様々な思想


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源氏物語の翻訳

「紫式部は私の十二三歳の時からの恩師である。私は二十歳までの間に『源氏物語』を幾回通読したか知れぬ」「全くの独学であった」と後年『読書、虫干、蔵書』という文章で回顧している。そのような文法的細部に拘泥しなかったからこそ『源氏物語』の魅力をあれほど感じることができたのであろう。『源氏物語』のいま一人の訳者であるサイデンステッカーも流れに乗ってからは当初の難解という印象が消えたことを1982年に告白している。『源氏』の読書はペースに乗れば後は流れるように進むので、その際に得た一語一語を穿鑿していた時の印象とおよそ異なるのである。念のためにサイデンステッカーの言葉を英語で引いておく。“ To decipher is not the same as to read... An essential element in narrative literature is pace... The original pace is so slowed down when one deciphers as to seem no pace at all." 紫式部の人格が感じられるようになった時、『源氏』読書は佳境に入ったといえるだろう。晶子の言葉がよい。「私は中に人を介せずに紫式部と唯二人相対して。この女流文豪の口づから『源氏物語』を授かった気がしている」・・・与謝野晶子

そのウェイリーの一連の仕事の中でも中国詩の英訳と並んで傑出しているのが『源氏物語』英訳の仕事である。これは英語芸術作品としていうならば二十世紀の古典であろう。ウェイリーが紫式部を発見するに至る過程は、私のすいていではこうである。  彼はまず The No Play of Japan を世に問うた。それで日本学者として本格的にデビューしたのだが、No Plays とは能楽脚本(=謡曲)という意味で、第一次世界大戦後の1921年のことであった。(シナ学者としてはすでに 1918年 170 Chinese Poems を刊行することでデビューしていた)。 その能楽研究の際『葵上』『野宮』『半蔀』など数々の謡曲の出典である『源氏物語』を取り寄せて調べてみた。そこまで調べるのが当たり前だといえばそれまでだが、しかしそこまできちんと読んだところがいかにも学者的な行き方だったのではあるまいか。そして『原義物語』をひとたび読み始めるやウェイリーは紫式部の天才に魅了された。本人は Translater『翻訳者』という未発表の記事で、日本から注文しておいた『源氏物語』が届き、読みだした時の様をいかにも生き生きと回想している。第一次世界大戦が終了し、平和が回復した後の1919年の復活祭かクリスマス、遅くとも1920年の復活祭の休みのはじめのことと私は推定する。

活字本は私が大陸にスキーに行く休暇の直前に届いた。私はロンドンのヴィクトリア停車場とスイスのザーネン・メーザーの間で最初のいくつかの巻を読んだ。あんな奇妙な旅をしたことは前にも後にもない。私はすっかりひきこまれてしまったから旅行全部がさながら夢のような気がする。パリへ着くまでは『源氏』に完全に没頭していた。それだからパリのリヨン駅を出た後で車内の灯りが消されてもはや読めなくなってしまった時、自分でドーヴァ―で連絡船に乗り込んだか、またカレーでフランス国鉄の列車に乗り継いだか、はてさてどうやってパリの北駅に着いてからパリのリヨン駅までサンチュールと呼ばれた循環線を回って来たか、一切記憶に浮かばなかった。空が明るくなるや私は夕顔の死の場面をまた読み出した。-そしてはっと気がついたときにはモントルーに着いていた。
『アーサー・ウェイリー『源氏物語』の翻訳者』平川祐弘著 白水社から


いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際きわにはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。山岸徳平校注『源氏物語』岩波文庫版(一)一三頁
At the Court of an Emperor(he lived it matters not when)there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one, who though she was not of very high rank was favoured far beyond all the rest...Arthur Waley, The Tale of Genji, Tuttle, Rutland and Tokyo, 1970, p.7.


大英博物館の真向かいのアレン・エンド・アンウィン社によって刊行された濃紺の布表紙に金の背文字という装丁のウェイリー訳 The Tale of Genjiの第一巻がロンドンの書店の店頭にならんだのは1925(大正十四)年6月の初めである。- 『源氏物語に魅せられた男』-アーサー・ウェイリー伝ー宮本昭三郎著 新潮選書から引用。

当時の定価十シリング六ペンスのこの初版の発行部数は、前述の営業上の危惧を考慮してか、千五百ばかりにおさえてあったが、それから間もなくボストンのホートン・ミフリン社から米国版が定価三ドルで千五十部発行されているから、初版は二千五百五十部ばかり用意されたことになる。
「桐壷」から「葵」までを約二百八十ページにおさめたこの第一巻をウェイリーが献呈したのは、ほかでもないベリル・デ・ズータであった。そして彼がその巻頭の題辞に選んだのは、先に引用した『眠れる森の美女」の一分である。(「あなたでしたの、王子さま」と彼女は言った。「ずいぶん長くお待ちになりましたのね」シャルル・ペロー『眠れる森の美女』)和歌だけが日本文学を代表するものという印象をそれまで抱いていた英米の読書人にとって、忽然と現れた『ザ・テイル・オヴ・ゲンジ』は、ウェイリーが引用したように、まさに「眠れる森の美女」の目覚めであった。

もし読者が原文を読むことができさえすれば、本書の魅力はこの何世紀ものあいだまったく消失していなかったことを感じると私は思う。こうした場合の翻訳はたしかに骨が折れ、意気を挫くはずのものである。しかし私は、まさに東洋最高の、そしてヨーロッパの小説と比較しても、世界の名作十二点のなかにその位置を占める長編小説を訳しつつあるのだという確信に、ずっと励まされてきた。

翻訳は前半着々と進捗し、第一巻が出てから一年たらずの1926年2月には、「賢木」から「松風」までをおさめた第二巻 The Sacred Tree が刊行されたのをはじめ、「薄雲」から「野分」までをあつかった第三巻 A wreath of Cloud は27年2月、そして「行幸」から「幻」までの第四巻 Blue Trouser は28年5月と一年に一巻ずつ刊行されていく。しかし第五巻の The Lady of the Boat が出たのはそれから四年後の32年6月、最終巻の The Bridge of Dreams が刊行されたのは翌三三年(昭和八年)5月であった。ウェイリーが四十三才のときである。

ウェイリーはおそらく『源氏物語』を原文で読み通した最初の西欧人であった。そして彼が足掛け十一年の歳月を費やしてその訳業を終えたとき、『ザ・テイル・オヴ・ゲンジ』は本文だけで千七百五十ページ、そう語数六十三万語を数え、旧友スコット・モンクリーフがその翻訳にこれまた心魂をかたむけたプルーストの『失われた時を求めて』英訳十二巻には及ばなかったが、『ドン・キホーテ』、『戦争と平和』、そして『カラマーゾフの兄弟』の二倍の長さとなっていた。その全容がはじめて西欧の文壇に紹介されたこのおそらくは世界最初の心理小説は、登場人物四百三十を」優にこえ、その物語は四世代、七十五年にわたって、展開する最長編のひとつだったのである。『源氏物語に魅せられた男ーアーサー・ウェイリー伝ー』 宮本昭三郎著 新潮選書1993年3月

『源氏物語に魅せられた男ーアーサー・ウェイリー伝ー』 宮本昭三郎著 新潮選書1993年3月 / 『アーサー・ウェイリー『源氏物語』の翻訳者』平川祐弘著 白水社

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公開日2022年2月24日