生きるのが辛くない人が生きていても、そこにはとりたてて道徳的価値はない。それはただの自然現象だ。だが、ぼくが三十年来つきあっている哲学者カントと共に言えば、生きるのが辛いからこそ、それにもかかわらず生きているのは道徳的なんだよ。
なぜ、生きることそのことに価値があるのか?なぜ、自殺してはいけないのか?いかなる哲学書を読んでも宗教書を読んでも、ぼくには確実な答えらしきものは見あたらない。だが、ふたたびカントと共に言えば、答えは与えられなくとも、それを問いつづけることは意味のあることなんだ。むしろ、それこそ哲学の中心的な営みとさえ言えよう。
なぜ、きみは辛くとも生きねばならないのか?その理由を知りたいとは思わないかね?カントは、こういう課題はわれわれ人間に必然的に与えられていると考えた。これは峻厳な課題である。しかし、絶対的な正解は永久に得られないだろう。とはいえ、生きているがぎり、この課題を追求することそのことが一種独特の義務なんだ。いかなる義務にも勝る最高の義務なのだ。そう彼は考えた。
自殺はこの義務を放棄することだから、絶対的に義務違反であるわけだ。
親が悲しむからではない。生きていれば「いつかよいこと」があるからだでもない。きみはときどきぼくに言ったよねえ。とにかくラクになりたい、と。だが、それこそ―酷であることを承知して言えば―怠惰なんだ。人間として最高の義務に違反することなんだ。これはぼくのカント解釈だけれど、「たったこのまえ生まれてきて、たちまち死んでしまうこのぼくという存在は何なのか」という問いを求めつづけること。これが最高の生きる目的なんだよ。答えが与えられなくとも、答えを求めつづけることそのことに価値がある。