現実社会を反映する来世
天国や地獄は一般に、少なくともそれが正直に受け入れられた社会においては、きわめて強い現実感を伴うものであった。したがって、時代や所を隔てたわれわれから見ると、途方もない空想のように思われる場合でも、当時としては現実生活に基礎をおき、それを想像で補足することによって、快楽や苦痛を適切に表現したものなのであった。宗教儀礼(たとえば埋葬、副葬品、のちの供養等)は極めて保守的なもので、時代が移り、または他の社会に移植されて、もとの意義が見失われたのちでさえも、古い形式が保存されるものであるが、これに反して、天国や地獄、一般に死者の世界の様相は、現実の社会をそのまま反映されることが多い。もしその死者の世界の描写が正者に対して説得力を失い、単なる言いつたえとして物語られ、または文学的創作として受けとられる場合は別であるが、正者に希望や恐怖をよびおこす力を持つかぎりにおいては、地獄極楽は現実の世界と無関係な形態を持つわけには行かないのである。キリスト教的社会でも、それぞれの民族に固有な天国感、ことに地獄観が根強く残っているのはこの理由による。またわが国でも、たとえば平安朝の源信の『往生要集』に仏教の八大地獄等の描写が詳しく、これによって日本人の来世観の内容が豊かになったが、文字による説明よりも、絵画として描写されたものの方が影響が大きく、中国の地獄変相から日本的に発達して、さまざまな絵画がつくられた。地獄絵の屏風を歳末の仏名会に立てたことが『枕草子』『栄華物語』などに記してある。また平安末期ないし鎌倉初期といわれる独特の「地獄草子』も伝わっている。これらにもとづいて日本人の地獄のイメージが成立したが、いずれも日本的景観を背景としたもので、異国的な要素は少なく、むしろ日本人の生活としっくり合っているようにさえ見える。地獄の山や川などにしても、前にものべたように、起源的には古い墓地や死体の捨て場から発達して、あの世の景観をあらわしたものであって、民族固有の色彩が濃いということげできよう。
このようにして、はじめは漠然とした地下の死人の国から、地獄や天国の思想がそれぞれ発達した。そして善人と悪人、信者と異端者とにそれぞれ賞罰を与える場所ということになると、資格や範囲が厳重に規定されるようになる。
ユダヤ教の場合
ユダヤ教でも、古くは死者の霊がシェオルという地下に住むという以外に、死後の運命についてほとんど何も考えられていなかったようやく紀元前二世紀ごろに復活の信仰があらわれてきた。たとえば「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう」(『ダニエル書』12:2) しかし、イエスの時代においてすら「元来サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」(『使徒行伝』23:8)状態であった。
キリスト教における復活
復活と最後の審判との信仰はキリスト教において確立された。『マタイ伝』25:31にはイエスの言葉として「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう・・・羊を右に、。やぎを左におくであろう・・・そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」と説かれていることによって明らかである。パウロはさらに(『コリント書第一』15:)これを敷衍して説き、また二世紀ごろの神学者たちは、さかんにこの問題を論じた。これによってキリスト教の根本教義の一つとなった。ローマの法王庁のシスチナ礼拝堂の壁画に描いたミケランジェロの「最後の審判」はこの信仰を形にあらわした傑作として広く知られている。
イスラム教における最後の審判
イスラム教においても同じ信仰が説かれていて、最後の日にはすべての死者が三組に分けられる。先頭に立つ組はとくに選ばれた人々で、神の王座の近くに召され、幸福の楽園に入り、寝台、酒、果物、女すべての点で特別待遇を受ける。右組は楽しい木蔭に休み、思うままに水を浴び、豊富な果物が食いほうだい、その上美しい女性たちにかしずかれる、左組は熱風と熱湯を浴び、木蔭がないので涼しくもなく、地獄の果実で腹がはちきれそうになったうえ、熱湯を飲まされる(『コーラン』56-57)きわめて官能的な説き方であるが、砂漠の灼熱に苦しむ民族の理想がうかがえて興味深い。