えるような選手が捕手に向かない。私は二度と秦を使うまいと決めた。
秦の代わりに起用したのが新人の古田だった。リードはまだまだだったが、私が教え込めば何とかなる。ともかく古田を一人前にしなければ、捕手がいなくなる。そう思って古田を厳しく鍛えた。古田がレギュラー捕手になるきっかけは、四月下旬のこの試合だったのだ。
秦は不思議な発想をする男で、何事もむずかしく、むずかしく考えようとする。普通はむずかしいものをシンプルに考えようとするのだが、秦は逆を行ってしまうのだ。袋小路に入り込んでしまうこうした発想は、捕手に最も向いていない。
ただ、彼は打撃の素質にはいいものがあったし、物事を突き詰めてゆくタイプだから、打者には向いていた。捕手をやっていたくらいだから、肩も悪くない。俊足でもある。そこで私は外野手に転向させることにした。;
外野手に転向した秦は、その後、レギュラーポジションを取り、長く活躍した。92年の西武との日本シり―ズ第六戦では、延長10回に抑えの切り札だった潮崎哲也からサヨナラ本塁打を放つ活躍も見せた。もしそのまま捕手をやらせていたら、古田の陰に追いやられて、そのまま消えていってしまったかも知れない。
しかるべき場所にしかるべき人物を置くー適材適所の鉄則は、本人にとってもチームにとっても極めて重要なことなのだ。
潮崎のシンカーを盗め!
プロに入ってくる選手の中でも、投手は自分の適性を見誤っていることが多い。プロから声がかかるような投手は、なず間違いなく自惚れ屋、自信過剰、地球は自分を中心に回っていると考えるタイプである。とりわけエース級がそうだ。
アマチュアでは運動能力が一番優れてた子どもを投手にするのが一般的であり、投手として自分が中心になって試合をしてきた「お山の大将」が、自分の能力を特別なもの思い込むのも当然だろう。
しかしプロに入れば、誰もが先発のエースとして活躍できるものではない。力から見て中継ぎが向いている投手もいれば、リードされている場面でしか使えないような投手もいる。何もこうした投手を貶めているわけではない。チームとしては、いろんな役割の投手が必要で、何に向いているかを本人に早くわかってもらうことが大事なのだ。
高津臣吾はヤクルトスワローズで抑え役として長く活躍し、セーブの日本記録を作り、メジャーでもプレーした。ストッパーとして頂点を極めたといってもよい。私がヤクルトで日本一になった日本シリ―ズでは、三回とも最終マウンドに高津がいた。ミスター胴上げ投手である。
しかし、亜細亜大学から入団した新人の高津を初めて見た印象は「プロではちょっとしんどいな」というものだった。右のサイドスローだが、変化球はスライダーなど横の変化が中心だったし、球速もそれほどあるわけではない。右打者には通用しても、
左打者にはカモにされるように思えた。
ただ、当時は生きのいい投手が何枚でも欲しいときだったし、大学野球でそれなりに活躍して、気持ちには強いものを持っている感じがしたので、なんとか短いイニングを任せられるような投手に仕立てたかった。
何かいい手はないかと考えた末に、思いついたのが「盗み」だった。西武ライオンズの潮崎哲也が投げているシンカーを高津にマスターさせてみようと考えたのだ。
高津が入団する前の年(1990年)、西武は巨人に四タテを喰らわせて日本シリーズを制した。西武が最も強かったシリーズだったかもしれないが、このシリーズをたまたま見ていた私は、新人の潮崎が投げるシンカーに目を奪われた。一度浮き上がってから大きく落ちるあまり見たことがないシンカーで、巨人の打者はまったく手が出ない。右のサイドスローなのに、左打者も手玉に取っていた。
