思想はタダか
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栄養失調は人を変える。それは当然で、栄養失調なら脳のはたらきが変化してしまうからである。そういう人に「思想に殉じろ」と説いてもムダである。そこでは思想と身体がバーターなのである。
「そりゃ極限状態の話だろうが」
と文科系の人はいうだろうが、極限だろうがなんだろうが、普遍的思想とは、そこでも成り立つものでなければならない。だからアウシュビッツのコルぺ神父は聖人になった。あの状況でキリスト教の思想を貫き通したからである。しかしほとんどの人は聖人になれなかったので、なぜなら食事が不足だったからであろう。こういう思想をニヒリズムというのなら、お好きなように思えばいいのである。
「それでも地球は回る」
のガリレオではないが、
「腹がへっては戦ができない」
だから本当に戦争しようと思ったら、食料をまず確保する必要がある。食料がなくなったら、戦争なんか、やめるしかない。ただし食料の取り合いで、殺し合いが起こる。事実それは、旧日本軍で起こったことである。ノモンハンで友軍とはぐれ、一週間以上、原野を一人さまよったという元兵士に出会ったことがある。食べ物はどうしてたんですかと訊くと、その辺にいくらでもあったと、ただ答えてくれた。
長尾五一著『戦争と栄養』(西田書店)という本がある。長尾氏はいわゆる支那事変に軍医として従軍した。その医師が昭和二十年、自分の記録をガリ版刷りで本にし、ほぼ全国の医科大学の図書館だけに配った。それが長崎大学医学部の図書館から見つかり、戦後五十年を記念して活版になった。それを読んで私が一番驚いたのは、日本の兵隊が飢餓に苦しんだのは、いわゆる太平洋戦争だけではなかったことだ。長尾氏が従軍してみると、前線から病兵が後送されてくる。元気がなく、ただブラブラしておりやがてかならず死亡する。はじめはどういう病気か、まったくわからない。それに栄養失調という診断名がやがてつくことになるのである。長尾氏がこの記録を医大の図書館にだけ配ったのは、
「戦病死と信じている遺族に、餓死とは言うにし忍びない」
という気持ちがあったからだという。私が驚いたわけがわかっていただけるであろう。世間はおそらくそれを「知らなかった」のである。
人は変わる
この前の戦争でフィリピンに軍属として赴任した小松真一の『虜人日記』(ちくま学芸文庫)の内容を、山本七平が論じた『日本はなぜ敗れたのか―敗因21か条』(角川書店)という本がある。ここにも戦争と食料の問題が書かれている。比島もまた、飢餓にあえいだ戦線だったからである。
「平地で生活していた頃は、荀子の人間性悪説等を聞いてもアマノジャク式の説と思っていた。ところが山の生活で各人が生きるためには性格も一変して他人の事等一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるという様なところまで見せつけられた。そして殺人、強盗等あらゆる非人間的な行為を平気でやるようになり、良心の呵責さえないようになった。こんな現実を見るにつけ聞くにつけ、人間必ずしも性善にあらずという感を深めた。戦争も勝ち戦や、短期戦なら訓練された精鋭が戦うので人間の弱点を余り暴露せずに済んだが、負け戦となり困難な生活が続けばどうしても人間本来の性格を出すようになるものか。支那の如く戦乱飢饉等に常に悩まされている国こそ老子ママの性善説が生まれたのだという事が理解される」
ここで小松氏は、飢餓下にある人が示す姿を、「人間本来の性格」と評している。それは当たらないと私は思う。状況によって「性格も一変」する。それが人間である。意識は「同じ私」というのだが、極限状態に置けば、それはウソだとすぐにわかる。人間は変わるので、そんなことは子どもから老人になることを思えば当然である。飢餓のように、外的条件を思い切って変えても、加齢の場合と同じように「ヒトは変わる」。衣食足りて礼節を知る。これは安易な印象批評ではない。だからこそ社会は平和で安定していて、食料は確保されていなければ「ならない」のである。「人間が楽をするために」、食料と平和があるのではない。しかもそれは「いつでも当然」の状態ではない。平和な日本の世間の人々がどこまでこれを真剣に理解しているであろうか。
大岡昇平氏の作品のなかに、いつもガツガツしている、青白くむくんだ顔つきの、どうしても好きになれない性格の兵隊が出てくる。大岡氏はそれを批判の目で見ていることがわかるのだが、医者の目からすれば、その人には寄生虫がいたんじゃないの、という疑いが生じる。理科系はニヒルだ、冷たいといわれることがあるが、その点では文科系は無知で独断的なのである。
ここにも思想と現実の食い違いの一面が見えていることは、おわかりいただけるであろう。暗黙のうちに、身体をその人の性格や思想から外してしまう。意識を外的条件とは無関係だときめてしまっているのである。・・・
