分をわきまえる
人は自分について誤解されるとつい素朴に反応して腹を立てたりするものです。でも怒る前に、世間は自分のことをこう見ているのかもしれないというふうに思うべきです。そっちの方が事実かもしれない、と気がつかなくてはいけない。仮に自分だけがそうじゃないと思っていても世間の人は皆そう思っていないかもしれない。
そういう誤解が生じ得るからこそ、公のルールというものがあるのです。「らしさ」というのはそのルールのことです。男らしさ女らしさ、殿様らしさ。分をわきまえる。そういうふうにしておく分には誤解がない。逆にいうと、その範囲だけでしか行動はできない。でも分をわきまえておけば社会的な人間としては務め上げることができる。
今はもう「分をわきまえる」という言葉自体が死語みたいになっています。そういう役割というのはどんどんなくなっているわけです。殿様はいないし、男は男らしく、女は女らしくと言うと古いと言われます。
私は本を書くようになってしばらくすると、自分の倫理として公務員を辞めざるを得ないと思うようになりました。何かを書けば「東京大学の教授がそんなこと言っていいんですか。困ります」というのです。その人が私の真意を全く理解していないことは明らかです。しかし、それは誤解ですよとわざわざ訂正して説明する義理はこちらにはない。
その文句を言っているひとは、「あの養老という奴はおかしいんだ」と教え子に言っておけばいいのです。それで構わない。
ところが、日本の社会では東大の教授が言ったから正しいというような言い分が通用するところがある。ものを書くときには自分の中に何らかの原則があって書いている。書き続ければどこかで世間とぶつかることが出てます。頭の中が全部東大の原則通りということはないわけで、自由に書いていくと、当然、そういう事態が起こってきます。
そこには二通りの考え方があって、それでも自分の考えを通すのが言論の自由であると考えて気にしないというのが一つの考え方。
もう少し穏当な考え方は「私」に帰ることだと思います。自分の発言が東大という世間で問題になった。学問するうえで自分が正しいと思うことを言わざるをえないが、別にもともとこちらは世直しをしようと思っているのではない。もしも発言によって世間で余計な軋轢をうむのならば、「私」として書いていくしかない。「私」として書いていくぶんには、憲法で、思想、新疆、表現の自由は保障されているのだから、だれにも遠慮することはない。そう思ったのです。
大学を辞めた理由のひとつはこういうことでした。
・・・
おそらく秀吉以外は草履取りを「雑用だ」と思っていたに違いありません。秀吉だけはそれを半端にやらなかった。だから成功したのです。
自分の筋というものにとらわれると損をします。自分に対する自分の意見なんて、自分に対する他人の意見よりもはるかに軽いことが多いのです。そんなことに深刻になっているのは、若い証拠です。そういうときなんか、自分はないと思っているのがいい。「私は人の言いなりです」でいいのです。