理想の共同体
おそらく、社会全体が一つの目標なり価値観を持っているときには、どのような共同体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。それゆえに、大きな共同体が成立していた。
とすると、どういう共同体が理想か、という問題を考える場合、実はその問自体に大した意味はないのではないか。
家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として目指すのかということの結果でしかない。同様に、あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるのではない。
かっては「誰もが食うに困らない」というのが理想のひとつの方向でした。今はそれが満たされて、理想とするものがバラバラになっている。だからこそ共同体も崩壊している。昨今の風潮でいえば、こうしたバラバラであることそのものが自由の表れであるような考え方もあります。これはどこか「個性」礼賛と似ている。
しかし、そうではないのではないか「人間ならわかるだろ」という常識と同様、人間にとって共通の何らかの方向性は存在しているのではないでしょうか。
私は、一つのヒントとなるのは、「人生には意味がある」という考え方だと思っています。アウシュビッツの強制収容所に収容されていた経験を持つV・E・フランクルという心理学者がいます。彼は収容所での体験を書いた『夜と霧』(みすず書房や、『意味への意思』『<生きる意味>を求めて)(春秋社)など多数の著作を残している。
そうした著書や講演のなかで、彼は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そうして、「意味は外部にある」ると言っている「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。
人生の意味
フランクルが七十年代にウイーンの大学で教鞭を執っていた際、アメリカからの留学生の60%が「人生は無意味だ」と考えていたそうです。これに対して、オーストリア人、ドイツ人、スイス人で「無意味だ」と考えていたのは25%だった。特にアメリカ型の思考を持つ人にこういう考え方が多いことがわかった。さらに当時の当時の統計で、若い麻薬患者の100%が「人生は無意味だ」と考えていたともいいます。
フランクルは、強制収容所といういつ殺されるかもわからない状況下で、「生きるとはどういうことか」という意味について考えてきた。そして彼の人生の意味は「他人が人生の意味を考える手伝いをする」ことでした。
ガンの末期で寝たきりになった患者にとっての生きる意味を彼は問います。医者によっては、そういう人にはもはや生きる意味はない、と判断するかもしれません。しかしフランクルはこう考えました。「その人が運命を知ったうえでとる態度によって、周囲の人が力づけられる」という意味があるのだ、と。
あるガン患者は、死んで子供たちと別れるのが辛いことを訴えました。これに対してフランクルは、あなたに身内がいなければ嘆くこともできない、少なくともこの世に置いていきたくないものを残しているではないか、それがまったく無い人もある、という風に答えます。
人生の意味、という問題は、今でも非常に重要です。ドラッグが流行っていることから見ても、人生は無意味だと思っている現代人が実に多いように見えます。人生の意味について考えていくことが、個人にとっても共同体にとっても、非常に重要なことではないか。
誤解を恐れずにいえば、9・11のテロにおいては、被害の大きさもさることながら、あの犯人たちが強い意味を感じているということそのものがショックだった、とは考えられないでしょうか。
それに対するアメリカ側の反撃はそこまでの意味が感じられない、というのがショックだったのではないか。身勝手だろうが何だろうが、テロリスト側が持っていたほどの強い意味をアメリカは持っていないように思える。
ただし、こうしたイデオロギーが人生の意味であるという状態(例えば戦前の日本もそうでした)は、もはや終わっていると思います。正当化するつもりもない。しかし、だからといって人生の意味が無くなったという結論にはならない。
現代人においては、「食うに困らない」に続く共通のテーマとして考えられるのは「環境問題」ではないでしょうか。環境のために自分は共同体、周りの人に何ができるか、ということもまた人生の意味であるはずなのです。
共同体が機能している時には、人間同士の貸し借りそのものがある種の人生の意味たりえた。生きていくうえでは何らかの付き合いがあって、そこではどうしても貸し借りが生じる。
何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは基本的には無償の行為です。
苦痛の意味
人生の意味を考えることはそう簡単なことではないかもしれません。なかなか答えが出るわけではない。正解が用意されているわけではない。「人生は無意味だ」と割り切った方が、当世風で楽に思えます。
しかし、それを真面目に考えないことが、共同体はもちろんのこと、結局のところ自分自身の不幸を招いている。
環境問題にしたって、「どうせ大噴火が起きれば環境もクソもない」とか「隕石が降ってくれば恐竜みたいに人間だって滅びるさ」と考えて何もしない、というニヒリズムに走る」のは簡単です。しかし、これは非常に乱暴かつ安易な結論です。
病気の苦しみには何か意味があるのか。医師のなかには、そんなものには何の意味も無いとして、取り去ることを至上のこととする人もいるでしょう。しかし、実際にはその苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない。そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味がないことになって、二重の苦しみを味わうことになる。
「苦痛に意味がある」というのは宗教的な考え方で、場合によってはいわれの無い社会的な差別のようなものまでを必然としてしまうという危険な面もあります。それでもやはり、たとえ苦痛でもプラスの面もある。という多面的な考え方は必要なのです。
