今月の言葉抄 2006年6月

詩は何の役にたつのだろう

さて世界を理解するみちすじに二種類あります―その一つはわれわれのあたまをとおして、他の一つはわれわれの心臓、われわれの感情をとおして。科学は、この世界がどのようにうごいているか、なにからできているか、その他いろんなことをたくさん教えてくれます。科学はわれわれのあたまをとおしてまなぶ方法の主要なものです。しかしそれだけが世界についてまなぶ唯一の方法ではありません--おそらくいちばんにいい方法でさえもありません。たとえば、きわめてありふれたもの、みなさんご存じの野に咲いている一茎の水仙をとってみましょう。これを説明する方法が二つあります。

(1)
学名-ナルキッス スプソイド・ナルキッスス。(日本名=ラッパ水仙)花梗はうつろにて二つの稜線をもち、その頂点ちかくに膜質の茎衣と単一の花をもつ。密腺はその辺粗く鋸歯状をなし渦巻形にて、萼片と花弁に及ぶ。

(2)
われひとり淋しく雲のごとく
谷わたり丘を超え流れゆく雲のごとくさすらいゆけば
はかざりし、眼を射るはひと群れの花
群れつどう金色の水仙花
湖水のほとり、樹々の樹蔭に
はためくよ、舞うよ、
微風のなかに。
I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd.
A host of golden daffodils:
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.

さて、みなさん、水仙花の説明としてどちらがより満足な説明のしかただと考えますか―一つは植物学の教科書からわたしが借用してきた科学的な説明、他の一つはワーズワースWordsworthのかいた一ぺんの詩のなかの出てくる詩的な説明。・・・しかしこれら二つの説明法を対照してみると、詩と科学がどんなにその方法を異にしているかがはっきりわかるでしょう。(1)の説明は分析的です。言い換えれば、それは水仙というものを、われわれの五官に感じられるたのすべてのものとは全然かけはなれた単一の事物であるかのように検査して、それがどのように組み立てられているかをかたり、またそれを分類します。(2)の説明はひとむれの水仙を他のたくさんのもの―樹々や湖水や微風た、また詩人の孤独の感情(少なくともその詩人は「群れつどう金色の水仙花」の出あうまでは「ひとり淋しく雲のごとく」であったのです)と結びつけて説明します。

(「詩はなんの役にたつのだろう」から)
『詩を読む若き人々のために』(ちくま文庫1994年)C.D.ルーイス著 深瀬基寛訳
更新2006年6月5日