基礎は感覚世界
ここでいう「外的条件」とは、つまり感覚世界の事である。それを人々は単純に「現実」と呼んでしまう・しかし、そうしたふつうに使われる意味での現実は、たとえば世間の約束事のような概念世界をすでに含んでしまっていることが多い。それがお金であり地位であり名誉であり、つまり人事である。しかし、いかなる「思想」つまり概念世界であろうと、それはつねに感覚世界と対照されて考えられなければならない。自然科学が教えるのは、そのことであろう。私があえて「脳」というのも、脳がまさしく感覚世界に属ずるものだからである。しかしそのことを理解してもらうのが、なによりも困難なのである。脳も虫も、世間の人は見たくない。そういうものを「見ない」ことで、むしろ世間が成立する。世間を支えているのが「大衆」であり、それが地面すなわち世間の基底面だとするなら、その地面は自然という地面にさらに支えられている。その自然は、かんかくによってしか、根本的には捉えられないのである。
自然科学を「抽象的」だと思っている人は、右の話はわかりにくいかもしれない。
「科学のどこが感覚世界なんだ。E=MC²なんて、抽象の極みじゃないか」
数式自体はむろん抽象、つまり概念世界である。しかしその式は、実験的事実という感覚世界と整合しなければならない。つまり感覚世界と整合的であるかぎりにおいて、この「抽象」は科学の世界で「仮に認められている」のである。そこに不整合が発見されれば、抽象は捨てられる。概念世界に属する科学の結論を「正しい」という科学者は多い。そこでは科学が宗教と同じ信仰に変わっている。信仰とは宗教の持ち分であり、科学の持ち分ではない。
確かなこと
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「医学部を出たのに、なぜ解剖なんか、やったんですか」
という質問を、何度受けたか、覚えていない。理由は単純で、解剖が一番安心だったからである。なぜ安心かというと、まず患者さんがそれ以上死ぬ必要がない。若い私にとって、患者さんに死なれるのが、最も怖かったのである。それが自分のせいだということになれば、一生その影響を受けるんじゃないか。それなら解剖がいいということになる。
しかしじつは、まだ患者さんなんか診ていない、学生のときの実習で、すでに「解剖は安心」だった。なぜなら、解剖では、自分の目の前にあることがすべて「自分のしたこと」だったからである。商売であれ、お客や患者という相手がある。相手は相手の都合で勝手に変化する。ところが解剖する相手は変わらない。私のしたことと、外に現れる結果とが、まったく一致している世界が解剖なのである。
「どうしてそれが安心なんだ」
と訊かれるであろう。すべてが自分のしたことであれば、すべては自分の責任である。そこでは他人のせいにする部分はなにもない。それが安心なのである。・・・
変わらないもの
この話はそう単純ではない。なぜなら、ウソではないということは、「いつでも、どこでも、成り立つ」ということだからである。それを古人は真理と呼んだ。その真理がいまでは死語であろう。大学案内のパンフレットには、情報とか国際とか環境とか、さまざまな新しい言葉が書かれているであろうが、真理とはもう書くまい。しかしまったく無意識に、敗戦を経験した戦後を経過した戦後育ちのわれわれは、「真理を追った」のである。
そう思えば、同じ時代が過去にあったことがわかる。それが明治維新だろう。明治の元勲の話をしているのではない。仁義智礼信忠孝悌が鹿鳴館にいきなり変化した時代の子どもの話である。維新の元勲たちは、その頃にはもう大人である。そういう人たちには無関係の話である。ところが子どもであれば、それだけの社会的変化があれば、私たちと同じように、
「変わらないものはなにか」
を暗黙のうちに追う気持ちが生じたに違いない。それが北里柴三郎、野口英世を生み、豊田佐吉を生んだ。そう私は思う。
「熊本だろうがベルリンだろうが、黴菌に変わりがあるわけじゃないし」
ということである。こうした理科系の技術者たちは、むろん文科系的な「思想」を書き残さない。だから私がそれを代弁しているだけである。
「思想は言葉にされ、形に顕されないかぎり、思想にならない」
という思想は、純粋に戦後育ちの最初の世代、いわゆる団塊世代にはっきりと見えるように思う。しかし右の文章のなかの思想という言葉を、「真理」という言葉に置き換えることは、じつはできない。真理は自分の「手に入ったり」、言葉で「これだ」と示すことができるようなものではない。それはひたすら「追い求めるもの」である。暗黙のうちに真理を追う。ひょっとすると、それがもっとも真理に近づく道であるかもしれない。その態度こそが、真の「無思想という思想」なのかもしれないのである。