先日(2007年3月28日)ある現役の僧侶のblogに、輪廻について 次のようにコメントを書いたら、強い反発があった。
私は、輪廻ということに疑問をもっています。輪廻は宗派的な考え方でして、つまりそう考えなくてはこの世界を説明するのにつじつまが合わないということではないでしょうか。この世界はすべてを説明する必要はないと思います。人間にすべてが分かるはずもなく、すべてを説明しようとすると真実とは関係のない考え方を持ち込んでしまうのです。
前世がなければ、現在の有様が説明できないとは、なんと情けない考え方ではありませんか。現在をすべて説明する気なのでしょうか。そんなことは出来ないことです。また来世を前提にしなければ、現世の生き方が危うくなるとは何故そんな考えになるのでしょうか。これらに相関関係はないと思います。
信仰ある人でも信仰を持たない人でも、そのようなことに関係なく、老人に席を譲る人は譲るでしょうし、世界平和を願って活動する人はするでしょう。来世の報いを当てにして行動しているわけではないと思います。
最近、死ぬことについてそして死んだらどうなるかについて、よく考えるようになった。一般に日本人は、死んだら戒名が与えられる。これは本人の意志に関わらず仏弟子になるということ。そして輪廻とは、死んだら現世の行いに応じて来世(六道といって、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道があるという)に生まれ変わるというものだ。これは遍在する法(ダルマ)だから、当人の意志に関係なくそうなるのだ。世界にはキリスト教徒もイスラム教徒もいるし、他の信仰を持っている人たちもいるだろう。彼らもそうなるのだろうか。ありえない話である。そこで釈迦が本当にそう説いたのか自分なりに調べることにしました。これはその第一回目です。私は、釈迦が輪廻を説くはずがないと思っているのです。(管理人)