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意味を見出せない閉塞感が、自殺をはじめとした様々な問題の原因となっています。かって脚本家の山田太一さんと対談した際、彼は「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」と言っていました。もはや自分の力だけでは閉塞感から脱することができない、という無意識の表れでしょう。実際には意味について考え続けること自体が大切な作業なのです。フランクルの言葉を借りれば、人生が常に私たちにそれを問うているのです。
共同体について考える、というと、どうしても顔の無い人間の集合体のようなものを想定してしまいがちです。しかし、事は直接私たちそれぞれの幸福なり「人生の意味」なりにかかわっているのです。
「話せばわかる」は大嘘
「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。
薬学部というのは、女子が六割強と、女子方が多い。そういう場で、この番組の感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。男子学生と女子学生とで、はっきり異なる反応が出たのです。
ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保険の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってよいくらいの違いが出てきたのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。
その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見ができなかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。
つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。
このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て、「新しい発見をした」と言う。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と」言っているだけなのです。
私たちが日頃、安易に「知っている」ということの実態は、実はそんな程度なのだということです。ビデオを見た男女の反応の差というのはかっこうの例でしょう。
「わかっている」という怖さ
「常識」=「コモンセンス」というのは、「物を知っている」つまり知識がある、ということではなく、「当たり前」のことを指す。ところがその前提となる常識、当たり前のことについてのスタンスがずれているのに、「自分たちは知っている」と思ってしまうのが」、そもそもの間違いなのです。この場合、それが男女の違いに顕著に現れた。
女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えて見れば、そこで登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。従って、様々なディテールにも興味が涌きます。一方で男たちは「そんなの知らんよ」という態度です。彼らにとっては、目の前の映像は、これまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。
本当は何もわかっていないのに「わかっている」と思い込んで言うあたりが、怖いところです。
知識と常識は違う
このように安易に「わかっている」と思える学生は、また安易に「先生、説明してください」と言いに来ます。しかし物事は言葉で説明してわかることばかりではない。いつも言っているのですが、教えていて一番困るのが「説明してください」と言ってくる学生です。
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ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は”常識”を”雑学”のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。私は「そうだよ。その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たリというところでした。
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現実とは何か
もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。
たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。
世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説『藪の中』や黒澤明監督の『羅生門』のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。まさに現実は「藪の中」なのです・。
ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることができるのだ」と思ってしまっています。
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つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でひとりだけいる。それが
