イスラームの終末観
旧約的な宗教にあっては、終末観は神学的理論でもなければ何らかの観念でもなく、ましてや文学的比喩、寓意のたぐいではない。それは全ての根底に伏在する感覚だ。生々しい圧倒的な感覚だ。元来マホメットは傲慢な超人的な人間ではなく、むしろ臆病な、小心翼々たる人だった。その彼を一挙にして強靭な石腸の人に変貌させたものは突如として彼を襲って来た終末観的感覚であった。感覚的セム人種のなかでも特にすぐれて感覚的、視覚的なアラビア人の代表的人物であったマホメットはこの不気味な終末観的感覚を、全自然が鳴動し、死者がことごとく墓地から曳きだされて「審判の日」の光景として、ありありと手にとるように表象した。コーランの最古層に属する第101章「打撲」はわずか八節の短説のうちに最後の審判の光景を力強く描き出す。
打撲の章
打撲!何ごとぞ打撲とは?
打撲とは何ぞやと汝に知らするものは何ぞや?
人々あたかも群れ飛ぶ蟻のごとく吹き散らさるる日。
山々あたかもむしり取られし染め綿のごとく成る日。
その秤重く下る者には快き来生あるべし
その秤軽く上がる者は深淵を棲家として与えらるべし。
深淵とは何ぞやと汝に知らする者は何ぞや?
そは炎々と燃えさかる劫火なえい。
もう一つ有名な第82章「裂罅」の全省を次に試訳してみよう。
裂罅
蒼穹は破裂し
星々八方に飛散し
すべての墓穴あばかるるとき
そのとき、魂は己が所業の成果を知るべし
ああ、人間よ、そも何ものにたばかられて汝の主に背きしや
主は汝を創造して均衡正しき形となし
御心のままに汝をいかなる形にも造りなし給いしにあらずや
しかるに何ごとぞ汝らは審判に日を虚妄となす。
知らずや汝らの頭上にに記録天使ありて
正しく汝らの所業を記録しつつあるを
汝らの為すところことごとく※天使らこれを知るなり。
げに信仰あつき人は至福に入るべし、
されど悪しき者どもは地獄に堕ち
審判の日に劫火の餌食となりて
遁るる由もなかるべし。
されど審判の日は何ぞやと汝に知らするものは何ぞや?
そは魂ら、かたみに助けんすべもなく、一切の主権はただアッラーの御手にある日ぞ。
※イスラームの考え方によると、人間は各人ごとに必ず二天使がつきそっていて、その人の善行悪行を細大洩らさず記録する、という。
このように審判の日を描いた章句はメッカ時代に啓示に充満していてほとんど枚挙に遑ないほどであるが、それらを総合すれば大体次のような光景が出来上がるのである。世界の時間的秩序が根底からくつがえされて万物が終末に達する宿命の日は、先ず嚠喨と天地に響き渡る喇叭に音に始まる。耳を聾するばかりの霹靂が天を揺るがし、何とも知れぬ崩壊と衝撃の凄まじい音響が起る。大地は恐ろしい地震に裂けひろがって、地底深く埋蔵されていたものをことごとく吐き出してしまう。天蓋はぐらぐらとよろめき、不気味な亀裂が縦横に走ってついには下から巻き上がる。山々は動き互に衝突して轟然たる大音響とともに粉々に飛び散り、諸海洋は互に混流し、太陽は折れ曲がり、月は裂け、星々は光もなく地上に雨と降って来る。天は火焔を吹き出して、噴煙濛々と世界を覆ううち墳墓は口を開いて死者はことごとく蘇り、審きの場に曳かれて行く。
近年、ヨーロッパの宗教心理学では、マホメットを純聴覚型の宗教家とする意見がひろく行われている。しかしマホメットは決して純聴覚型ではなくて、また大いに視覚的な人でもあった。彼はしばし異象を見た。しかもその異象は実に生々しいまでに感覚的であった。しかし彼の教えを受ける聴衆の方もまた著しく感覚的な人たちだったのだ。だからこそ彼の播いた種は「良き地に落ちて、あるいは三十倍、あるいは百倍の実を結」んだのである。アラビア砂漠では人を説得するには感覚だけに頼る以外の途はない。論理的な証明は一切無用だ。そんなものをいくらみせたところでアラビア人は見向きもしなかったろう。世界最後の日をありありと目に見るように描いて見せてはじめて終末観も生きてくる。今日の我々から見ると余りにも露骨に感覚的でありすぎて、かえって人心を宗教から離反させるようにも思われるコーランの異変描写が、当時のベドウィンたちの心に強く働きかけて、これを粗暴な偶像崇拝から見事に純正な一神教に方向転換させることのできた所以はここにある。
わたしが、イエス伝を書いたとき、はじめ不思議にも思い注目したのは、イエスの終末観であった。世の終わりが来る、すぐに迫っている、と感じていた。その切迫感が彼の活動や説教を真に迫ったものにしたと思われる。こう思い、マホメットも同じ思いに駆られていたのを興味深く思った。予言者は皆このように思うのであろうか。 管理人