高津も潮崎と同じサイドスローである。あの潮崎のシンカーを自分のものにできれば、左打者も苦にしない、いいリリーフ投手になれるのではないか。
そこで私はキャンプの際、高津に「潮崎のシンカーを盗め!」と指令を出した。
「日本シリーズのビデオがあるはずだから、それを見て、あのシンカーを自分のものにしろ。スローが出るはずだから、それで握りなどははわかるはずだ。あれをものにしなければ、今のお前の力じゃ左打者を抑えることはできないぞ。緩急を身につけるんだ」
投手らしい自信を持ってプロに入ってきた高津は、最初のキャンプでいきなりこんなことを言われて戸惑ったようだったが、それでも素直に取り組んだ。
しかし、なかなか身に付かない。訊いてみると、「ものにするのはむずかしい」と言う。潮崎のシンカーは薬指と中指でボールを挟んで抜くのだが、それがどうもうまくできないようだった。
「このボールの持ち方ではなく、人差し指と中指で挟む持ち方ではダメでしょうか。この持ち方でフォークのように抜くとある程度、緩く大きく落ちるんですが」
潮崎とそっくりでなくても、ある程度落ちて、打者のタイミングが狂えば使い物にはなる。
「そうやって投げれば遅いシンカーみたいな感じになるのか」
「なりそうです」
「じゃあ、そうやって投げてみろ」
結局、高津は自分なりに工夫した「スローシンカー」と言うべき球をものにした。その球をオープン戦で左打者に試してみると、面白いようにクルクル空振りする。それで本人もすっかり自信をもった。
もともと緊迫した場面でもあまり動揺しない強い神経は持っている。そこにスローシンカーという武器が加わった。最初は先発や中継ぎで使っていたが、次第に抑えに起用するようになり、入団三年目の93年からは抑え役として完全に定着した。変われば変わるもので高津は、左打者の方が得意になった。一つの球をものにして適所に座ることができたわけだ。
高津への荒治療
変化球をものにして抑え投手の地位を手に入れた高津臣吾だが、そうやってかわす投球で打者を打ち取るようになっても、投手というのは力一杯のストレートで打者を打ち取りたいという気持ちをなかなか捨てられないらしい。
高津も抑えになってから、ときどき力んでストレート勝負に出て、打たれることがあった。強気は抑え投手の必須条件だから、そうした気持ちも必要なのだが、あまり頻繁にやられてはチームもたまったものではない。「お前のストレートじゃ通用しないぞ」と口で言っても、本人はなかなか納得しない。そこで私は荒治療に出ることにした。
巨人戦の九回裏一死走者二塁、打者は新人・松井秀喜の一軍デビュー二戦目という場面で高湯がマウンドにいた。当然、外角と変化球で打ち取りに行く場面である。しかし私は高津にストレートで勝負させることにした。「ためしに松井に内角ストレートで行ってみい」と指示したのだ。高津は不安そうに首を傾げたが、私はかまわずストレートを投げさせた。結果は東京ドームの最上段まで飛ぶ特大の二点本塁打だった。
何も試合を捨てたわけではない。スコアは四対一だったから、二点本塁打を打たれても、まだヤクルトがリードしている。後の打者を考えれば、本塁打を打たれても逃げ切れるだろうという計算があった。
そうまでして高津にストレートを投げさせたのは、お前の内角ストレートは、左の強打者にはもう勝負球にはならないということに気づいて欲しかったからだ。
本塁打のあと後続を打ち取ってベンチに戻ってきた高津に、私は「アカンやろ」と声をかけた。高津は何ともいえない複雑な表情をしていたが、それからは無理なストレート勝負は避けるようになったから、私の荒治療も効果はあったのだろう。
飯田は動物だ!