「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提ができる。それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追及できるのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。
ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追及する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。
私自身は。「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、突き詰めて言えば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。
俺を見習え
そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないとできないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに、自分を真似ろと言っているわけです。それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。
そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて。好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。
私は、学生に人間の問題しか教えない。これは面白いことだ、と自信がある。解剖は解剖で面白いから、教えろと言われれば教えるけれども、二の次。いずれにせよ、自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている。
解剖から学べるのは、自然の材料を使ってどうやって物を考えるかというノウハウです。そこの部分は講義じゃ教えられない。学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに変えるかという作業です。それが本当の学問です。そこの能力が、最近の学生は非常に弱い。
逆に、いったん情報化されたものを、上手に処理するのは大変うまい。これはコンピュータの中だけで物事を動かしているようなものです。すでにいったん情報化されたものがコンピューターに入っているものだから、コンピューターに何をどうやって入れるかといことには長けている。
情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。ところがそれが欠落している学生が多い。要するに、医者なんていうのは、逆に言えば、そういうヒトそのもの、自然そのものを愛する人じゃなきゃできないのに、現状はそうではない。
東大病院で研究者が臨床へ出てくると、「一年間懲役だ」何て言っている。要するに患者と接するのがとんでもない苦痛、苦役だという。これでは本末転倒です。
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これまで「バカ」について、また思考停止を招いている状況、あべこべの状況について述べてきました。現代人がいかに考えないままに、己の周囲に壁を作っているか。そもそもいつの間にか大事なことを考えなくなってしまっていることを指摘してきました。
しかし、「どこがおかしいかはわかったが、じゃどうすればいいと言うのか」という疑問が、当然、次には出てくるでしょう。フランクルの言葉を借りて、「人生の意味を考える」必要性については触れました。
それはすなわち、どういう社会なり共同体が私たちにとって望ましいのか、またはどういう状態を私たちは幸福だと感じるのか、というテーマになる。
我々は今日まで一生懸命、単調な社会を延々と作ってきた。例えば、かっては働かなくても食える状態に近づきたいという気持ちが共通の原動力となって、これだけ生活が便利になった。
以前なら、十軒で耕していた田んぼを今は一軒でやっている。そうすると九軒は遊んでいるわけです。農村人口が減っていくのは当たり前で、合理化すれば、九家族は別のことをしなければいけない。機械化等の合理化によって、一家族が働いただけで、かってなら十家族が働いていただけの上り、収穫が出てしまう。今よりさらに肥料をよくして、機械をよくすれば、もっと収穫が上がるかもしれない。
ではその遊んだ分は一体どうするのかということを本当に考えてきたか。合理化合理化という方向で進んできて、今もその動きは継続している。が、それだけ仕事を合理化すれば、当然、人間が余ってくるようになる。
この余ってきたやつは働かなくていいのか・仮に、その分は働かなくていいという答えをだすのなら、今度は働かない人は何をするかということの答えを用意しなければいけない。
退社後、毎日が日曜日で何もすることがない老人は、それに近い状態です。しかし、彼を理想の境遇だという人は最早なかなかいない。そのへんのことを全く考えないままここまで来た。にもかかわらず、いまだに合理化と言っている人の気が知れない。
身体を動かせ
意識的世界なんていうのは屁みたいなもので、基本は身体です。それは、悪い時代を通れば必ずわかることです。身体画駄目では話にならない。
腹が減っては戦はできない、というのは真理です。江戸の侍が「武士は食わねど高楊枝」というけれども、そんなものは江戸だから言えたことに過ぎない。侍が飯食わないで侍の仕事ができるかといえば、答えは明白。天下太平になってしまっているから、そこら辺に気がつかなくて呑気に言っていただけ。
子供が今育っている環境は、私たちが育った環境と非常に違う。テレビは生まれたときから身近にあるし、体を使わないというのが非常に目立ちます。別に生物として子供が運動嫌いになってきたというわけではない。実際には子供たちを連れて山に行くと本当によく動いている。もともと子供はほおって放っておいても動くものなのです。
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欲をどう制御するか
人間をどういう状態に置いたら一番幸せなのか、ということは、政治が一番考えていくべきテーマです。実際には学者、哲学者が議論することが多いようにも思えますが、これにはあまり意味がない。しみじみ思うのですが、学者はどうしても、人間がどこまで物を理解できるかということを追求していく。言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に、政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない。
しかし、大体、相手を利口だと思って説教しても駄目なのです。どのくらいバカかということが、はっきり見えていないと説教は出来ない。相手を動かせない。従って、多分、政治家は務まらない。
このように、学者と政治家とはまったく反対の性質を持っている。学者が政治をやってうまくいくわけがないというのは、人間を見損なう、読み損なうことになりがちだからです。
つまり、プラトンが言うところの「哲人政治」というものは成り立たない。なぜならプラトンは学者だから、人間、どこまで利口かということを考えて、利口な人に任せたらいい、と考える。
しかし、現実はそうではない。多数を占めているのは普通の人だから、普通の人がどの程度で丁度いいのかをしっかり見据えておかないと、間違った方へ行ってしまう。
私が、昔のことを何度も持ち出すのは、昔の人は、そういうことを考えていたからです。まず、考えられてきたのは欲の問題。欲というのは、現代社会ではあまり真剣に議論されていない。欲を欲だと思っていない人が非常に多い。欲を正義だと思っている。
要するに、人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行きつく先は、鈴木宗男とか、いわゆる金権政治家みたいになってしまう。
欲というのは単純に性欲とか食欲とか名誉欲とかではなく、あらゆる物は欲だといえる。権力志向ももちろん欲の表れでしょうが、学問では、それが理屈とか思想という形で出ているのです。ジャーナリズムにおいても、ある意味では多くの人の意見を自分たちの考えで統一しようという欲が裏にある。
結局そう考えていくと、全てのものの背景には欲がある。その欲をほどほどにせいというのが仏教の一番いい教えなのです。誰でも欲を持っているので、それがなければ人類が滅びてしまうのはわかっている。しかしそれを野放図にやるのは駄目だ、と。
欲望としての兵器
欲にはいろいろ種類がある。例えば、食欲とか性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限のないものになった。
金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。するとこの種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。
近代の戦争は、ある意味で欲望が暴走した状態です。それは原因の点で、金銭欲とか権力への欲望が顕在化したものだから、ということだけではない。手段の点において、欲が暴走した状態である。
なぜなら、戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見に行くミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないですむ。死体を見なくてもよい。
原爆にいたってはその典型です。「お前がやったことだよ」とその場所を、爆破後一日たって見せてあげたら、普通はどんなパイロットだって爆弾を落としたがらなくなるでしょう。何せ何万何十万という被害者が目の前に転がっているのですから。
その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのはその方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接働いていた。目の前の敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。
異常者でもなければ、それに快感を感じることはない。だからこそ、武器は出来るだけ身体から離していきたい。その欲望を実現していき、結果として、武器による被害の規模は大きくなっていくばかりです。
経済の欲
よく似た現象が、経済の世界にも存在しています。百万円がないと首をくくった人もいれば、何億円も一瞬で稼いで、ドブに捨てるみたいに使っているやつもいる。金額の大きい方は、お金を触ってすらいない。武器でいえばミサイルとか原爆と同様の世界になっている。欲望が抑制されないと、どんどん身体から離れたものになっていく。根底にあるのは、その方向に進ものには、ブレーキがかかっていない、ということです。
金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。金は現実ではない。金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。脳の場合、刺激が目から入っても耳から入っても、腹から入っても、足から入っても、全部単一の電気信号に変換する性質を持っている。神経細胞が興奮するということは、単位時間にどれくらいのインパルスを出すか、単位時間にどれだけ興奮するかということです。
これはまさに金も同じです。目から入っても、耳から入っても、一円は一円、百円は百円と、単一の電気信号に翻訳されて互に交換されていく、ある形を得たものです。これは、目で見ようが耳で聞こうが同じ言葉になるのと同じで、どのようにして金を稼ごうが同じ金なのです。金の世界というのは、まさに脳の世界です。
ある意味で、金ぐらい脳に入る情報の性質を外に出して具体化したものはない。金のフローとは、脳内で神経細胞の刺激が流れているのと同じことです。それを「経済」と呼称しているに過ぎない。この流れをどれだけ効率よくしようか、ということは、脳がいつも考えていることです。経済の場合にはコストを安くしてやろうとという動きになる。
かっては金を貯めて大きな家を作りたい、車を買いたいと、金と実物が結びついていた。もちろん今でもそういうことはあるにせよ、どんどん現実から遊離していって、今は信号のやりとりだけになっている。
結果として経済の世界には、実態経済に加えて、ほかの言葉がないのですが、「虚の経済」とでもいうべきものが存在している。虚の経済とは何かというと、金を使う権利だけが移動しているということです。
ビル・ゲイツが何百億ドルかを持っているということは、彼は、何百億ドルかを使う権利を持っているということに過ぎない。
それが個人に集まろうが、集まるまいが、実は、大勢からみれば大した変わりがない。その権利のやりとりという面が非常に大きく扱われてしまう。それが虚の経済です。
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実の経済
もう一つ、昔からあるのが実の経済。これは明らかに、例えば、実際に物資が動いたりするのにコストがかかって、そのコストの対価として払われている金がある。ところが、実体経済に一番大きな穴があるのはどこかというと、金というのは、政府が自在に印刷できる点です。要するに兌換券ではなくなったために、現物との関係が今、切れている。そのため、完全に信用経済になっている。
『貨幣論』(筑摩書房)のなかで、岩井克人氏は、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかない」と書いています。金には何らかの価値の根拠があるわけではない。その金が何で通用するかというと、私が使った一万円
を貰った相手が同じ一万円として使えるという思い込み、でしかない、ということです。次に、その一万円を受け取った人が相変わらず一万円として使えると思っているという、「と思っている構造」の中で通用している。これは実は裏付けがない。だから別の言い方をすれば、紙幣の発行には限度がない。「と思っている構造」が成立する以上は幾ら刷ってもいい。
こういう状況で、考えておかなくてはならないのは、日本政府なり、世界中なりが、経済統計のみを問題にしているということです。経済統計というのは非常に不健康な部分を持っている。なぜなら現在のように紙幣が自由に印刷できるという状況だと、統計そのものが「花見酒経済」になっているからです。
樽が真ん中にあって、八つぁんと熊さんが担いでいて、八つぁんが熊さんに十文渡して一杯飲む。次は熊さんが八つぁんに十文わたして飲む。そうすると、樽酒はどんど減っていく。この八つぁんと熊さんの金のやりとりは、実は経済統計を極めて単純化したものです。経済はちゃんと動いている。にもかかわらず、ひたすら目の前の酒が減っている。これを経済的発展と捉えていいのか。
仮に兌換券という考え方が正しいとすれば、最終的な兌換券の根拠となるのは何か。それはエネルギーになるのではないか。例えば、一定量の石油に対して一ドルというふうにドルを設定すると、それがおそらく最も合理的な兌換券なのです。
石油の絶対量に比例していますから、石油が切れたらアウトだということはわかっている。石油だけじゃなくて、原発一基当たりでも何でもいい。
要するに都市生活、つまり経済というのは、エネルギーがない限り成り立たない。これは大原則です。すると、一エネルギー単位が実は一基本貨幣単位だというのは、実体経済のモデルとして考えられるのではないか。
虚の経済を切り捨てよ
ヨーロッパが始めたユーロというのは、いろいろ違った社会体制、国の中で、同じ単位の金を使うということです。ユーロの目指すところは、実は世界統一通貨だと思われます。ではその世界統一通貨の基準は何か。まさか、江戸時代の様に米だというわけには」いかない。世界に共通する基準というのは、エネルギー単位以外ないのではないか。これが実の経済の考え方です。
一方、だれが金を使う権利があるか、その虚のほうの経済、これは本質的に突き詰めて考えていくと意味がなくなってくる。つまり、情報と絡んでいて、正しい金の使い方というものが決まってくれば、だれが持っていようと大して変わりがないのです。この二つの経済は、区別されていません。が、実はきちんと分けていかなければいけない。経済学者がどう言うかは知りません。しかし、実の経済と虚の経済を区別しないと、よくわからないうちに、お金は動いていますよと言われ、ああそうかと騙されているうちにエネルギーはどんどん消費され、そのうちに地球環境が破壊されていく。
乱暴に言えば、こんなことを心配しても手出しは出来ないのだから、とりあえず人間の脳から出る欲が、外的要因によって否応なく制限されるまで待つしかないのかもしれません。しかしそうやっているうちに取り返しのつかないことが起こる可能性が高い。その代表例が環境破壊です。それを防ぐには、実の経済に根を下ろさなくてはいけないのではないか。虚の経済とは切り離してしまう。実の経済はきちんと動いているから、金のとり合いはおまえら自由にやってくれ、といいたいところです。
ところが実際には、無駄にお金を回し続けないと経済は成り立たない、という思い込みが世界の常識になっている。実の経済と虚の経済があるということは常識になっていない。つまり、八つぁんと熊さんの間で金が回っている、金が回っているのが良い状態だ、と。
しかし、実はそうではないはずなのです。実体が見えない状態で、欲のままにお金だけを回していけば、「経済は好調だ」とか何とか言っているうちに、いつの間にか目の前の酒樽は空っぽ、ということになってしまう。
神より人間
経済を「実」と「虚」に分ける考え方は、どこかこれまでに述べた「意識と無意識」「脳と身体」「都市と田舎」といった二元論に似ていることに気づかれたかもしれません。その通りで、私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。
普段の生活では意識されないことですし、新聞やテレビもそういう観点からの議論をしませんが、現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたきこまれてきたたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば女もいる、でいいわけです。
原理主義というのは典型的な一元論です。一元論的な世界というのは、経験的に、必ず破綻すと思います。原理主義が破綻するのと同じことです。
もっとも、短期的に見ると原理主義の方が強いことがある。アメリカでは禁酒法なんて無茶苦茶な法律が通ったくらいで、この手の一方的な押し付けも一種の一元論的な考え方の産物です。しかしそうした一元論はやがて、長い時間をかけて崩壊する。禁酒法だって無くなってしまった。
いい加減にそろそろ、それに気がついたほうがいい。だから、私はいつも脳について話すのです。
「あんたが100%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこに入っていないだろう。三分の一は違うかもしれないだろう。六七%だよ。あんたの言っていることは、100%正しいと思っているでしょう。しかし人間、間違えるということを考慮に入れれば、自分が100%正しいと思っていたって五〇%は間違っている」ということです。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。
本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでしょう。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。その前提に立たないと一元論には立てない。なぜなら自分自身が違う人になっちゃうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがない。「君子は豹変する」ということは、一元論的宗教ではありえないことです。コロコロ変わる教祖は信頼されない。
だから都市化して情報化する。そういう世界では、ご存じのように、中近東が都市化していって、そこから一神教が出てきた。事の流れからすれば必然なのです。
百姓の強さ
もともと日本は八百万の神の国でした。『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのも一元論ではない。我が国には単純な一元論は無かった。
ところが、近代になって、意識しないうちに一元論が主流になっている。大した根拠や、そこにつながる文化が無いにもかかわらず、です。
一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教と多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。
都市宗教は必ず一元化していく。それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓は、土地がついているからものすごく強い。その強さは、例えば成田闘争を見ればわかる。もう何十年も国をあげて立ち退きを迫っても、頑として動かない。これに限らず、昔から支配者は百姓をぶっつぶそうと思って大変な苦労をしてきた。
江戸時代でも、士農工商と支配階級を固定して、武士だけに武器を持たせ、徹底的に有利にしておいて、やっと百姓とのバランスがとれていた。そのぐらい、都会の人間というのは弱い存在なのです。
この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因しています。何も難しい話ではない。終戦直後の混乱期に、高い着物を一反持っていって、米は少ししかくれないなんてことはざらでした。そんなことは、私の世代は体験的にわかっていることです。
基盤となるものを持たない人間はいかに弱いものか、ということの表れです。しかし、今はほとんどの人間が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。その弱いところにつけ込んでくるのが宗教で、典型が一元論的宗教です。
カトリックとプロテスタント
例えば、細かいニュアンスを飛ばして簡単に分類すれば、カトリックとプロテスタントだったら、プロテスタントのほうが明らかに原理主義に近く、しかも都会型です。結局、ゲルマン民族が、キリスト教という基盤の上で改めて都市宗教として作り出した
のがプロテスタントだった。カトリックというのは、中世の間に、言ってみれば部族宗教、つまりゲルマンの自然宗教と融合していった宗教ですから、実質的に多神教的な面がある。イタリヤの町のカトリック教会に入れば中には〇〇聖人が飾ってあって、マリア様の部屋があって、正面にだけイエス・キリスト。これはある意味で多神教です。
非常に一神教の色合いが強いのが、イスラム教であり、プロテスタントです。だから、イスラムとアメリカが喧嘩しているのは、こちらから見ると一神教同士の内輪もめにしか過ぎない。
近頃ではこういう論調で物を書くと、「あんた、反米だろ」なんて見当外れの文句を言ってくる人がいる。もちろん、そんな次元の話ではないのですが、一元論の人には通じない。
この辺りの硬直性を見ると、考え方が戦前に近くなってる人が増えているような気がする。一神教的な考え方は日本の中にもたくさんあります。例えば戦時中の八紘一宇、世界を天皇を頂点とした一つの家と考える、なんて考え方は、その代表例です。ついこの間それをやって、こりごりしているはずなのに、また一元論で行くのか、と思う。
天皇制だって、昭和の初年ぐらいまでは、その後の太平洋戦争中ほど絶対化されたものだったとは思えない。天皇を国の一機関として捉える天皇機関説なんてものがあったくらいですから。ところが、戦争が始まってから、どんどん神格化されていった。
その頃のことを考えれば一番わかり易いのですが、原理主義が育つ土壌というものがあります。楽をしたくなると、どうしてもできるだけ脳の中の係数を固定化したくなる。 a を固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。
人生は家康型
徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と言いました。この言葉をその通りだと思う人が、今時どのぐらいいるのかはわかりません。私は遠き道を行くどころか、人生は崖登りだと思っています。
崖登りは苦しいけれど、一歩上がれば視界がそれだけ開ける。しかし、一歩上がるのは大変です。手を離したら千尋の谷底にまっ逆さまだけれど、それは離れている人から見ての状態で、本人は、落ちて気持ちがいい。それだけのことでしょう。
人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。
この「まっ逆さま」に転落している状態の代表例が、カルト宗教に身をゆだねているということです。私の見てきた学生には、オウム真理教をはじめ、随分、こういうのに引っかかっているのがいました。
こういう学生を何とかするには個人的につき合っていくしかないというのが教師としての経験則です。逆折伏するしかない。そんな暇はないと言えばないのですが、教師という職業だと仕方がない
。少しでも逆折伏につながれば、という思いがあるから、今でも教室で喋ることの何割かは、こういうことを色々な形で喋っているのです。
それがどこまで通じるのかはわかりません。そんなことを考えて、単純な見返りを求めても仕方が無い。
しかし、それを話し続けることが、少なくとも私にとっては「人生の意味」の一つだと思っている。文句を言いながらも教育の現場にいるというのは、そのために他なりません。
知的労働というのは、重荷を背負うことです。物を考えるということは決して楽なことじゃないよということを教えているつもりです。それでも、学問について、多くの学生が、考えることについて楽をしたいと思っているのであれば、そこにはやはり、もうどうしようもない壁がある。それはわかる、わからないの能力の問題ではなくて、実は、モチベーションの問題です。それが非常に怖い。
崖を一歩登って見晴らしを少しでも良くする、というのが動機じゃなくなってきた。知ることによって世界の見方も変わる、ということがわからなくなってきた。愛人とか競走馬を持つのがモチベーションになってしまっている。そうじゃなければカルト宗教の教義を「学んでいる」と言って楽をしているのか。
人間の常識
話を広げれば、日本国共同体が、世界の中でどの程度、意味を持っているのかということを考え直さなければいけない。一元論を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなきゃいけない。日本が、ある普遍的な原理によって立つ。それはどういう原理かということを考えていく。
一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。万能の神様が一人。イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、そういう教えです。それが世界の三分の二を占めているんです。そうでない人たちはどういう普遍性が提示できるかというと、そんな大層なものを持っていない。
しかし、こちらは、「人間であればこうだろう」ということは考えられる。それは普遍性として成り立つわけです。人間であれば、親しくなった人間を殺すかという話になって、それはしないだろう、という、ある種の普遍性を必ず持てるはずなのです。
今後日本がもし拠って立つとすれば、そういう思想しかない。あんまり欲をかくんじゃない、と。もちろん、そんなことは、当たり前のことのはずです。「ビル・ゲイツさん、あんた、それだけ金を持っていてどうするんだ、俺にくれ。使い切れないだろう、どうせ、生きている間に」と、そういう話は記できるはずなのです。おまえ、100%と言ってるけど、寝ている間はどう思っているんだよとか、そういう議論は必ず何かしらできるはずです。
人間であればこうだろう?という話、本書冒頭で述べた「常識」が、私は究極的な普遍性だと思っているのです。安易に神様を引っ張り出したりしない。一元論的に神様を引っ張り出すと、ある方向へ行くときは非常に便利です。有無を言わせず決めつけることができる。
一方で、「人間であればこうだろう」ということは、非常に簡単のようで、ある意味でわかりにくい。それでも、結局、そういしていくしか道は残っていなはずだ、と思うのです。イスラム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、ユダヤ教徒だろうが、あんた人間でしょう、という考え方です。「人間であればこうだろう」ということは、普遍的原理になるのではないか。
日韓ワールドカップで、日本の若者がイングランドのユニフォームを着て応援しました。韓国が勝ち進むと韓国も応援した。それぞれの国から見て信じられない事態なのです。「人間皆兄弟」というと変な風に受け取られますが、人間皆同じという考え方が、日本の場合基本的にあるのかもしれない。国境がなかったし民族同士の殺し合いもしていないし、戦場になっていない。こうした特性を「甘い」と言うのは簡単ですが、悪いことだと思えない。
現状はNHKの「公平・客観・中立」に代表されるように、あちこちで一神教化が進んでいる。それが正しいかのような風潮が中心になっている状況は非常に心配です。
安易に「わかる」「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのはすぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなる。
書店向けPOP広告には「バカの壁は誰にでもある」という著者の言葉が記された。自宅での著者へのインタビューより、「バカの壁」とは「人は知りたくないことに耳を貸さず情報を遮断すること」を意味する。著者へのインタビューから(Wikipedia から)。
2003年(平成15年)のベストセラー。碩学の著者が、「バカの壁」とは何のことを言っているのか、つかむまでに時間がかかったので、長い引用になってしまった。明らかに著者は怒っているのである。あるいはあきれているのか。(管理人)