素粒子は粒子であるか
9 電子や光子の状態はヴェクトル的な性質のものである
それでは、この奇妙なものの行動を律するには、どんな法則があるのであろうか。この法則をまとめた一つの体系が
量子力学であって、この量子力学では、この奇妙なものの性質が少しの矛盾もなく律せられることが示されている。この量子力学
の体系は非常に数学的なものであるが、それは、この種の奇妙なものの行動を律するには必然的なことである。すなわち電子や
光子のように、日常、われわれがみたことのある通常の粒子と非常に異なっているものの行動を述べるには、われわれの日常
的な言葉をもってすることができないのは、当然なことである。なぜなら通常の言葉は日常的な考え方と密接に結びついてる
ので、こういう日常的なものとは全く別種の奇妙なものの行動を記述するには、全く不適当だからである。いいかえれば、
日常的な考え方から全く自由な、より純粋な言語によらなければ、そういうものの記述はできない。こういう、全く自由で
純粋な言語というのは、すなわち数学である。量子力学が数学的にならざるを得ない理由はここにある。
この数学的理論をここに述べることは出来ないが、この理論で、いかにして光子や電子などの奇妙な性質を記述することが
出来るかの片鱗を、一つ比喩を用いて示しておこう。しかしまずお断りしておなかければならぬことは、これから述べることは
あくまでも比喩であって、これで、量子力学の全般がつかまえられるものと考えてはならない。
米粒や砂粒は、Aの穴を通るか、Bの穴を通るかのどちらかであって、Aを通ればはBは通らないし、Bを通ればAを通らないはず
である。これに対し、電子や光子においては、AかBかの一方だけを通るとは限らず、別の通り方、すなわちある意味でAとBとの
両方を一緒に通ることが出来るという。この時、光子や電子は不可分のものであるというのであるから、両方を通るという意味を、
常識的にこれらのものが二つに分かれて両方を通ると考えるわけにはいかない。さて、二つに割れもせずに一個のものが両方の
穴を通るのは、どういうわけで可能であり、どういう意味において可能なのであろうか。
この点についての量子力学の考え方は次のようにいうことができる。それは、日常的な考え方では、Aを通るということと、
Bを通るということを、いわば同じ次元において並立的に考える。例えば、一つの直線上に、中心から右と左とを考えるように。
そう考えれば中心から左でなければ右であり、右でなければ左である。これに対して量子力学的な考え方では、Aを通るという
ことと、Bを通るということとが、いわば異なる次元に対応していると考える。ちょうど、空間内でX軸とY軸が次元を異にする
ように。この時には空間内にX軸方向でもなく、またY軸方向でもない、中間の方向がいくらでも存在する。一つの光子が、Aを
通るここと、Bを通ることとを、異なる次元において考えれば、このAを通ることと、Bを通ることとの、いずれとも異なった
別の通り方が、X軸とも、Y軸とも異なった別の方向が存在するのと、同様な意味で、可能となる。すなわち、Aを通ってBを通らない
という可能性は、ここでX軸方向のヴェクトルに対応させられ、Bを通ってAを通らないという可能性はここでY軸方向のヴェクトルに
対応させられる。しかして、この二つの可能性のほかに、ある意味でA、B両方を通るという可能性は、X軸とY軸との中間の向き
をもったヴェクトルに対応させられ、こうして電子や光子の不可分性と矛盾なく両方を通るという可能性が存在し得ることになる
のである。
実際量子力学においては、電子や光子の状態というものが一つのヴェクトル空間中のヴェクトルで表される
ものと考える。今の場合には、Aを通るということと、Bを通るということとの二つの可能性だけを問題にとりあげたが、
一般に電子や光子が空間のいろいろな点に存在することが出来るのであるから、その可能性に応じて無数の軸をもったヴェクトル
空間を想定する。すなわちわれわれの簡単な例では、Aを通ることに対応してX軸を、Bの通ることに対応してY軸を考え、この二本の
直交軸で作られる二次元のヴェクトル空間を考えたが、実際は電子や光子が空間のあらゆる点に存在する可能性をもっている
ことに応じて、無限にたくさんの直交軸をもつような、無限に次元数の多いヴェクトル空間を考えねばならない。そうして
このヴェクトル空間の中における任意の方向のヴェクトルが、その電子や光子の状態を表すのである。ここでAにあるという
可能性に対応した軸を、例えばA軸と名づければ、電子がAにあるという状態とは、そのヴェクトル空間の中で状態を表す
ヴェクトルが、ちょうどA軸の方向にむいていることである。またBにあるということは、そのBに対応するところの、例えば、
B軸と名づける方向にその状態ヴェクトルがむいていることを意味する。またもしA軸とB軸との中間の方向にそのヴェクトル
がむいている時には(あるいはそのヴェクトルがA方向にもB方向にも成分をもつ時には、といってもよい)、電子や光子は
Aにあるとも、Bにあるともいわれないで、ある意味において、AとBとの両方に一緒にあるといわれねばならないのである。
この時、空間にある無数の点A、B、C、・・・に対応して、ヴェクトル空間内には、A軸、B軸、C軸・・・と無数の軸が
存在するが、ヴェクトルがちょうどこの軸のどれかの方向に、例えば、C軸の方向にむいていたとすれば、それは電子がCという
場所にあることを意味する。逆にわれわれが、電子の位置を定める実験を行って、Cという場所にそれを見出せば、その時は、
そのヴェクトルはちょうどC軸の方向にむいていることになるのである。
この時、ヴェクトルがどの軸の方向にもむいていないことがありうる(例えば三次元空間でX、Y、Z軸のどれとも一致しない
方向のヴェクトルが考えられるように)。その時には電子は、空間のどこかある場所に存在するということはできない。この時
その電子はいろいろな場所に一緒に存在すると考えねばならぬ。
前に電子が運動量のある価をもつことができるといったが、それでは運動量がある決まった価をもっているような状態に
おいて、このヴェクトルはどういう方向にむいているのであろうか。この時には、このヴェクトルはA軸とも、B軸とも、C軸とも、
どんな軸とも一致しないでかつあらゆる軸に対して中間的な方向にむいている(あるいはあらゆる軸にたいして平等に成分をもつ
方向にむいているといってもよい)。したがって、この時には電子が空間内のA点にあるとも、B点にあるとも、C点にあるとも、
どの点にあるともいうことはできない。これがすなわち、運動量のある価をもち、
かつ 空間のどこかにあるということが、
電子や光子について不可能であったということの意味である。
これで量子力学において電子や光子がどういうものと考えられているかということの片鱗を述べたことになる。もちろんここに
述べたことは、量子力学の基本的な考え方のほんの一部分をご覧にいれただけである。しかし以上の話で、こういう素粒子と
いうものが、われわれが日常的に考えている米粒のようなものと非常に異なったものであるということは理解していただけたことと
思う。
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