今月の言葉抄 2008年12月

素粒子は粒子であるか

8 素粒子は運動の道筋をもつことは出来ない

電子や光子その他の素粒子がその位置と運動量とを同時にもつことが出来ない事実から結果する一つの結論として、 素粒子には運動の道筋をもつという性質がない、ことになる。これは通常の粒子と電子や光子とが全く 似ていない点である。このことはまた、電子や光子が電光ニュースの光点とも似ていないことを意味する。実をいうと 運動の道筋を性質としてもたないものは素粒子ばかりでなく、複合的な粒子である原子核や原子もそうである。 こういうものをわれわれは量子的な粒子ということにしよう。これらのものは運動の道筋をもっていない のであるから、その行動を通常の力学で律することはできない。なぜなら力学とは、まさに運動の道筋に関する理論であった からである。こういう量子的な粒子の行動を律する理論は量子力学と呼ばれる。量子的な粒子については、 その位置がしかじかで、かつ運動量がこれこれということができない、といったが、実際にその位置と 運動量とを一緒に決める方法をわれわれは知らない。
ここで、読者諸君は必ず次のように考えられるここと思う。位置と運動量を一緒に決める実験方法が存在しなくても、 例えば、まず運動量を決め、その後ただちに位置を決めればよいではないかと。しかし、こうして二回の実験で、このものの 位置と運動量とが決められるという考えのうしろには、実験が相手の状態に何の影響も及ぼさないということが仮定されて いる。前もってその位置を定めて、かくかくの価ということがわかっていても、そのすぐ後で行った運動量を定める実験が、 せっかく前の実験で得られた位置についてのデータを無駄にするように、相手に影響を与えないとはいわれない。実際に 量子的な粒子とはこういう実験による影響をどうしても避けることができないような性質のものである。
量子的な粒子には、運動の道筋をもつという性質がない。このことから常識的にはまことに奇妙な結論が飛び出してくる。 例えば次のような一つの実験を考えよう―。
第2図
第2図 二重スリットの実験
第2図に描いたように、電子の源S、二つの穴AとBを穿った壁、及びそのSからでて壁の穴を通過した電子を受ける板X、 この三つをもって作った装置を考える。一個の電子がSから出て板Xの上の一点Pにきたとしよう―この時電子が実際Pにきた ということは、板Xのところに蛍光板をおいたと考えればよい。すなわち蛍光板をおいた時、その点Pが光ったということで 電子がそこにやってきたことが結論される。この時、電子が道筋をもっているなら、その電子は、例えば S―A―Pのような道を通るか、あるいはS―B―Pのような道を通るかの、どちらかの方法で、SからPにきたといわねばならない。 ところがこの実験において、実際、電子については、そういうことがいわれないのである。すなわちこのような実験状況の 下では電子について、それがAの穴を通ったか、あるいはBの穴を通ったか、のいずれかであるということを断定できない 。この時には電子は両方の穴を一緒に通ったと考えねば、説明のつかない現象が起こるからである。
それは通常、電子の波動性といわれている。すなわち電子はこの時Sから出た一つの波のような振舞いを呈するのである。 波であるなら二つの穴の両方を通り抜けてPに達し、ここでいわゆる干渉効果を現すことがよく知られているし、また実際に Sのところに電子の源をおく代わりに、単色の光源をおくならば、Xの上には光の波の干渉によって規則正しい明暗の縞模様 が現われる。このような縞模様は、Aから洩れ出た波と、Bから洩れ出た波とが、その壁の背後の空間で重なりあい、互いに 干渉しあって、ある場所では波が強めあい、ある場所では二つの波が打消しあう結果起こる現象である。穴が一つしかない 時にはもちろんこのような波の重なりあいはないのであるから、決して明暗の縞模様などは現われない。この縞模様の暗い ところは、そこには光が決してこないことを意味する。光が波であると結論されたのは、まさにこの種の干渉の現象から である。
ところが電子の場合にも同様なことが起こることが見出された。すなわちSから出た電子がXの上で縞模様の暗いところ に相当した位置には決してこないことが知られている。Xのところに蛍光板をおくと、あちらこちらがポツリポツリと光る であろうが、縞模様の暗線に相当する箇所は決して光らない。この現象から通常の粒子のようの、電子においては一方の穴 だけしかそれが通らないとは、決して断定できないことがわかる。なぜなら、もし一方だけを電子が通るなら、それが 通らなかった他方の穴の存在は、この電子には縁のないことである。したがってこの穴が、たまたまふさがっていても、 その電子の行動には何らの影響もあるまい。そうすれば、一つの穴しか壁になかった時と同じ行動を電子はとるはずである。 したがって、その電子は暗線の所へも遠慮なくやってくるであろうから、明暗の縞などは決して現われるはずはなかろう。
前に電子や光子は不可分のものであって、それをつかまえたときには、決して質量や電荷が半分のものとか、エネルギー が1/3しかないものなどは、現われないことを述べた。実際、A、Bの窓の板の前に蛍光板をおいてここで電子をつかまえてみると、 A、B両方にわたって一面に蛍光板が光ったり、AとBとの両方が半分ずつの明るさで一緒に光ることなどは決してない。 電子や光子はこうした意味で不可分のものであるにもかかわらず、上のような実験状況では(すなわち、 窓のところに蛍光板などを置かず、したがってそこで電子をつかまえないような状況では)電子や光子はある意味で二つの穴の 両方を一緒に通ったと考えねばならぬことになる。これは、はなはだパラドキシカルなことである。
量子的な粒子とはこういう奇妙なものであるから、通常の粒子と決して同じものとは考えられない。しかし、こういう パラドキシカルな性質があるからといって、それは決してこれらの量子的な粒子に対して通常の論理が用いられないということを 意味するのではない。われわれが、そのものに対して、知らず知らず米粒のようなものを念頭において考えたのが、悪いのである。 米粒が、二つの窓A、Bを通るには、Aを通ってBを通らないか、またBを通ってAを通らないかの、いずれかであって、このほかに 可能性があろうとは思えないのに、光子や電子はそうでなくて、ある意味で、両方の窓を一緒に通り抜ける可能性を考えねば ならない。

9 電子や光子の状態はヴェクトル的な性質のものである

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更新12月23日