隠れていた能力を見つけ出し適所に配した一番の成功例は、ヤクルトで活躍してくれた飯田哲也ではないだろうか。
私はヤクルトスワローズの監督に就任した際、秋季キャンプを見ることができなかった。まさか監督要請があるとは思っていなかったので、いろいろなスケジュールで埋まってしまい、秋のキャンプに行けなかったのだ。
通常は秋季キャンプで現状の戦力をだいたい掌握し、強化すべき点を見つけておいて、翌年春のキャンプに臨む。ところが、その下準備ができず、いわばぶっつけ本番で最初の春のキャンプを迎えた。
キャンプ初日の二月一日、私はコーチに命じて足の速い選手を集めさせた。低迷しているチームがいきなりボカスカ打てるようになるはずがない。まず足を使うこと。”足にはスランプがない。”ここを糸口に、機動力で攻撃を組み立てていこうと考えたのだ。
数人の「足のある」選手が集められたが、当時はまだ二軍の飯田もその中に含まれていた。小柄で俊敏そうな選手だったが、なぜかキャッチャーミットを持っている。私は、不思議に思って尋ねた。
「キミはなぜミットなんか持っているんだ?足が速いというのに、どうしてキャッチャーなんかやっている。捕手というポジションが好きなのか」
飯田ははっきり「好き」とは言わずに口ごもっている。「好きだと即答できないのに、なぜ捕手をやっているんだ」と問い質すと、「高校のときにキャッチャーをやれと言われて、それからずっと捕手をやっているんです」と他人事のように答える。私はあきれてしまった。
アマチュアでは選手の特性など関係なく、単にチーム事情だけでポジションを決められてしまうことがよくある。「他に肩の強いのがいないから一番強いあいつを捕手に」といった具合に、適性など考えず、編成上の都合で押し付けられ、そのまま大きくなる子どもも少なくない。飯田もそうした選手のひとりに思えた。
飯田は投手の標的になるには体が小さい。肩はよかったが、緻密に考えてプレーするよりも、俊足を活かして本能的にプレーするのが似合いそうな選手である。どう見ても捕手向きではない。
「キミの足は親からもらった天性のものだ。キャッチャーになって立ったり座ったりを繰り返していたら、せっかくの足がたちまち遅くなってしまうぞ」
それでも高校生のときから捕手をやってきた飯田は、納得しかねる顔で聞いている。私は続けた。
「俺はプロに入ったころは足が速かった。入団テスト五十メートル走をクリアしないと合格しない。それに合格したのが何よりの証拠だ。でもな、長年捕手をやって、最後には”鈍足の野村”として有名になってしまった。どうだい、納得したか」
ようやく納得したように見えたので、私は「キミのミットはオレが買ってやるから、それで野手用のグラブを買え」と提案した。飯田はすぐにミットをふたつ持ってきた。私はそれを四万円で買い取り、飯田にはその四万円で野手用のグラブを購入させた。
捕手からの配置転換は決めたが、どこをやらせるかはなかなか決めかねた。足は速いし、肩も強いので、一番むずかしいショートを試してみたが、どうもショート特有の身のこなしがうまくできない。ショート向きの資質も感じられない。
次にセカンドをやらせてみた。これはそこそこできたが、チーム事情から、セカンド転向も頓挫した。というのは新外国人に問題があったからだ。
新しい外国人ジョニー・レイは、外野手というふれこみだった。ところが実際に来日してみると、セカンドが本職だという・「外野じゃなかったのか」と訊くと、一試合だけ守ったことがあるという。どうやらフロントは、その試合を見て外野手だと判断したのだった。外国人は戦力になってもらわなければならないから、やむなくレイにはセカンドを守らせた。飯田は押し出されてしまった。
飯田の運動能力は桁外れだった。人間業ではない。飯田は動物だ!と思うプレーが幾度もあった。足や肩ももちろんだが、何といってもバネがすばらしい。関口宏さんの司会でタレントがゲームなどをする『東京フレンドパーク』というテレビ番組があったが、あの番組に出演して、着ぐるみを着てボードに飛びつくゲームをした飯田は、すさまじい跳躍力で見ている人を驚かせた。
