なぜ人生に苦労が多いのか
この世に生きるということは当然肉体を持つということで、肉体を持てば欲望や感情を持つことになる。それに引きずられ、この世の現実のなかで苦しんだり喜んだり憎んだり、欲望に負けりうち克ったり、考えたり迷ったりしつつ切磋琢磨して波動を高め、魂を浄化するのが、この世を生きることの意味目的であるという。そういう仕組みの中に人はいるのだ。
いやだといっても、信じないといってもそういうことになっているのである。だから人生は苦しみに満ちていてそれでよいのであるらしい。欲望を持つ肉体と大脳は魂の学習のために必要なのだ。「魂は霊性の進化を続ける旅人だ」といわれる所以である。『私の遺言』
人は死んだら無になるのではない。死後の世界はあると私は信じている。大切なことは死後の世界の平安であって、現世は辛く苦しくてもしょうがないと思っている。我々は楽しむためにこの世にいるのではなく、修行のためにいるのだという考え方が、この頃の私には気に入っている。苦労多い人生を生きた者には、そう考えた方が元気が出てよろしいのである。『戦いやまず日は西に』
神に願いごとをしてはならない
いうまでもないことだが。神は見えない存在である。つまり精神的な存在だ。杜の奥に座っていて、一人一人の悩みや願いごとを聞いて、癒したり叶えたりする存在ではない。神はただ、「そこに存在している」だけだ。私はそう思っている。我々も肉体を持っているから、欲望や情念に左右される。だが神は精神世界の存在であるから、人間の欲望や情念に呼応するわけがないのである。だから神に現実世界の願いごと、病気を治すことや金もうけや入学や縁談を頼むのは間違っている。
神に頼みごとをしてはならない。したところでだからどうということはない。神に祈る時は、ただひとつ、感謝を捧げればそれでよい―それが私が辿りついた祈り方である。生かされていることの感謝。無私謙虚な感謝の念を送るのが「祈り」だと私は考えている。そんなふうに祈る時、その波動が神の波動と同調して、その人の波動が上がるといわれている。波動が上がれば現実世界の欲や情念に惑うことはなくなっていく。そして清浄な気のエネルギーが生まれて、自然に現象として「よいこと」が起こる。『かくて老兵は消えてゆく』
宇宙の意思としての神
いつか私は宇宙の意志としての神の存在を信じていた。その神は咎めず、宥さず、隣れみもせず、ただ冷厳な意志として絶対の力を持って私の上に存在しているものだった。『こんなふうに死にたい』
『人間の煩悩』佐藤愛子幻冬社新書