思想なんてない
「思想は現実とは無関係である」
他方、「自分が生きているのは現実の世界である」
ゆえに、「自分には思想なんてない。たとえそんなものがあったとしても、現実=世間で生きてゆくのに害こそあれ、意味も必要もない。
これが普通の日本人の想いであろう。これは極めて逆説的な結論である。
「俺には思想なんてない」
これこそが、もっとも普遍的な日本人、つまり世間の人の思想となっているからである。だから世間の人はいう。
「哲学や思想って、抽象的なものだろ。そんなもの現実とは関係ない」
これがまさしく「日本の思想」そのものである。だってこの文章の中に、具体的な言葉なんか、一つも入っていないからである。具体的な言葉とは、リンゴとかミカンとか、痛いとか冷たいとか、そういう言葉である。右の文章はじつは極めて明白な「抽象的断言」であって、それなら「それこそが哲学であり、思想である」というしかないではないか。
ここまで論じても、
「いくらいわれたって、哲学や思想は俺の実生活とは関係ない」
と思う人は多いはずである。「俺には思想なんてない」という思想、さらにはそれ以外の思想一般であっても、思想とはそこまで抜きがたいものなのである。それが思想のしたたかさであり、存在意味である。
世間という思想
もちろん、ここにはあるトリックがある。次のような疑問を発してみれば、わかる人にはわかるであろう。その疑問とは、
「あんたのいう現実とは、じつは一つの思想ではないか」
というものである。あとから述べるように、「日本人の現実」とは、要するに「世間」のことである。それならこの疑問は、
「世間とは思想か」
に置き換えられる。私はじつは世間ですら思想だと思っている。
「そんなめちゃくちゃな言葉遣いがあるか」
と叱られそうだが、意識的か無意識的かはともかく、世間にはたくさんのルールがある。ルールがあるということは、その基礎に決まった考え方、つまり思想があるということではないか。それなら仮にあなたが、
「思想は現実に関係ない」
と思ったとすれば、「あなたが思想だ」判断した思想つまり「思想」と、「思想ではないと判断した」思想、つまり現実=世間との衝突が起こっているわけで、そこで後者の思想しか認めていないあなたが、
「問答無用」
といっているだけではないのか。ひょっとするとあなたは、
「自分に関係があれば現実だが関係なければそれは思想だ」
などと暗黙に決めていないだろうか。というより、たいていはそう決めているのである。だから思想も人気がない。だって、関係ないんだもの。
脳の中にしかない
いちばん基礎的にいうなら、思想だろうが世間だろうが、
「あなたが見聞きし、あなたが考えている」
ものである。それならそれはすべて脳のはたらきで、脳のはたらきはすべて思想だといってもいい。なぜならそれは、脳の中にしかないからである。そうでないというのなら、死ぬとはいわないまでも、熟睡しているときに、「あなたにとっての現実」「あなたにとっての思想」がどこにあるか、教えてほしいものである。
文科系の人が、こうした言い方を嫌うことはわかっている。
「そもそもお前のいう脳の意味はなんだ」
と訊くからである。意味もクソもない。脳そのものを、われわれは直接に五感で捉えることができる。
「それとあんたの思想は深く関係してるよ」
私はそういっているだけである。それは身体があなたを成り立たせているというのと、同じことである。
日本人は、哲学とか思想とかの言葉を聞くとちょっと身構えてしまう。「あなたが見聞きし、あなたが考えている」のが哲学であり思想だと著者は言っている、これを読んで、これからこの website のタイトルを、「様々な断章」から「様々な思想」に変えることにした。私としては心を打つちょっといい言葉、短い章句の意味で断章とつけたのだが、そのほかに人間が知りえることは、しょせん物事の断片であると思っていたので断章と付けた。ここで、思うことすなわち思想である、と知った。思想という言葉は少し大げさな改まった感じがするが、心に思うこと、自分の考え自分が共鳴する考え方すなわち思想であると知り、タイトルを改めることにした。世間も思想だ、と著者は言っている。思想という言葉をもっと気軽に使うことにした。(管理人)