尽第四問半 上巻が第四章の半ばで終わっていることを示す。
夫れ 「夫」の訓読み。文頭に用いられ、語調を整えたり、話題の導入や論旨展開の着点を示す役割を果たす。「そもそも」「いったい」「さて」などの意味合いを持つ。文頭に用いて、語調を整える。
極楽往生の教行 阿弥陀仏の極楽に生まれるための教えとその修行とは、この濁りはてた末の代の人々にとって大切な目や足に当たるものである。「極楽(sukhāvatī)」は、「楽あるところ」の意で、阿弥陀仏がわれらを救済するための場として建立した清浄世界。「須摩題」等と音訳し、「安楽・安養」とも訳す。いのちを終えた後、そこに生まれてゆくことを「往生」と言う。「濁世末代」釈尊の滅後、仏法が次第に衰えてゆくと考える歴史観、いわゆる末法思想に基づく歴史観。釈尊の滅後千五百年あるいは 二千年を経過すると、仏法は形骸化し、悟りを得ることができる者はもちろん、正しい修行をすることができる者さえいない「末法」の時代に入ると考えられていた。日本では永承七年(1052)を末法元年とする立場が一般的である。『往生要集』は永観二年(982)秋から翌寛和元年にかけて出筆されているので、やがて来る末法のの時を見据えて、末世相応の仏教として往生極楽の法門を提示したと言えよう。
帰せざる 「帰す」最後はひとつところに落ち着く。帰着する。従う。
顕密の教法 顕教と密教で仏教全体を表す。天台宗は顕教に属ずるが、後に密教を充実させた。これを台密という。密教は空海が唐より持ち帰った。そもそも仏教は、聞く者の素質に応じて理解しやすく説かれるもの、と言われる。ところが『大日教』や『金剛頂教』などの経典に説かれた教えは、秘奥幽妙の法門で、特別な者にしか理解できないと言われる。そのような仏教を「密教」と称して、通常の「顕教」と区別する。
事理の業因 事は具体的な現象としての差別、理は普遍的な真理を注す。ここでは極楽に生まれるためにおこなう、仏の相好(そうごう)や浄土のすがたを観想することが事の業因で、仏を普遍的な真理そのものと捉えて、これと一体となる修行が理である。
予が如き頑魯の者 わたしと同じような、かたくなで愚かなもの。源信の同輩意識と自己反省を語る。
豈 漢文の「豈(あに)」は、反語や詠嘆の表現として使われます。「どうして~だろうか。いやない」の意味になる。
等活 ともに生活するの意。想地獄ともいう。「地獄」は罪の報いを受けて生まれる世界、その生存の仕方、および生きもの。六道の一。
地獄 罪の報いを受けて生まれる世界、その生存 の仕方および生きもの。六道の一。仏祖統紀巻32には、「地獄有三。一熱、二寒、三辺」(正蔵49の317上)という。「熱」は八熱地獄、「寒」は八寒地獄、そして、「辺」については、「辺地獄、有三。山間・水間・曠󠄂野。受別業報。此応寒熱雑受」(同49の317中)と説いている。(石井)
地獄について 伝統的保守的仏教の教義要綱書である『倶舎論』でもこの八種を立てている。ところで、これらの八つの地獄の観念は、人間の空想にもとづいて突然現れたものではない。インド以来極めて長い期間にわたって変化発展した「地獄」の観念にもとづいてつくられたものである。その成長過程を簡単にたどってみよう。(仏教以前における地獄)地獄とは地下にある牢獄の意で、現世に悪行をなした者が、死後その報いを受けるところをいう。日本における地獄の観念は、インド以来のものを受容し、変化・発展させたものなのである。
インドの宗教文化の最古の所産である『リグ・ヴェーダ』諸讃歌(西紀前1300~前1000年頃)についてみるに、善人であった死者の霊はかって逝きし父祖の通った道によって永遠の光明ある楽土にゆき、そこで自分の血縁のものと再会し父祖(pitarah)とともに喜びにみちた生活を送るという。天国は願望を達することのできる楽しい所であると、リグ・ヴェーダ詩人は考えていた。
「欲望と願望のかなえられるところ、輝かしきソーマの杯のあるところ、安楽と喜悦のあるところ、- そこでわれを不死となかし」
その楽土は死者の王ヤマ(Yama)の支配する王国であり、最高天にあり、光明・緑蔭・酒肴・歌舞・音楽に恵まれた理想郷である。このような天界の楽土に到達するためには、特に祭祀を実行しなければならぬ。他人に対する布施、特にバラモンに対する布施が賞賛されたが、種々の警戒(vrata)をたもち苦行(tapas)を行うべきであり、また戦場で戦死した勇士も天上の楽土に到達し得ると考えた。他方、悪人の運命については詳しい説明がなく、死後の審判の観念も未だ明確には現れていない。ただ、悪人は恐ろしい無(asat)、非理(anṛta,nirṛta)の深淵の中に堕ちると考えていたが、明確な地獄の観念は説かれていない。かれらはどこまでも現世および来世における生に執着していて、楽しみを享楽しようと願い、未だ厭世的な世界観をいだいていなかった。・・・
死者の王ヤマは死後の審判者としての性格をますます強めるに至った。そこで恐ろしい神とみなされ、仏教神話においては地獄の審判者と考えられ、「閻魔」と漢訳され、道教の観念も種々混入して、ついにわが国では「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」という俗信が成立するに至った。ただし朝鮮の閻魔様はおどけたような顔貌を示していて、それほど恐ろしくない。
地獄は仏教では重要な観念である。仏教では、サンスクリット語ならびにパーリ語のナラカ(naraka 「奈落」「捺落迦」などと音写する)、またはニラヤ(niraya)を「地獄」と訳している。地下の牢獄の意で、悪人が死後に生まれて、苦しみを受ける場所である。地獄の観念は、当時一般の民衆の間で奉ぜられていたが、それを仏教がとり入れたのである。悪を犯した者が地獄に落ちるということは、仏教の最初期から説かれていた。応報思想が輪廻思想と結びついていたのである。
インドの諸宗教の説いていた「善因善果、悪因悪果」という因果関係は、現世のことがらに関しては或る程度まで真理である。全面的に真理ということはできないが、或る程度の蓋然性をもって真理であるといえよう。ところで、もしこの因果関係を現世だけに限ることなく、のちの世界まで延長すれば悪の結果としての地獄の存在を当然容認せねばならなくなる。ジャータカや因縁譚が民衆の間に普及し、信奉されるにつれて、地獄はますます実在性をもって信奉されるに至った。
仏教によると、地獄とは迷える衆生の五つの生存領域(五道または五趣)または六つの生存領域(六道または六趣)の一つであった。原始仏教聖典には、釈尊の語として、(アンダーラインは引用者)
「ここに五つの生存領域(趣gati)がある。五つとは何であるか。地獄と畜生と餓鬼と人間と神々とである」といい、地獄については、
「われは、地獄、地獄に至る道、地獄に至る行路を知り、またかって行った行いにしたがって、身体が破壊したのち死後に地獄に生まれることを知っている」
という。他の畜生、餓鬼、人間、神々(諸天についても同様の説明をくりかえし、最後に煩悩を滅ぼしつくして達する解脱の境地、ニルヴァーナ(涅槃)についていう。
「われは、」ニルヴァーナ、ニルヴァーナに至る行路を知り、またかって行った行いにしたがって、諸々の汚れを滅ぼしたのちに、汚れ無く、心の解脱、知慧の解脱をまのあたり自ら知り体得して達していることを知る」
さらに前掲の文句を敷衍するような説明がなされている。
「またわたしは、或る一人を、心を以って心をとらえて知るー「この人は、身体が破壊してのち死後に地獄に生まれるように、そのように実践し、行動し、道を進んだ。だからこの人が身体が破壊してのち死後に地獄に生まれて、ただ苦しむのみで激しい苦痛を感受していることを、わたくしは清浄にして超人的な天の眼を以って見る」
