無宗教・無思想・無哲学
そういうわけで、日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学だと主張する。それが日本の宗教、日本の思想、日本の哲学である。私はそう思う。すでに述べてきたように、これはなかなか合理的な考え方である。宗教、思想、哲学といった類のものを無理して持たなければ、とくに考える必要も、具合の悪いところをあえて訂正する必要もない。必要ならなにかの思想を借りておけばいい。その借り物がとことん具合わるくなったら、「取り替えれば済む」それが明治維新であり、戦後ではないか。
考えてみると、いろいろな人が、それぞれの表現で、「日本に思想はない」ということを述べてきた。そのはじまりは昭和三十年、大宅壮一の「無思想人宣言」という、「中央公論」に載せられた文章ではないかと思う。これについては後で述べる。
東大法学部の大先生だった丸山真男は、『日本の思想』(岩波書店)という著書のなかで、「日本に思想はない」と書いた。じつは私は、この本の中身について、これしか覚えていないのである。『日本の思想』という本なのに、この言い分は変じゃないか。若かった私は、素直にそう思った。いま思えば、この本は日本の思想そのものに立脚している、あるいはそれ自体が「日本の思想」そのものだったのである。世間と思想が補完的だという視点からいうなら、丸山先生は「日本に思想はないが、世間ならある」というべきだった。
さらに戦後を代表する思想家の一人、山本七平は、日本の中心には「真空がある」といった。最初にこれを読んだとき、私はなんのことやら、十分には理解できなかった。しかしいまでは、自分なりによくわかる気がする。真空とはつまり「絶対的に何もない」ことである。山本氏に表現は、天皇制についての指摘だが、天皇制が日本そのものであることは、多くの人が認めるであろう。そこが「真空」なんだから、もはやいうことはない。哲学も思想もあるわけがない、そういうものはすべて「吸い込まれて」、なくなってしまうのである。なにしろ「真空」なんだから。
最近では加藤典洋氏が前述した『日本の無思想』という本に書いている。デス・マス調で書いてあるから、やさしい本みたいだが、きわめて読み応えがある。筋の通った内容で、反論すべきこともない。ただそこではっきりしていることがある。それは著者が、
「表現され、表に顕されなければ、思想の意味はない」
とおそらく考えていることである。こういう人に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。その答えが、
「俺には思想なんかない」
という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない。