自分とは
現代社会は、自分というものが「あって当然」の社会である。妙な話だが、日本の世間に自分なんてものが、はたしてあるのだろうか。自分があって当然と思うのは、自分のほうから見ているからで、世間から見たら、自分なんてなにほどのものか。ちょっと広げて、世界から見たら、たぶん六十億分の一以下、ほとんど点である。
でも、その小さな点のなかに世界が入り、宇宙が入ってしまう。宇宙の果てからその起源まで、人間はともあれ考えてしまうからである。それならその点はじつは巨大なのかと思うと、そのくせこの世でわずかな時間を過ごして、やがてまもなく消えていく。だから禅では無常迅速といい、真宗では「朝に紅顔ありて、夕べにには白骨となれる身なり」
「人生は歩いている影に過ぎない」
これは『マクベス』にある有名な台詞である。「ただの三文役者、舞台の上で飛んだり跳ねたり、定められた時間を過ごし、二度と現れることはない」と続く。諸行無常という思いは、なにも仏教世界に限らない。ヘラクレイトスは万物流転といった。
それに何とか抵抗しようとするのも、人間である。だから一神教の世界では、霊魂は不滅だとする。それでもやはり、最後の審判がくる。その後は天国で永遠の幸福か、地獄で永遠の責め苦かに分かれるが、そんな先のことは、どう考えても「知ったことではない」であろろう。
そんな想いも、寝ている間は消える。人生という「飛んだり、跳ねたり」も、眠っている間はお休みである。想いのすべては意識がなす仕業である。意識のないときの「自分」は、他人が外から確認できるだけである。他人だけが確認する「自分」なんて、ずいぶん妙な自分だが、それを人は身体と呼ぶ。意識は途切れ途切れだが、身体はおそらく継続的である。その「途切れ途切れの点線をつなげて」現代人はしばしば自分そのものだと思い込む。寝ている時間があるんだから、自叙伝の三分の一くらいは空白の頁でいいはずである。そんな自叙伝を私は見たことがない。それでは話が変になるはずで、だから現に変になってるのだろう。
そこでふたたび「自分」に戻って、現代の日本で、その自分が具体的にどんなことになっているのか、それをまず考えてみようというわけである。