古代ギリシャの自然哲学者たちの次の課題は、“元素”を形成する物質の究極の構造、要素は何か、ということであった。実は、それ以来今日までの二千数百年間、その究極の努力は続けられているのである。
物質を分解していくと究極の微粒子になり、それは最小不可分の要素“アトモス(άtomos)”であるという考え(アトモス論)を最初に提唱したのはエレア学派のレウキッポスである。
ギリシャ語の“άtomos”は“α~(〜できない)という接頭語と“tomόs(分割する)”から成り、ちょうど英語の“indivisible”に相当する。一般に“άtomos”に相当する英語は“atom”で、それは「原子」という日本語に訳されているのであるが、後述するように“アトモス”はその真意に忠実に「不可分割素」と訳されるべきである。現時点でわれわれは「原子」が「不可分割素」ではないことを知っているからである。そこで私は、本書において「アトモス」と「原子」とを使い分けることにする。そして、私は従来の「原子論」のかわりに「アトモス論」を使うのである。
レウキッポスのアトモス論を継承し、それを発展させたのは、彼の弟子と伝えられるデモクリトスである。デモクリトスは、ターレスからレウキッポスにいたる元素論、アトモス論を体系化し、アトモス論を次のようにまとめた。
古代ギリシャの自然哲学者らによってまとめられたアトモス論が今日風にいえば科学的根拠に欠けた哲学的物質観であるのは事実であるが、それは二千数百年後の現在の最先端科学の成果に照らして考えてみても基本的には完全に正しいのである。
われわれは、日常的には、物体の“重さ”について例えば「私の体重は六十キログラムだ」などというが、これは本当は正しくない。“キログラム(kg)というのはあくまでも“物質の量”である。“質量”の単位であって“重さ”の単位(例えば“キログラム重”)ではない。“重さ”に重力加速度(g)を乗じた(重量)なので、“重さ”は場所によって変化する(重力が場所によって変化するから)。一方の“質量”は物体あるいは物質が持っている本来の特性なので場所によって変化することがない。したがって物理の世界では“重さ”の代わりに“質量”を問題にすることが多いのであるが、以下の説明では“重さ”と“質量”は同じものではない、ということを理解した上で、“質量”を“重さ(のようなもの)”と考えていただいて構わない(ちなみに“質量をmとすればその“重さ”はmgである)。
原子自体、想像を絶する軽さなのだが、電子、陽子、中性子の質量を見ると、原子全体の質量のほとんどが原子核(陽子、中性子)の質量であり、電子の質量は無視できるほどのものであることがわかるだろう。
ついでに、これらの粒子の電気的性質について簡単に触れておく。
・・・原子核は正(+)の電荷、電子は負(−)の電荷を持ち、原子全体としては電気的中性が保たれているのであるが、一個の電子はマイナス1の電荷、陽子はプラス1の電荷を持っていると理解していただきたい。中性子はその名の通り、電荷を持っていない。したがって原子全体が電気的に中性であるということは、一個の原子の中に含まれる電子と陽子の数が等しいということである。このことは、物質の構造や性格を理解する上で、極めて重要である。
次に、それぞれの大きさについて述べる。
近年、電子顕微鏡などの観測機器、観測技術の進歩によって“
原子は大きさが100億分の1メートル(10 -10 m=0.0000000001m )ほどの“粒”である。われわれの日常感覚からすれば、1メートルの100億分の1という大きさは想像が不可能なほど小さい。例えば、直径10センチメートルほどのりんごを地球の大きさほどに拡大した時、原子の大きさはやっと1センチメートルほどになるのである。
それでは原子の中心に位置する原子核の大きさはどれくらいだろうか。
原子核は原子より四桁ほど小さく、10 -14 m(100兆分の1メートル)ほどの大きさと考えられている。原子核を構成する陽子や中性子は、さらに一桁小さい10 -15 m ほどである。
原子核の周囲を回る(これは・・・で述べたように、“古典物理学的表現”である)電子は静止状態では存在できないので、その大きさを正確に知るのは容易ではないが、陽子や中性子と同程度の10 -15 m と推定されている。