或る場合には、五種の生存領域のうちで神々だけを特に詳しく分けて述べている場合もある。
「地獄よりも畜生がすぐれている。・・・畜生よりは餓鬼の境界がすぐれている。・・・餓鬼の境界よりは人間どもがすぐれている。・・・人間どもよりは四天王がすぐれている・・・四天王よりは三十三天がすぐれている・・・三十三天よりはヤーマ天がすぐれている。・・・ヤーマ天より兜率天がすぐれている。兜率天よりは毛楽天がすぐれている。・・・毛楽天よりは他化自在天がすぐれている。・・・他化自在天よりは梵天の世界がすぐれている」
ただここで注意すべきことは、この文においてヤーマ天はyā mā devā と複数で示されている。ヤーマとよばれる神々の居住する天の或る層には多数の神々がいると考えられていたのである。そうして、もしもヤーマがヤマと何らかの関係があったとすると、ヤーマの天界はは地獄と切り離されているから、ここには『リグ・ヴェーダ』以来の、ヤマの古いイメージが保存されているのである。
しかしこのように五つにまとめられたのは、原始仏教聖典においてはかなり後のことであり、また「生存領域(趣gati)」とは、もとは神々と人間だけに限られていたのであり、畜生、阿修羅、餓鬼、地獄の四つは、前掲の二つとは区別されて、「くずれ落ちたところ(悪道vinipā ta )と呼ばれていたらしい。ところが後になって、仏教では衆生の輪廻する範囲を地獄・餓鬼・畜生・人間・天上という五つの生存領域(五趣)に分け、或る場合にはそれに阿修羅を加えて六つの生存領域(六道または六趣)とするようになった。五つの生存領域を立てることは、前に指摘したようにすでにパーリ文の原始仏教聖典の中に見られるが、六つの生存領域という観念は、原始仏教聖典の詩句の部分には現れていないようである。それはつまり遅れて成立した観念なのである。しかし後代には、特に日本においては後者のほうが支配的になり、古来「六道輪廻」とか「六道能化の地蔵菩薩」ということばが人々の間で口にされるようになった。・・・
源信は、地獄を説く場合に、どれどれの経論にもとづいたということを記しているが、経論の文章をそのまま長く引用することをしていない。つまり、かれ自身がこなして書いているのである。多くの経論の文章を引用して浄土を論ずる場合とは非常に異なる。
源信は主として正法念経(『正法念処経』)にもとづいて地獄を述べている。この経典はサンスクリット原文が残っていない。したがって、サンスクリットなどの原文を引用して対比するという手法がこの場合適用しがたい。ただ伝統説として玄奘訳『倶舎論』における説明を・・・源信が玄奘訳の『倶舎論』を読み、学習していたことは、疑いない。・・・また地獄を体系的に
述べた日本人の著作としては、『往生要集』が最も有名であるから、両者の対比ということは、充分の意義を持っていると考えられる。(中村元著『往生要集を読む』からp19-p28 (仏典における「地獄」の出典、およびそれについての考察は、『国宝地獄草紙』複製の「解説」(銀河社 昭和48年)中の中村「地獄論」に詳しく述べておいたからここでは省略する、のコメントあり)
追伸 以上を読んで、私の得たもの理解したものは、①地獄はインド古代から生成し時代とともに変化した時代の産物であること、つまり歴史上の産物であること、したがってこれからも変化してゆくだろうこと。②地獄を観念として説明していること以上の2点である。・・・管理人
閻浮提 梵語。わたしたち人間の住んでいる世界。四大州の一。仏教の世界観である須弥山説では、一世界の中心は須弥山という高山で、これを海と山が交互に八周しているとする。この海には四つの大陸があるとし、これを四大州という。『大智度論』
由旬 梵語。距離の単位。一説に約14.4kmとする。実測では、はっきりとは分からない。古代インドの距離の単位。
沙揣 砂の塊。
欻然 (訓み:くつぜん) たちまち、にわかに。「くつ」未詳。
有情 衆生。含霊ともいう。生存するものの意。こころをもった生きもので、主として人を指す。
四天王天 天界で、この地上に近い六欲天のうち、もっとも近い天。持国・増長・広目・多聞の四天王とその一族が住まう。
下の六 この先ふれる六つの地獄。
四門の外 東西南北にある門。地獄にはこの門の外に、それに付随した小地獄が16あってこれを別処という。他書では増という。
令 漢文で「令」の字は、命令する。お達しする。命令して・・・させる。掟。長官。
瓮熟処 かめに入れてぐつぐつ煮る処の意。
狗犬・野干 いぬ、きつね。
骨肉狼藉 食い散らした骨や肉があたりに散乱している。
貝 ほら貝。
已上 「已上」は漢文の訓読みで「いじょう」と読み、漢文の意味も「以上」という意味。
閻羅 梵語。閻魔羅社(えんまらしゃ 閻魔王の意)。地獄の王。その住所は地獄・餓鬼・畜生などとは別の世界として立てるものがあるが、本書では餓鬼の世界をこの王の住所とする。閻魔王の思想はシナにきて道教などとまじわった結果、五官王、八王、十王などの説が生まれ、とくに裁判官である十王の一として知られている。
異処 特別の地獄。別処ともいう。
身分 身体の部分。
衆合地獄 「衆合」たがいに打ち合うこと。あるいはその群れ。/ 「衆合」は衆多の苦が俱に襲いかかるの意。また一説に、「推圧(重ねて押しつぶす)」の意という。(梯氏)
日の初めて出づる如き者あり。身沈没すること重き石の如き者あり ある者は日の出の太陽のようにぽっかりと頭を浮かせ、ある者は石のように身を沈めている。(梯)
端正厳飾 顔だちのととのった、きれいに着飾った。///
所・されて 漢文の「所」は受身の意味、「される」。「我所好書」我が好むところは書なり」返読文字。返って読む。「所」という字は、直後に他動詞を伴い、その目的語(対象)を名詞化する働きがあります。つまりこの文では「所好」の二字で「好むもの(何を好んでいるか)」という意味を表しています。我」はその「所好」の主語ですから「我所好」で「私が好きなもの」、この三字が「書」に対する主語となって、全文の意味は「私が好きなものは書物である。」となります。
異人 「ことひと」と読み、別の人、ほかの人、他人、外国人、異国の人、を意味する。
他人の作れる悪もて、他人が、苦の報を受くるにあらず、自業自得の果なり、衆生皆かくの如し。 他人の罪を着せられて 苦しみを受けるわけじゃない すべては自分のまいた種 自業自得だ 思い知れ(梯訳)
汝、なんぞ悲心なき、またなんぞ
寂静ならざる、我はこれ悲心の器 我においてなんぞ悲なきや なぜ哀れみの心なく しばしも休まず責められる 我こそ哀れみを要する身 それなのになぜ容赦せぬ(梯訳)
寂静ならざる、我はこれ悲心の器 我においてなんぞ悲なきや
己、愛羂に誑られて、悪・不善の業を作り、今受悪業の報を受く。何が故ぞ我を瞋り恨むる 愛欲の網にからまって 悪事の限りを行った 自分の罪の報いだろう なぜいま俺を恨むのだ(梯訳)
汝、本悪業作り、欲痴の為に誑らる、かの時なんぞ悔いざる、今悔ゆとも何の及ぶ所ぞ 積り積もった悪行は 欲と無知とのなせるわざ その時になぜ改めず いまごろ悔いても手遅れだ(梯訳)
夜摩天
熟蔵 消化器の上部を生蔵といい、下腹部の腸の部分を熟蔵という。
已上 「いじょう」と読み、漢文では「以上」の意味です。
大論 大智度論。
閻羅人 閻魔王の配下の獄卒。
寂静ならざる どうしてこうも罪人の呵責に狂奔するのか。絶えずに責めるのか。
男の 男色。衆道。
飲酒 五戒・十戒などの一。大乗では飲酒は軽い罪として扱われ、むしろ酒を売ることを重罪とする。小乗でも懺悔すれば許される軽罪。
肘 長さの単位。約46cm。