外野に転向してからも、フェンスのよじ登ってホームランになる打球を捕球して、チームのピンチを救ったことが何度もあった。93年の西武との日本シリーズでは、センターからノーバウンドの見事な本塁返球をして失点を防ぎ、勝利に貢献した。
運動能力もすばらしいが、打球に対する勘、本能的な予知能力といったものも他人にないものを持っている。だが、それは一種野生の勘のようなもので、捕手をしていたら、あまり役に立つことはなかったろう。
その点で、飯田の外野手転向は、本人の資質にぴったり合った、適材適所の象徴といってよいだろう。
飯田のコンバート成功は、同時に、アマから来る選手の能力は、改めて見直さなければならないという教訓を、私に与えた。私は新人選手が入団してきたら、ポジションは白紙で考えた。コーチにも「どこのポジションが向いているか、もう一度探してみろ。先入観は罪、固定観念は悪」と言い聞かせた。そうやって、大事な資質が眠っていないかと注意してやることは、選手の将来にも大きな影響を与えるのである。
シュートを覚えろーヤクルト川崎蘇生術
ダルビッシュ有にしても、田中将大にしても、肉体的な素質に恵まれているし、性格的にも強くしたたかなものを持っていて、順調にエースへの道を歩んでいる。こういう選手ばかりなら監督、コーチは苦労しないが、実際には素質に恵まれていながら、ちょっとしたことでそれを開花させられず、苦労する選手が多い。
ヤクルトスワローズで最多勝や日本シリーズのMVPを獲った川崎健次郎は、そうした選手の代表だった。川崎はヤクルトの投手陣のなかでは抜群の球威を持っていて、高卒二年目から続けて二桁勝利を挙げるなど、将来のエースと期待される素材だった。
ところがどうも被本塁打が多い。性格的におとなしく、内角に投げるストレートがどうしても甘くなって狙い打たれる。そのうち故障で一年を棒に振り、すっかり自信を失ってしまった。
私は内角をきちんと攻める投球をすれば、まだまだ通用すると思っていたので、川崎にシュートを覚えるように奨めた。私が現役の頃には、シュートを武器にする投手がたくさんいたのだが、巨人・江川卓の出現以降、シュートを使う投手が少なくなっていた。江川の力量からすれば、ストレートとカーブの二種類の持ち球で充分通用した。その後、なぜか、「シュートはひじを悪くする」という誤解が広がり、あまり使う投手がいなくなっていたのだ。
そんなはずはない。シュートを多投してひじを壊した投手など実際にあまり聞いたことがない。私はシュート投手として一世を風靡した元巨人の西本聖にシュートがひじに影響するかどうか聞いてみた。
「全然関係ありません。シュートはひじではなく、人指し指にちょっと力を入れて投げるものなんです」
それが西本の答えだった。
私はそれに自信を得て、川崎にシュートの練習をさせた。故障上がりだったこともあり、最初は抵抗もあったようだが、自分の生きる道はこれだと思ったのか、練習に励み、シュートを己のものにした。
それまではストレートとフォーク中心の組み立てだったが、そこにシュートが加わったことで、川崎の投球は一変した。面白いように内野ゴロが取れるようになる。被本塁打も減った。打ちごろの内角にまっすぐが来たと思って打者が手を出すと、体のほうに喰い込んでゴロになってしまう。
あまり打者だ詰まるので、ベンチで見ていた投手の伊藤智仁はリードしていた古田敦也に、「川崎さんのシュートはどれくらい曲がるんですか」と訊いてきた。伊藤は30センチほども内側に喰い込むと思っていたらしい。古田は「ほんのこれぐらいだよ」と指を五、六センチ広げて見せていた。それぐらい曲がれば、シュートとしては充分なのだ。いずれにしても、シュートを身につけたことで、川崎は持っていた素質を開花させ、最多勝を取って、エースと評価されるような投手になった。
彼は今、テレビの解説をしているが、いまだに「僕が勝てるようになったのは野村監督のお陰です」などと言う。日本シリーズのテレビ解説の際にも、「あのときシュートをみにつけていなければ、僕は勝てていません」などとカメラの前で語っていた。いささか面映ゆいが、確かに、あのときシュートの体得に踏み切らなければ、彼の投手生活はそこで頭打ちになっていたかもしれず、彼が感謝してくれる要因なのかもしれない。