つまり、仮に、原子核の大きさを1センチメートルとすれば、電子は1ミリメートルであり、原子の大きさは100メートルになる。
ここで、直径100メートルのピンポン玉を思い浮かべて欲しい。
このピンポン玉の中央に直径1センチメートルの玉がある(浮いている)。この玉が“原子核”である。そして、直径1ミリメートルの小さな粒がピンポン玉を形成する外殻の中を周回している。この小さな粒が“電子”である。ピンポン玉(原子)の中のほとんどは、何もない“空間(真空)”なのである。
このような原子の実態を考えれば、記憶力のよい読者は、31ページで述べた『般若心経』の文句、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」を思い起こすのではないだろうか。
図示したように、物質(“色”)は原子によって構成されているが、その構成要素のほとんどの部分は何もない“真空”なのである。したがって、物質そのもののほとんどの部分は何もない“真空”ということになる。まさしく「色不異空」「空不異色」というわけである。
われわれの周囲にも、地球上にも、宇宙にも無数の物質が存在するが、それらの構成要素(原料)はわずか100種類ほどの元素(種類の異なる原子)である。ギリシャ自然哲学における“四元素”あるいはインド哲学における“五元素”と比べれば“100”という数は大きいかもしれないが、無数の異なる構成要素の数としては、“わずか”というべきであろう。
それは、およそ二千年前にルクレーティウスが「多くのものには幾多共通の物質があることは、丁度われわれの言葉に[幾多共通の]『あるはべっと』があるのをわれわれが見るのと同様」と述べているように、例えば、英語で“わずか”26文字のアルファベットから無数の単語、そして無限の文章が作られるのと似ている。
現在まで、天然に存在する92種の元素のほかに加速器を用いて生成された人工元素を加え、合計109種の元素が公認されている。
原子核の数はどの元素も同じで一個だが、電子の数(電子と陽子は同数だから結果的に陽子の数も)が“原子の種類”によって異なるのである。
つまり、原子の種類(元素)、そして結果的に、その性質は、その原子が有する電子の数で決まることになる。換言すれば、電子を一個(陽子を一個)持つ元素が水素であり、二個持つ元素がヘリウムというように、順次109個の電子を持つ人工元素まで、それぞれが命名されているのである。そしてこの電子の数(電子は場合によっては“飛び出して”電子の電気的中性が破られ、イオンに変化することもあるので、正しくは“陽子の数”)をそのまま原子番号と名づけ、一番元素・水素、二番元素・ヘリウム・・・などと呼ばれる。
ちなみに、われわれになじみ深い炭素、窒素、酸素の原子番号はそれぞれ6、7、8である。
念のため書き添えておくが、元素によって、それが有する電子、陽子、中性子の数は異なるが、それぞれは、元素の種類によらず、まったく同じものである。電子や陽子の種類が異なるわけではない。数だけが異なるのである。
このように電子の数が異なるだけで(同時に陽子の数も異なるのだが)まったく別の性質を持つ元素になってしまうのは、考えてみれば実に不思議なことに思える。例えば、電子一個を持つ水素と電子二個を持つヘリウムとは互いに性質がまったく異なる元素なのである。
しかし、面白いことに、元素を原子番号(陽子の数)順に並べていくと、元素の性質が原子番号とともに周期的に変化するという法則(周期律と呼ばれる)がある。これを表にしたものが元素の周期律表であるが、さまざまな元素は性質が似た18ぐらいのグループ(族)にくくられるのである。そして、それらのグループは結局、電子の配列のされ方のによってわけられていることに気づくのである。
つまり、再度強調すれば、元素の性質は電子の数(陽子の数)と電子の配置のされ方によって決定する。
このあとに続く章から、われわれの宇宙の極限の数字をあげておきます。(管理人)
(管理人追記)
理念的には無限大とかゼロとか、永遠とか無とかあるわけですが、物理的にはないことになります。ちょうど直線や円が理念的にはあるが、実際は曲線や楕円の一部であるのと同様です。