仏の所において、痴を生じ、世・出世事を壊り、解脱を焼くこと如火の如くなるは、いはゆる酒の一法なり 仏の前でも憚らず 人生すべてをぶち壊し 悟りの種さえ焼き尽くす それが酒のおそろしさ(梯訳)
妄語は第一の火なり なお能く大海を焼く いわんや妄語の人を焼くこと 草木の薪を焼くが如し うその炎は激しくて 大海さえも焼き尽くす だから嘘つき焼いたなら 草木や薪ほどよく燃える(梯訳)
生蘇 芽を出したばかりの若草。
分荼離迦 梵語。正しく花を開いたしろい蓮華のこと。ここは、この蓮華の咲く池のある別処の名。
所依の処 よりどころ、つかまるところ。
四大 地・水・火・風の四。これらを物質を構成する要素。あるいは元素と見た。地は堅さ、水は湿りけ、火は熱さ、風は動きを本性とする。ここに提示された、「身体の様相は変化するが<地・水・火・風>の四元素は不変の実体である」という見解は、「諸行無常・諸法無我(あらゆる現象は常に移り変わり、あらゆる存在は永遠不変の本質をもたない)」を説く仏教と対立する立場であった。
半中劫 一中劫の半分。劫は梵語。劫波などの省略で、極めて長い時間の意。劫は世界の成立と破壊の過程に関連して説かれるもので、一説によれば、この世界の人の寿命は、量り知れないほどの時間を経て住劫のはじめにはいると、暫次百年に一歳ずつ減じて、ついに十歳にまでへっていくが、この減少の過程を住劫における最初の一中劫といい、この十歳の時を境として、こんどは暫次増加し、量り知れないほどの寿命に達する。これが第二の一中劫。その後は同じように減と増を繰り返して劫住では二十中劫を数えるとする。
中有 中陰(ちゅういん)ともいう。生命あるものが死んで次の生を得るまでのその中間の存在。この間もある種の身体をもつと考えたもので、その姿について地獄に生まれたものの中有は容姿醜悪で、焼けぼっくいのようだといわれる。
業風 業は意志を伴った身心の活動、行為であって、この行為はかならず果を招くが、その行為が悪行であるとき、そこにもたらされる果は激しい苦であるかた、この悪行の苦の烈しさを風にたとえて業風という。また地獄で吹く風をいうこともあり、世界の終末に吹く風にもいう。
汝 地獄の声を聞いて 已にかくの如く怖畏す いかにいはんや地獄に焼かるること 乾ける薪草を焼くがごとくなるをや 火の焼くはこれ焼くにあらず 悪業乃ちこれ焼くなり 火の焼くは則ち滅すべし 業の焼くは滅すべからず 地獄の声を聞くだけで そんなに震えているけれど いよいよ地獄で焼かれたら 枯草のようによく燃える 地獄の炎を焼くんじゃない おのれの罪が起こす火だ ほかの炎は消せるけど おのれの罪の火は消せぬ(梯訳)
優婆夷 梵語。精信女とも訳す。女の在家信者で、仏教に帰依し、在家の五戒を受けたもの。男の信者を優婆塞という。
共に行じ 性的な交わりを行うこと。
或るは増劫或いは減劫に 「いつまでも永遠に」と意訳される。世界は「成劫(成立期)・住劫(存続期)・壊劫(破壊期)・空劫(空漠期)の過程で生成と衰滅を繰り返すとされる。これを「四劫」と呼び、各二十小劫を経る。その中「住劫」では、人間の寿命が八万歳と十歳の間で増減を繰り返す。寿命の増減は住劫の間に往復二十回繰り返されるという。極めて長い時間を表している。
これ天・修羅・健達婆・竜・鬼のなせるにあらず 「健達婆(gandharva)」は、インド神話に登場する神で、帝釈天に仕える天上の楽師として知られる。ここに列挙されているのは、仏教を守護するいわゆる「天龍八部衆」の一部である。八部衆は通常、1 天(梵天・帝釈天などの天上界の神々)2 龍(海中や地中に住む龍神)3 夜叉(森の神、毘沙門天の眷属)4 乾//婆 5 阿修羅(闘争の神で帝釈天に制圧されたという)6 迦楼羅(龍を襲う鳥の神)7 緊那羅(美しい声をもつ天上の楽神)8 摩喉羅迦(蛇神)をいう。
阿鼻地獄獄 「阿鼻(Avici)は「無間(むけん)」の意。間断なく苦を受ける処という意味。八熱地獄の最下位に位置し、五逆や謗󠄂法などの重罪を犯した者が堕ちるという。(梯)
空に偏して中間なし 空いっぱいにすきまなく。
一切はただ火炎なり 空に偏して中間なし 四方及四維 地界にも空しき処なし 一切の地界の処に 悪人皆遍満せり 我、今帰する所なく 孤独にして同伴なし 悪処の闇の中にありて 大火炎聚に入る 我、 虚空の中において 日月星を見ざるなり
すべてが炎につつまれて 空いっぱいにすきまなく 四方八方 天も地も みなあかあかと燃えている 地面はわずかの余地もなく 悪人ばかりが満ちている 身を寄せる場所も見つからず 頼れる者は誰もない 暗闇の中をただ一人 炎に向かって墜ちて行く 虚空(そら)をながめてみたけれど 月も日も星も出ていない(梯訳)
或るは増劫或いは減劫に 大火、汝が身を焼く 痴人已に悪を作る 今何を用いてか悔いを生ずる これ天・修羅・健達婆・竜・鬼のなせるにあらず 業の羅に繋縛されたるなり 人の能く汝を救うものなし 大海の中において、ただ一掬の水を取るが如し この苦一掬の如し 後の苦は大海の如し
いつまでもいつまでも永遠に 猛火がお前を焼くだろう 悪にまみれた罪人よ 今ごろ悔いてもしかたない 神が与える罰じゃない龍神・悪鬼のせいでもない おのれの罪が縛るのだ だから誰にも救えない 大海の水を手ですくい 一杯ずつでも汲み上げよ 今の苦痛は一杯分 大海の苦がまだあるぞ(梯訳)
隔 隔壁。
東方の多百踰繕那踰繕那・・・・ 踰繕那は由旬におなじ。約14.4キロ。数百由旬のかなた。「東の彼方、三熱の鉄の大地より、猛火が押し寄せて罪人を刺す。炎の槍は罪人の皮膚を破り、肉をえぐり、筋を切り、骨を砕き、髄を貫く。身体全体が蝋燭のように炎に包まれるのである。東方からと同じように、南方・西方・北方からも猛火が襲ってくる。これによって罪人は猛火と一体になり、そのすがたを判別することができなくなるただ四方から炎の塊がやって来るように見えるだけである。すべての炎が一つになって隙間なく、苦痛も絶えることがない。苦痛のために泣き叫ぶ声を聞いて、炎の中に罪人が居るとわかるのみである。獄卒は、鉄の箕で三熱の大地から鉄の燃え滓をすくい取って、前後左右にゆすってゴミを取り除き、罪人を見つけ出すと、今度は焼けた鉄の地面に立たせ、焼けた鉄の山に登らせる。登らせては下らせ、それを何度も繰り返す。口をこじあけて舌を引き出し、それに百本の鉄釘を打ち込んで板にはりつけ、牛の皮を張るように、皺がなくなるまでのばしてゆく。さらに焼けた地面に仰向けにし、焼けた金鋏で口をこじあけ、三熱の鉄球を口から入れて口と喉を焼き、内臓を通して肛門より出す。またどろどろに溶けた銅を口から注ぎ、喉と口を焼き、内臓を通して肛門より出す」と言う(梯訳)
皺𧚥 皺はしわ。𧚥は衣の縫目。
他化自在天 (たけじざいてん、梵: Para-nirmita-vaśa-vartin[1])は、三界における欲界の最高位、且つ六道の天道(天上界)の最下部である、六欲天の第六天。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Pāpīyas)の住処。
この天は、他人の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするからこの名がある。この天の男女は互いに相視るのみにて淫事を満足し得、子を欲する時はその欲念に随って膝の上に化現するという。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という。ただし、その一尽夜は人間の1600年に相当するという。
天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる。 (Wikipedia)享楽の世界の代名詞?
四天下の処 四大州のこと。須弥山説によると、中央の須弥山を含めて九つの山と八つの海があって、順次に外側に廻っていて、その八番目の山の外側に海にかこまれた四つの島が東西南北にあるとする。東を東勝神洲、西を西牛貨洲、南を南贍部洲(みなみせんぶしゅう)、北を北瞿慮洲(きたくりょしゅう?)といい、このうち南贍部洲が人間の住んでいる世界。閻浮提(えんぶだい)ともいう。//
四大洲 仏教的宇宙観において須弥山の四方にあると考えられている四つの大きな島(大陸)。「四洲」ともいう。それぞれ東勝身洲(弗婆提)は半円形、南贍部洲(閻浮提)は台形、西牛貨洲(瞿陀尼)は円形、北俱盧洲(鬱単越)は方形であるとされる。そのうち、南贍部洲はインド亜大陸の形状を反映しているとされる。四大洲の項(
WEB版新纂浄土宗大辞典)
辟支仏 梵語。仏ではあるが、ただ自らの悟りにひたっているだけで、利他の心がなく、人に法を説かないから、慈悲救済を願いとする菩薩より低いとされる。独覚(どっかく)・縁覚(えんがく)ともいう。
また別処あり。閻婆度処と名づく。悪鳥あり、身の大きさ象の如し そして、閻婆度処。ここには閻婆という名の、象のように大きな恐ろしい鳥がいる。嘴は鋭く、火を噴いている。罪人を捕らえて空高く舞い上がり、あちこち飛び回った後、放して石の地面にたたきつけ、身体をばらばらに砕く。砕け散るとまた元どおりに生き返り、再び捕らえられて空中に舞い上がる。この地獄には、鋭い刃物をびっしり敷き詰めた道があって、罪人の足を切り刻む。また歯から火を噴く犬がやって来て罪人に噛みつくなど、永遠に苦を受け続ける。生前、飲料水の源となる河を決壊させ、人々を渇死させた者がここに堕ちる。その他は経に詳しく説かれている 以上は『正法念処経』による。
出園 外苑。門外の庭園。
那落迦 梵語。奈落。地獄のこと。
煻煨 煻の煨もうずみ火の意。熱灰。これが膝の高さまで埋まっているという。
黒黧 黒も黧も黒いこと。
餓鬼道 一種の鬼。一般的には、常に飢えと渇きに苦しめられているもの。九鬼・三十六鬼などがある。正法念処軽巻16に「一切の餓鬼は皆、屯//食・嫉妬の因縁の為にかの処に生じ、種々の業を作る」として掲げている三十六種の餓鬼の名は(ここでは省略する)
呪願 法会または食事のおり、導師が施主のためにその幸福をきがんすること。
周慞 うろたえ、さわぐ。
典主 つかさどること。
慳貪 慳はものおしみすること。吝嗇。慳には財慳と法慳の二があり、財慳は財物にたいし、法慳は教えを説くことをしないこと。「物惜しみ・貪り・妬み・嫉みの心によって餓鬼世界に堕ちる」(梯訳)
畜生道 人に飼われ、養われる生きものの意であるが、獣・虫などすべての動物を含む。地獄・餓鬼と合わせて三悪道・三悪趣といい、三塗ともいう(石田)/ 畜生道は六道の1つであり、悪業の報いとして死後に畜生に生まれ変わる世界である]。畜生趣ともいう(Wikipedia)
杖捶 むちで打つこと。
蚰蜒・鼠狼 げじげじといたち。
蟣蝨 しらみ。
蟒蛇 おろち。うわばみ。大蛇。
聾騃 聾で愚かなこと。
無慚 仏教用語で「戒律を破っても心に恥じないこと」という意味。 戒律を破って心に少しも恥じるところがないこと、罪を犯しても心に恥じないこと。残酷なこと。 むごいこと。 気の毒なこと。 いたましいこと。
三の相 ここの説く不浄・苦・無常は、無我と合わせて、いわゆる常・楽・我・浄の四顛倒と対応するもの。人は自分や世界について誤った見解を抱いて、それらが永遠に存在し、楽しみに満ち永遠に変わらない自我をもち、清浄であると考える。これを克服して正しい真実の姿を捉えようとするのが、以下の観察。
猶 猶は漢文では再読文字。なオ~のごとシ。二度読む。「なお~の如し」「ちょうど~のようだ」
不浄者 不浄の相を観察することを不浄観・不浄想などという。これには、死体が時とともにくずれ、変ってゆく姿を九段階に分けて観察する九想や、五種不浄などがある。
また頂より趺に至り、髄より膚に至るまで、八万戸の虫あり・・・ 頭のてっぺんから足の裏まで、骨の髄から皮膚に至るまで、八万の虫が巣くっている。頭が四つ口が四つ、九十九本の尻尾があって、いろいろな形をしている。その一匹一匹の虫の中に、九万の小さな虫がいる。うぶ毛よりも細かい虫である。(梯訳)
初めて胎を出る時、七日を経て・・・ 人は生まれて七日目に、身体から八万の虫がわきだし、身体中あちこちを食い荒らされる。舐髪(しほつ)という名の虫が二匹いて、髪の毛根に住み、髪の毛を食い続ける。繞眼(にょうげん)という名の虫も二匹で、眼に住んで眼を食い続ける。脳には四匹いて脳を食う。稲葉(とうよう)というやつは一匹で、耳に住んで耳を食う。蔵口(ぞうく)も一匹で、鼻に住んで鼻を食う。遥擲(ようじゃくく)遍擲(へんじゃく)の二匹は唇に住んで唇を食う。針口(しんく)は一匹で舌に住んで舌を食う。右半身も同様である。四匹が胃を食い、二匹が腸を食う。以下略して、最後に黒頭(こくず)という名の虫が一匹、脚にいて脚を食う。このように、人の身体八万匹の虫がいて、朝から晩まで食い荒らしているので、身には苦痛、心にも憂愁を感じるのである。あらゆる病が起こってくるが、どんな名医にもなおせない。(梯訳)
人のまさに死なんとする時 人の命が尽きようとする時、寄生している虫たちも死に直面して恐れおののき、互いに食い合いをを始めるので、当人の苦しみはいよいよ激しく、見守る親族も悲しみにくれる。虫たちは食い合いを続け、最後に生き残った二匹が、七日間死闘を繰り広げる。七日後に片方は死ぬが、もう片方はさらに生き続ける」と説かれている(以上はウジ虫に関する教説である)(梯訳)
虫蛆 うじ。
身は臭く不浄なりと知れども、愚者は故に愛惜す。外に好き顔色を視て、内の不浄を観ず 不浄の身とは知りながら 愛しさつのる愚かさよ 見目麗しさにとらわれて 内の汚れは見もしない(梯訳)
墻壁 生垣や壁。
もしは男、もしは女、たまたま生まれて地に堕つるに、或は手を以て捧げ、或は衣をもて承け接るも、或は冬夏の時、冷熱の風触るれば、大苦悩を受くること、牛を生け剥ぎて、墻壁に触れしむるが如し
男も女も、自分の意志とは関係なく生まれてくる。生れ落ちる時、両手で抱きとめられ、あるいは衣服にくるまれるとしても、冬の冷風、夏の熱風にさらされて、大きな苦痛を感じる。それはちょうど、皮を剥ぎとられた牛が、壁にこすりつけられるほどの痛みである(梯訳)
撾打楚撻 撾打は打つこと。楚撻は鞭打つこと。
栴陀羅の牛を駈りて屠所に至るに歩々死地に近づくが如し 栴陀羅は梵語。険悪人、主殺人と訳す。インドのカースト制度では、最低の階級で、牢獄の監守、御坊(おんぼう)、屠殺者など。/ 奴隷が牛を引っぱって 屠所へと向かうその道は 一歩一歩が死への旅 人のいのちも同じこと(梯訳)
人の命の停まらざらること、山の水よりも過ぎたり、今日存すといえども、明くればまた保ち難し。いかんぞ心を縦にして、 悪法に住せしめん 人の命の移ろいは、谷川の流れよりもはやい。今日のいのちが明日もあるとは限らない。勝手気ままに、間違った生活を続けることは許されない。(梯訳)
この日已に過ぎぬれば 命即ち減少す 小水の魚の如し これ何の楽かあらん この一日が暮れるたび いのちがひとつ削られる 水漏れ鉢の魚のよう 楽しみなんてどこにもない(梯訳)/
この身を受くるに、二種の苦あり。いわゆる眼・耳・鼻・舌・咽喉・牙歯・胸・腹・手・足にもろもろの病生ずることあり。かくの如く四百四病、その身に逼切するを、名づけて内苦となす。また外苦あり。いわゆる牢獄にありて、撾打楚撻せられ、或は耳鼻を劓がれ、及び手足を削らるるなり。もろもろの悪鬼神は、しかもその便を得、また蚊・虻・蛒等の毒虫の為に唼い食わる。寒熱・飢渇・風雨ともに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す。この五陰の身は一々の威儀、行住坐臥、皆苦ならざることなし。もしは長時に行きて、暫くも休息せざれば、これを名づけて外苦となす。住及び坐臥も亦また皆苦なり。 人として生れた者には、二種の苦しみがある。ひとつは、眼・耳・鼻・舌・喉・歯・胸・腹・手・足などの器官に生ずる病気の苦しみである。四百四病が身をさいなむ苦しみを「内の苦」と名づける。もう一つは「外の苦」である。たとえば牢獄につながれて殴られ鞭打たれ、あるいは耳や鼻をそぎ取られ、手足を傷つけられること。悪鬼妖怪にとり憑かれること。蚊・虻・蜂などの毒虫に食われたり、暑さ寒さ、飢えと渇き、風雨が襲いかかるなど、様々な苦しみが身に迫り来る。この身と心とを持つ限り、どのような振舞いをしようとも、苦しみから逃れることはできない。休みなく歩き続けること、これを「行苦」と名づける。同様に「住苦」立ち続けることも、「坐苦」座り続けることも、「臥苦」寝続けることも、みな苦しみである。(梯訳)
無上尊を頂礼すべし 「無常尊」は仏のこと。「頂礼」接足作礼などの略。最高の敬礼法。相手の足に自分の頭面を触れて尊敬の意を表すもの。
一切のもろもろの世間に 生ける者は皆死に帰す 寿命無量なりといえどいえども、要必ず終尽することあり。それ盛んなれば必ず衰えることあり 合い会えば別離あり 壮年も久しく停まらず 盛んなる色も病に侵さる 命は死の為に呑まれ 法として常なるあることなし この世に生まれたものはみな 一人残らず死んでゆく無限のいのちと思っても いつか終わりがおとづれる 盛り過ぎれば衰える 出会えば別れは避けられぬ 若さも元気も続かない美貌は病におかされる 死は容赦なくやって来る 変わらぬものは何もない(梯訳)
水流るれば常に満たず 火盛んなれば久しくは燃えず 日出づれば須臾にして没し 月満ち已ればまた欠く 尊栄高貴なる者も、無常の速かなることこれに過たり 当に念じ勤め精進して 無上尊を頂礼すべし 波打ち際の水は引き 燃えさかる火も消えてゆく 昇る日すぐにかたむいて 月は満ちたら欠けてゆく 栄光の座を去るよりも さらに素早く死は迫る 今そのことに気づいたら つとめて仏を拝むべし(梯訳)
空にもあらず海の中にもあらず、山石の間に入るにもあらず 他の方処として 無有地方処、脱れ止まりて死を受けざるものあることなし 空のかなたや海の中 天に通ずる山でさえ この世に生きているかぎり 死から逃れる場所はない(梯訳)
無常の殺鬼は、豪賢を択ばず。危脆にして堅からず、恃怙すべきこと難し。いかんぞ安然として、百歳を規望し、四方に馳求して、貯え積み聚め斂めん。聚め斂むることいまだ足らざるに、溘然として長く往かば、所有の産貨は、徒らに他の有となり、冥々として独り逝く。誰か是非を訪ねん。もし無常の、暴水・猛風・掣電よりも過ぎたることを覚らんも、山に海に空に市に、逃れ避くる処なし。かくの如く観じ已らば、心大いに怖畏し、眠れども席に休んぜず、食えども甘哺むに甘からず。頭燃を救うが如くして、以て出要を求めよと。
死神はいかなる豪傑・賢者といえども依怙贔屓しない。人はひとしく脆く弱く、頼りない存在である。どうして安閑ととして百年も生きるつもりでいられようか。あちこちかけずりまわって蓄財にいそしんだところで、目標を達成することなく急死すれば、すべての蓄財は人手に渡ってしまうのだ。ひとりぼっちで野垂れ死んでも、安否を気遣ってくれるものなど一人もいない。死の難が、洪水・暴風・落雷よりも切迫していることに気付いても、山にも海にも空にも町にも、避難できる所はどこにもない。このように考えると、心は恐怖につつまれ、おちおち眠ることもできず、食事ものどに通らないだろう。だから一刻の猶予も許されない。今すぐに迷いの世界を離れる道を求めなければならないのだ(梯訳)
「譬えば野干の耳と尾と牙を失わんに、詐り眠りて脱れんと望めども、忽ち頭を断たんというを聞いて、心大いに驚き怖がるが如し。生・老・病に遭いて、なお急がわしくせざらんも、死の事は奢るべからず。なんど怖れざるを得んや。怖るる心起きる時は、湯・火を履むが如し。五塵・六欲も貪染するに暇あらず。 耳や尾、牙を失うまでは、狸寝入りをして難を逃れるとたかをくくっていた狐が、「頭を切り落とせ」という声を聞き、恐怖に震え上がったようなものだ。生まれたこと・年老いてゆくこと・病におかされること、いずれもまだ火急のことではない。しかし死ぬことだけはおろそかにできない。怖れずにはいられない。死の恐怖が起こる時は、熱湯や炎に足を突っ込むようなもので、余計な欲望などにかまっている余裕などないのだ」と言う。(以上略して引用した)(梯訳)
以求出要 以て出要を求めよ。「出要」仏語。解脱への道。生死を出離するための要道。
一には欲界、二には色界、三には無色界なり
仏教における三界(さんがい、梵: tri-dhātu、または梵: त्रिलोक, IAST:triloka)とは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの[1]。三有(さんう)ともいう[1]。
欲界よりも色界のほうが、色界よりも無色界のほうが、いっそうすぐれた生存のしかたであると考えられており、その場所も、欲界が最下にあり、無色界が最上に位置する[2]。
三つの世界
]
以下の説明は、4世紀から5世紀頃にヴァスバンドゥ(世親)が著した『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』)に依る。
欲界(よくかい、よっかい)
→「カーマ (ヒンドゥー教)」も参照
欲界(梵: kāma‐dhātu)は、欲望(カーマ)にとらわれた[4]淫欲と食欲がある衆生が住む世界[1][5][注釈 1][6]。無色界および色界の下に位置する[5]。本能的欲望(カーマ)が盛んで強力な世界[2]。八大地獄から六欲天までの領域であり、『倶舎論』においては「五趣」(5つの生存状態)地獄、餓鬼、畜生、人、天の5種の世界が欲界に属するとされる[7]。ただし、『倶舎論』を奉ずる説一切有部と対抗した中観派や、のちの大乗仏教諸派は、これらに修羅道を加えて「六道」(6つの迷える状態)とした[1][7][注釈 2]。いずれの見解においても、地下の世界と、地表の世界と、空中の世界(天界)の最下層とが、欲界に属する[2]。
色界(しきかい)
→「色 (仏教)」も参照
色界(梵: rūpa-dhātu)は、淫欲と食欲の2つの欲を離れた衆生が住む世界[1][注釈 3]。欲望は超越したが、物質的条件(色、サンスクリットラテン翻字: rupā)にとらわれた生物が住む境域[8]。色天や色界天ともいう[9]。有色(うしき)ともいう(欲界と色界の2界をさす場合もある)[10]。欲界の上、無色界の下に位置する[9]。
