球種多彩な百六十キロ投手
「天才」「異次元」「神の子」「怪物」「ミュータント」・・・。藤井聡太さんについては、多くの棋士がさまざまな言葉でその抜きんでた強さと才能を表そうとしてきた。
「すごい子が現れた」「驚くべきことだ」「弱点が見えない」といった手放しの賛辞が数限りなく寄せられている。一方でその才能の拠って来るところについては、誰しも言葉に窮している様子がうかがえる。
「何が違うかわかりません」「センスが抜群にいいとしか言いようがありません」(羽生善治)「天才という言葉を使わないで藤井君について説明するのは難しい」(渡辺明)
確かに藤井さんは四段に昇段し、プロデビューした時点ですでにかなり完成されていた。私はこれまで多くのトップ棋士の四段時代に対局をしてきたが、いくら強い棋士でも、十七歳、十八歳の頃までの棋力は「突出して強いところもあるが、まだまだ完成途上」が常識だった。
とくに序盤が粗削りである場合がほとんどで、羽生さんや私もその例外ではなかった。ところが、藤井さんの場合は序盤もほとんど欠点がなく、これといった弱点が見当たらない。メンタル面やメディア対応、礼儀や言葉遣いもも含めて付け入る隙がないと言っていいだろう。
得手不得手にしても通常は偏りがあり、十代二十代と経験を積み、強くなっていく過程で苦手なものを克服していくものだ。しかし、藤井さんはこの年齢にして、すでにいろいろな勝ち方ができる。
作戦的には居飛車であれば何でも指すが、序盤で角を交換する「角換わり」など得意戦法が決まっている。ただ序盤センスが優れているので、初めて指す形でもそつなく対応ができている。そして、中終盤に関してもオールラウンダーで苦手な分野がない。そのうえデビューからトップ棋士との対局を重ねることによって、さらなる前進を続けている。
トップ棋士の真の強さが現れるのが中盤である。とくに初見の混沌とした局面でいかに本質と現状を見極め、勝つための最善手を導き出せるか。2020年に入って、この力がさらに充実を見せ、成績、内容ともに目を見張るものがあった。
ピッチャーにたとえると、百五十キロ出していた球速が百六十キロを超え、コントロール抜群のうえ球種も多彩になって・・・といったところだろうか。
そして、なんと言っても彼はまだ十代だ。若さの伸びしろがある。棋士が最も成長する十代から二十代にさらに多くの経験を積みながら、藤井聡太という棋士はどこまで進化していくのだろうか。
ケタ外れの「頭の体力」
藤井さんの実力は。実際に盤を挟んで対戦してみることで初めて体感することができる。私たち棋士は水面下での読み合いによって互いの棋力を確かめるのだ。
しかし、持ち時間が少なく、向き合っている時間が二時間、三時間の短い対局では相手に関して得られる情報は限られる。持ち時間一時間以内の「早指し戦」だと指し手がやや粗雑になって、持ち味がフルに発揮できない。
私が藤井さんと初めて対局したのは、2019年九月に行われた持ち時間三時間の王将戦二次予選で、この時は私が敗れた。
翌2020年九月、持ち時間六時間の順位戦B級2組で二度目の対局を体験し、その計り知れない可能性の一端を皮膚感覚で見極めることができた。
大阪市の関西将棋会館で午前十時に始まった対局。先手番なので、こちらが作戦を選べる。居飛車で戦うとして、「矢倉」か、角を交換する「角換わり」か。若い頃から先手で得意にしていた角換わりを選んだ。四十六、七手目までは、ある程度こちらも想定していた局面の一つで進んだ。私の四十九手目で新しい局面に入った。研究の末に指した一手ではない。その局面になって初めて考えだした手で、藤井さんもおそらく想定していなかったと思う。
角換わりの将棋は仕掛け(戦いを起こすための最初の攻め)タイミングが難しい。そこでぐっと差が広がることがある。この五十手目前後は序盤から中盤に入る勝負どころになった。そこからお互いに長考が続いた。
一局の将棋は序盤、中盤、終盤に分けて考えられる。駒組を進める序盤は、守りと攻めの態勢を整える。中盤は仕掛けから駒がぶつかり合って激しい攻防を展開する。終盤は相手の玉を詰ましにかかる最終的な攻防を繰り広げる。
藤井さんは五十手目で百四分の長考、これに私が五十一手目で八十六分の長考、対して藤井さんは再び長考に入った。ここで夕食休憩に入る。
再開時刻の十五分ほど前に対局室へ戻ると、藤井さんはすでに盤の前で考えにふけっていた。彼はずっと盤の前で沈思黙考している。もちろん、若さもあるだろう。それにしてもケタ外れの「頭の体力」である。何時間考えても疲れないのだろうか。
その姿を見てまず私が感じたのは、藤井さんは「将棋がとてつもなく好きだ」ということだった。もちろん、将棋が好きではない棋士はいない。しかし藤井さんの場合は、その「将棋好き」が突出していて、それがそのまま「考えることが好き」ということに直結している。
/考えることによって、将棋の奥深さを自分の力で理解しようとしている。つまり、将棋というゲームはそう簡単に結論が出ない、最善の一手はたやすく発見できるものではない、ということを十分にわかっているのだ。