生きるのも大変だが、死ぬのも大変
私は我儘と心配性が同居している厄介な人間なので、病院へ行くと「どんな目に遭うかわからない」という心配のために、病気になっても苦痛をこらえて家で唸っているのである。余計な検査なんかしてほしくないと思っても、何しろお医者さんは患者よりも偉いお方であるから、言われることを拒むことはできず、無用の検査に耐えなければならないのがいやである。無用かどうかはは医者が決める、素人にわかるわけはない、といわれると、その通りなのだが、別にそんなイヤなことまでして生きながらえることもない。そういう年まで十分生きてきたのだ。死んでもいいと思っている者を無理やり検査漬けにして生かそうとするのは僭越じゃないか、と私はいいたい。老人医療は苦痛を取り除いて安らかに死へ導くという考えを持ってもらうわけにはいかないものだろうか。
『戦いやまず日は西に』佐藤愛子『人間の煩悩』
人間は「物」ではない
病院へ行ったが最後、どんな目に遭うのかわからない、と私は思う。医師が関心を持つのは病人ではなく「病巣」だ。当たり前じゃないか、それが病院だ、と人はいう。その通りにちがいない。だが私はその「当たり前」さがいやなのだ。「病巣相手」ではなく「人間を相手」にしてもらいたい。「物」として私は死にたくない。たとえ病巣の発見が遅れようとも。
(アンダーライン 引用者)『老後のたしなみ 日々これ上機嫌』佐藤愛子『人間の煩悩』