色(ルーパ)とは物質のことであり、色界とは物質的な世界という意味[1]。欲界とひとしく物質的世界ではあるが、それほどに欲望が盛んではないところを単に色界とよぶ[2]。色界には、清らかで純粋な物質だけがあるとされる[1]。欲や煩悩は無いが、物質や肉体の束縛からは脱却していない世界である[9]。四禅を修めた者が死後に生まれる世界[9]。色界は禅定の段階によって四禅天に大別される[11][12]。天界の上層は色界に属し[2]、またそれを細かく17天(経典によっては18天[注釈 4]または16天[13])に分ける。また、初禅の一部[14]と欲界を合わせて「一小千世界」と呼ぶ[15]。
なお、鳩摩羅什は『法華経』序品で、色界の最上位である色究竟天を(後述の)有頂天としている[16]。
無色界(むしきかい)
無色界(梵: ārūpa-dhātu)は、物質的なものから完全に離れた衆生が住む世界[1][17]。欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する生物が住む境域[8]。欲界および色界よりも上位にあり[1][17] 、天界の最上層に位置する[2]。空間を超越する無色界は、厳密には色(かたち)を持たない。ゆえに、色界の上方に存在するわけではないが、便宜上三界のなかでは一番上部に置かれる[18](右図参照)。
物質が全く存在せず[1]、心の働きである受・想・行・識の四蘊だけからなる世界[17]。無色界は四天に分けられ、その最高処を有頂天(非想非非想天、非想非非想処)という[1][17][19]。
その他
以上に述べた『倶舎論』が説く「三界」では、極楽やそれに準ずる世界については説かれていない。その理由としては、この宇宙観が成立した時代にはまだ仏教に浄土思想は取り入られておらず、ゆえに三界のなかに浄土が組み込まれることはまだなかったことと、上座部にとっての最高の境地とは涅槃(ニッバーナ)、すなわち、三界から脱出して無に帰することであったことが挙げられる[20]。三界という宇宙観と浄土思想の結びつきは、大乗仏教の隆盛に伴って進むこととなった。
また『倶舎論』は、エンマを六欲天の一つである夜摩天と餓鬼界両方に置いている(Wikipedia)
// 三界とは、欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つをいう。欲望につながれて苦しみ迷うものを欲界の衆生といい、美しい形にとらわれているものを色界の衆生といい、美しさへのとらわれは超えているが、なお迷っているものを無色界の衆生という。
この三界の中に迷う衆生を、地獄・餓鬼・畜生・人・天にわけて、地獄から人までと天の一部が欲界の衆生であり、色・無色界の衆生はみな天といわれる。人に生まれたという苦しみが、それだけにとどまらずさらに深く重く地獄や餓鬼や畜生の苦しみにまで及ぶものであること、また神々にまでなろうと望むほど人の欲望の果てしなきことを物語るのである。仏陀は、衆生の苦しみ迷いを超えた世界を説いた。その苦しみを超えることを、三界を超え出るという。仏陀の世界である浄土は「三界の道を勝過(しょうか)す」とも説かれる。「三界」から宮下 晴輝(みやした せいき)(仏教学 教授)// 「三界」仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界[よっかい]・色界[しきかい]・無色界[むしきかい]からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。
第六に、天道を明かさば 「天」の世界。原文は天道。「天(deva)」は「神」を意味する。三界六道の中では最上の世界である。三界に二十六~二十八天を数える。まず「欲界」にはいまだ欲界を離れられない神々が住む。下から順に「四天王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天」の六天が配され、これを六欲天という。「四天王天」は須弥山の中腹にあり、仏法を守護する四天王(東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天)とその眷属が住む。本項に紹介される「忉利天」は、須弥山の頂上にあって帝釈天(Indra)とその眷属が住む。四方の峰に各八天があり、それに中央の帝釈天を加えて三十三天からなる。「夜摩天」は焰魔天とも言い、須弥山の上方空中にある。日夜・時節・時分が分れる時、不可思議の歓楽を受けるという。「兜率天」は、知足・妙足などと意訳され、将来仏となる菩薩が最後生を過ごす場所とされる。「化楽天」は自ら妙薬の妙楽の境地をつくりだして楽しむ神々のの世界、「他化自在天」の神々は自分で楽具を用意することなく、他天の化作した欲境を自在に用いて楽を受ける。次に「色界」には、欲望を離れた神々が住む。浄妙な物質(色)より成る世界である。禅定の深浅によって四階級を立てて四禅天と呼びさらに16~18天に分れる。そして「無色界」は、物質の束縛をも離れた、清らかな精神世界で、四無色定を修めた神々の住処である。「空無辺処」「識無辺処」「無所有処」「非想非非想処」の四天よりなり、その最高処「非想非非想処」を有頂天と言う。神々の世界の捉え方は様々であるが、六欲天の第二「忉利天」は荘厳と快楽が強調され、帝釈天の住処として信仰を集める。後には諸仏浄土の荘厳をあらわす記述に影響を与えたほどである。しかるに『往生要集』の天道の項は、諸天の代表として「忉利天」を取りあげながら、荘厳や快楽に言及することはなく、五衰の難をはじめとする苦しみの相を説くことに終始している。あくまでも天道が厭離すべき世界であることを主張しているのである。(梯)
五衰の相 天人が死ぬときに現れる衰弱の相で、五つの内容は一定しない。
善見の宮城 帝釈天の宮城。善見城と言われる。
殊勝殿 善見城にある宮殿。
衆車苑 衆車苑以下、〇渋苑(〇悪苑)・雑林苑・歓喜苑(喜林苑)の四園は善見城外の庭園。
また大徳の天、既に生れたる後は、旧の天の眷属は、捨てて彼に従う。或は威徳の天ありて、心に順ざる時は、駈りて宮より出し、住することを得ることあたわざらしむ。 次代を担う立派な神が誕生したならば、一族の者たちは元の主をあっさりと見捨て、新しい方に付き従う。新たに威力すぐれた神が立ち、その心にかなわぬようであれば、老神は天宮を追い出されそこに居ることさえも許されないのだ。(梯)
非想も阿鼻を免れず 三界の最高処、無色界の非想天といえども、次に阿鼻地獄に堕ちることもあるのだ。(梯)
一篋 地・水・火・風の四大の結合によってできた人間の身体を箱にたとえたもの。人の身体は四匹の毒蛇を入れた箱のようなもの(梯)
耽荒すべきにあらず 耽荒 度を越して楽しみにふけること。
