ここでは、まず、私がなぜ憲法を変える必要がないと考えるのか、その理由を書いておく。
変えないほうがいいと思う最大の理由は、どうしてもいますぐ第9条を変えなければ困るというさし迫った事情がないからである。とりあえず、変えなくてもすんでいるし、これからもすむだろうと思うからである。どうしても変えなければならない事情が具体的に出てきたら、そのとき、その状況に即して考えればいいのである。そのようなのっぴきならない事情が出てくる前に、変える必要はない。
いま提出されている改憲論のすべては、この「必要性」の議論において弱い。提示されている必要性は、自衛隊の存在とそのあり方などにおいて、現実と法の建前との間にズレが生じているから、そのズレを「直したほうがよい」といった程度の議論であって、「どうしても」「いますぐ」「直す必要がある」という、「緊急性」と「代替方策不可能性」をともなっての、「絶対的必要性」はどこからも提示されていない。
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法の問題で何より重要なのは、法の安定性を守ることである。法の安定性を守るために何より重要なのは、法をみだりに変えないことである。法の世界でいちばんいけないのは、朝令暮改である。今朝は法律で正しいとされていたことが、夕方になったら誤りとされてしまうようでは、人は法に対する信頼性を根本的に失ってしまう。朝令暮改の世界では人は、法を守る気力すら失ってしまう。法は変えないですむなら、変えないにこしたことはない。
朝日新聞の論説主幹である佐柄木敏郎氏が書いた『改憲幻想論』(朝日新聞社)というちょっと面白い憲法論の本があるが、これには、「壊れていない車は修理するな」という副題がついている。この本が言っていることは、私の主張と基本的に同じである。変えないですむものは変えないほうがいいのである。
この副題は、オーストラリアで1999年に行なわれた憲法改正の国民投票のときに、改正に反対する保守党が使ったスローガンだという。いまのオーストラリアの憲法は基本的に百年前のオーストラリアがまだイギリスの植民地だった時代に作られた憲法だから(その後若干の改正はあった)、現実とそぐわなくなっている箇所がいろいろある。国民のマインドと合わなくなっている箇所もいろいろある。
たとえば、国家の基本構想が植民地時代とほとんど同じで、オーストラリアは、いまでもイギリスのエリザベス女王を国家元首にあおぐ立憲君主制の国なのだある。君主制とはいっても植民地だから、日常的には、女王が任命する総督が女王名代の最高権力者として君臨する形になっている。
しかし、そのような側面はとっくに形骸化している。たしかにいまでも総督はいる。そして、連邦議会に立法権はあるが、議会を通った法律も、そのあと総督のところにまわされ。、総督がそれを裁可したという形式をとらないと、法として発効しないことになっている。しかもいまや、これはただの形式になっており、総督にも女王にも実質的な権力はなにもない。
それは日本の象徴天皇とほとんど同じといってよい。日本でも、天皇が形式的に
エリザベス女王や英王室が特に好きというわけではない。世論調査ではとっくに女王に対して親近感なしという答えが出ている。この国民投票にあたって、ノーの投票を呼びかけた保守派の側が使ったスローガンがこの「壊れていない車は修理するな」だった。そしてこのスローガンが共感を呼び、大統領制提案は否決されてしまったのである。
それは、君主制のメリット・デメリットと、共和制のメリット・デメリットを比べて、こちらのほうがこれだけ利点が多いからこちらにしようというような利害得失の計算に基づいての呼びかけではなかった。どうしても変えなければならないような特段の事情がないかぎり、それなりにうまく走っている社会システムを変えたら、無用のきしみがでるにきまっているから、変えないほうがいいということなのである。
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佐柄木氏は、日本の憲法状況を一言で、「壊れていない点では同国の君主制の比ではない」と総括して、日本の憲法を今日ただいま改定する必要はないとしているが、私もその通りだろうと思っている。