第七に、惣じて厭相を結ぶとは、 第七に「総結」、三界六道の厭うべき様相を総括し、「厭離穢土」の章を結びたい。「地・水・火・風」の四大よりなるわれらの肉体は、四匹の毒蛇を入れた箱のようなもので、苦以外の何ものでもない。楽しみに耽っている場合ではない。生老病死の苦が襲ってきたならば、逃げも隠れもできない。それでも我らは、限りない欲望によってわが身を覆い隠してその真実から目をそむけ、依然として五つの欲にとりつかれている。永遠でないものを永遠だと思い、楽しみとは言えないようなことを楽しみだと思っている。それはちょうど、腫れ物に水をかけて気持ちよいと思っているような、また、睫毛を掌に置いて逆さまつげの痛みを知らず安閑としているようなものである。どうしてそれを厭わしいと思わないのだろう。ましてや、我らは今着実に、地獄の剣の山や火の池に近づきつつあるのである。智慧ある者は、自分の身を宝物のように大切にするなどということは決してないであろう(梯訳)
智者は常に憂を懐くこと 獄中に囚わるるに如似たり 愚人の常に歓楽すること 猶し光音天の如し 智者の心は憂い満ち 牢獄中の人のよう 愚者の心は楽あふれ 光音天の神のよう(梯訳)「光音天」色界の第二禅天の最高天である極光浄天のこと。
光音天 色界の第二禅天の最高点である極光浄天のこと。
出離の因 「出離」仏語。迷いを離れて解脱の境地に達すること。仏門に入ること。「遠離」2 仏語。執着を捨て悟りの境界にあること。/ 無有出離之縁/むうしゅっりのえん/
生死流転の境遇から出離解脱する因縁がないこと。『観経疏』散善義の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あること無し」(聖典二・二八九/浄全二・五六上)が出典。二種深信の信機の内容を表している。(浄土宗大辞典)
枷鎖 くびかせとくさり。
漢文「未」「いまだ~ず」と読み、再読文字です。「まだ~ない」の意味。
人身を得ること甚だ難し 人として生まれることが難しい。「人間に生まれることは極めて難しいことである」(梯訳)
人趣に生まるる者は 「人趣」 人間の世界。「人の世界生まれる者は、爪の先に付く土ほどにわずかであり、三悪道に堕ちる者は、世界中の土を集めたほどに数知れない」(梯訳)/ 三悪趣(さんあくしゅ)とは、仏教において、悪行を重ねた人間が死後に「趣く」といわれる3つの下層世界(地獄・餓鬼・畜生の3つ)を指す。三悪道(さんあくどう)、あるいは三悪、また三途(三塗とも、さんづ / さんず)などともいう。(Wikipedia)
種々の悪業もて財物を求め 悪事を重ねて財をなし 家族のためにと思ったが 死に臨む身の苦しみは 妻子でさえも救えない 悪道の恐怖せまる中 親しいものは誰もない 車も財も奪われて 苦しみ分かつ人もない 父母兄妹も妻も子も 友も家来も財宝も 死んだら何も残らない 悪行だけがつきまとう 閻魔大王つねに言う どんな小さな罪でさえ 俺には捏造できないぜ 自業自得だ思い知れ 父母も妻子も救えない 自分で励むしかないぞ 繋縛の業を捨て去って ただ極楽を願うのだ(梯訳)
妻子も珍宝も及び王位も 妻子も財も王の座も 死ぬときはみな捨てるのだ 持戒と布施と精進が 生死を超えて添い遂げる(梯訳)
一人の一劫の中に 受くる所のもろもろの身の骨 常に積みて腐敗せずば ひとりの人が一劫に 受けた身体の亡がらを 重ね積みあげ腐らねば 毘布羅の山を越えるだろう(梯訳)「毘布羅」は梵語。中インドの王舎城の東北にある山の名。山上には釈尊の説法の跡に塔が建てられていたという。
出要の路 迷いの世界を離れ出る肝要な道(Wikiarc)仏教用語で解脱の道、生死を超えていくための要道(AI google)出離の要路/迷いの世界を離れ出るためのかなめの道(Wikiarc)。
六道 六道(ろくどう、りくどう、梵: ṣaḍ-gati)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界ともいう。 gati は「行くこと」「道」が原意で、「道」「趣」と漢訳される。
天道 天道は天人が住まう世界。天人は空を飛ぶことができ、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎えるときは5つの変化と苦しみが現れ、これを五衰(天人五衰)と称し、体が汚れて悪臭を放ち、脇の下から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の髪飾りが萎み、楽しみが味わえなくなる。天の中の最下級のものは三界のうち欲界に属し、中級のものは色界に属し、上級のものは無色界に属する
人間道 人間道は人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる。『往生要集』の「厭離穢土」では「苦しみの相」・「不浄の相」・「無常の相」と、三つの相があると記されている。地表の世界。三界のうち欲界に属する
修羅道 修羅道は阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界。
畜生道
畜生道は鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種で、苦しみを受けて死ぬ。地表の世界。三界のうち欲界に属する。本能のままに生き、弱肉強食の世界であり、常に強者に怯え続けなくてはならない。近親相姦、尊属殺人などの行為をも行う
餓鬼道 餓鬼道は餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる。『正法念処経』で餓鬼は36種類に分類されている(詳細は『餓鬼#正法念処経』を参照)。旧暦7月15日の施餓鬼は餓鬼を救うために行われる。地表の世界。三界のうち欲界に属する
地獄道 地獄道は罪を償わせるための世界。地下の世界で、『往生要集』などでも、「上下に八層重なっている」と記述されている。三界のうち欲界に属する。詳細は地獄を参照。(Wikipedia)
問ふ。何等の相を以て・・・ 問う。どのような様相を心に想念して、迷いの世界を厭う心を起こせばよいのか(梯訳)/どのような姿に対して厭う心をおこす必要があるのか(石田)。//
竜樹菩薩 二世紀から三世紀にかけて、大乗仏教を鼓吹したインドの代表的思想家。主著に中論・十二門論・大智度論・十住毘婆沙論などがあり、日本では八宗祖師と尊崇される。//龍樹(りゅうじゅ、梵: नागार्जुन、Nāgārjuna、テルグ語: నాగార్జునుడు、チベット語: ཀླུ་སྒྲུབ、klu sgrub、タイ語: นาคารชุนะ)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナ[注釈 1]の漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、蓮如以後の浄土真宗では八宗の祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。
真言宗では、龍猛が「付法の八祖」の第三祖とされた。龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある。
浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩、龍樹大士と尊称]される。
哲学者の梅原猛は、龍樹は釈迦の仏教を否定し、大乗仏教を創始したとしている]。一方、中村元は、大乗仏教は諸法の実相を説くことを標識とし、小乗仏教の三法印に対して大乗仏教は「実相印」を第四の印として挙げるとしているが、中村によれば龍樹は小乗の三法印のほかに別の法印をたてなかったという。
三法印とは、小乗仏教で、仏教の根本的な理念を示す旗印である三つの教理。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう) 。
中村元は、三法印は部派仏教のものであり、それに対して、大乗仏教は諸法の実相を説く「実相印」を標幟とするとしている。大乗仏教では部派仏教の三法印とは別に、諸法実相の「一法印」がよく説かれるとされる。中村は実相印を第四の印としている。なお、諸法実相が意味する内容は諸宗派の教学によって異なる。中村は、龍樹(ナーガールジュナ)は三法印のほかに別の法印を立てなかったとしている。袴谷憲昭はエジャートンの『Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary』には“dharmamudrā”の用例が三つしか挙げられておらず、すべて梵文の法華経によるものであると指摘している。また袴谷は、坂本幸男による「小乗教は三法印、大乗は諸法実相印。」という言明について、天台宗の智顗の所説に依っていることを推測している。
(Wikipedia)
猶し 漢文。「猶」は「なお」、「猶し」は「なおし」と読みます。
「猶」の読み方は「なほ~ごとし」で、再読文字として使われます。1回目は右側で「なほ」と読み、2回目は左側で助動詞として「ごとし」と読みます。意味は「ちょうど~のようだ」で、何かと何かが似ていることを示す表現です。(google AI)
空・無我を観ずる 永遠不変の実在を我と呼びそうしたものが実在すると考えられたが、そうした実体や我はない、存在はすべて因縁によって生じたもので、空であり、我はなく、我ではない、と説く考え方。
色と族と及び多聞とありといえども 才色と門閥と知識。
無上涅槃の道 この上ない、最高のさとり。涅槃は梵語。滅・寂滅などと訳し、解脱と同義。煩悩の火が消え、さとりの智慧が完成した状態。
鹹味 塩からい味。
一夜を分別するに五時あり 二時の中にて当に眠り息むべきも 初・中・後夜には生死を観じ 宜しく勤めて度を求め空しく過ぐることなかれ 一夜を五つの時に分け そのうち二時だけ眠るのだ 朝まで生死の苦を観じ 悟りを求めてい怠るな・・・ 「微細の悪の衆善に遭ひて 消滅・散壊さんみすることまたかくの如し 大きな善を重ねれば」 小さな罪は消えるだろう・・・「宮に居して光明を具すといえども 後には地獄の黒闇の中に入らん いわゆる黒縄・活地獄の 焼・割・剥・刺と及び無間と この八地獄の常に熾んに燃ゆること 皆これ衆生の悪業の報いなり」神の世界は楽しいが地獄のおそれ拭われず 光りあふれる天宮より地獄の闇へ堕ちてゆく 宮に居して光明を具すといえども 後には地獄の黒闇の中に入らん いわゆる黒縄・活地獄の 焼・割・剥・刺と及び無間と この八地獄の常に熾んに燃ゆること 皆これ衆生の悪業の報いなり (梯訳)
一念 一瞬。極めて短い時間のことで、一弾指の六十分の一など、様々な解釈がある。
所 「所」という字は、直後に他動詞を伴い、その目的語(対象)を名詞化する働きがあります。「我所好書」つまりこの文では「所好」の二字で「好むもの(何を好んでいるか)」という意味を表しています。「我」はその「所好」の主語ですから「我所好」で「私が好きなもの」、この三字が「書」に対する主語となって、全文の意味は「私が好きなものは書物である。」となります。
諦 真理。永遠に変わらない真実。
仮名の法 仮に名づけられているもの。因縁によって仮にあるとされているもの。
馬鳴菩薩 馬鳴は紀元前一世紀ごろのインドの詩人。釈尊の伝記を詠った仏所行讃が著名。馬鳴の作った頼吒和羅の伎声というのは、少欲知足で物に頓着することのなかった頼吒和羅をうたったもので、釈尊は彼のように貪りを捨てよと教えたという。伎声は音楽のこと。
有為の諸法・・・・ 「有為の諸法」は、 因と縁の和合によって作られた現象的な存在のこと。/ 有為法(ういほう)とは、仏教用語で、因縁によって形作られたもの、またはその在り方を意味します(AI google)。/ この世に生まれたものはみな まぼろしのように消えてゆく 迷いの世界にしばられてまことの楽しみ何もない 王位にあれば力満ち 思い通りにできるけど 死に臨んだら 力なく あとには何も残らない 空に漂う雲のよう あっという間に消えてゆく この身のもろさはかなさは 咲いてすぐ散る芭蕉花 自分は敵だと思え 気を許したら傷つくぞ毒蛇うずまく箱のよう 愛着すべきものじゃない だからすべてのみほとけは 常にこの身を責め叱る(梯訳)/ 現象界というものは、星や、眼の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡(いたかた)や、 夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと見るがよい(中村元訳 サンスクリット原典から)
呵したまふなり 厳しく叱責する。大声で咎める。
生死の断絶せざるは、欲を貪り味を嗜るが故なり 迷いのいのちが続くのは 欲にまみれているためだ 怨みを墓まで持ち込んで 意味なくあれこれ苦を受ける 屍(かばね)のような悪臭を 放つ身体は糞まみれ わが身を愛でる愚かさは 糞を楽しむウジのよう 損得ずくの分別は 五つの欲の起こるもと 知恵者は分別しないから 五欲たちまち消えてゆく まことを知らぬこころから 貪り苦しみ起こり来る こころを正して欲消せば すべての煩悩尽きるだろう(梯訳)
諸行は無常なり あらゆるものはとどまらず 生じてはまた消えてゆく その生滅を断ち切れば 悟りの岸へとたどりつく(梯訳)/サンスクリット原典より「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である(中村元訳 サンスクリット原典より)
忽爾 おろそかにすること。
雪山の大士 雪山はヒマラヤ。大士は菩薩のこと。釈迦の前身のこと。釈迦仏がかってヒマラヤにあって苦行者として道を求めていたとき、帝釈天がこれを試そうとして、恐ろしい羅刹に身を変えて菩薩に近づき、「諸行無常 是生滅法」と、詩の前半二句を唱えたところ、菩薩はこれを聞いて歓喜につつまれ 羅刹の前に身命を投げ出すことを約束して、後の二句を乞い。「生滅滅已 寂滅為楽」の二句を聞くことを得て、これをあたりの石や壁、樹や道路にも書き写して、高い樹より身を投げて、羅刹に与えた。「寂滅」はさとりの境地、涅槃。
問ふ。不浄・苦・無常 問う。この身は汚れているという「不浄」の教え、迷いの生存はすべて思い通りにならぬものだという「苦」の教え、生じたものは必ず消え去るのだという「無常」の教え、この三つは容易に理解できる。しかし、今我らが現に存在とし認識しているものが、実は固定的な実体を持たないという「空」の教えは理解しがたい。答え。先に挙げた経の文に「ゆめ・まぼろしのごとし」と説かれていたではないか。だから夢の世界になぞらえて、「空」の教えを理解するのがよかろう。『大唐西域紀』に、次のような話が紹介されている。(梯訳)
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公開日2024年10月20日