今月の言葉抄  2006年5月

中国人と日本人の歴史観の違い

日本人にとって「歴史」とは、どんなイメージを持つものだろうか。多くの人にとって歴史や古典は、あくまでも教養という位置づけなのではないだろうか。
しかし中国人にとっては、歴史は、生きるためのマニュアルのような存在としてとらえられている。歴史は過去の出来事ではなくすべて現在と密接なかかわりを持つものとして受けとめられているのだ。何か問題が起こると、すぐに歴史を紐解き、そこから解決の知恵を見出そうとする。現在の事象を説明するときには、過去に似たような事例がなかったかを探し出してきて、それを参考にする。いわば、事例集、判例集といってもいいような位置づけなのである。
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中国人にとっては、歴史は過ぎ去った過去の出来事ではなく、現在を生きるためのモデルであり、知恵であり、マニュアルなのである。
中国人はよく「歴史を鏡にする」という言葉を用いるが、それは、歴史をマニュアルとして使っているということである。 江沢民(こうたくみん)前国家主席が、来日中に「歴史を鏡にする」と発言したときに、日本人は政治的な意図をこめてそのような発言をしたと思ったかもしれないが、日本にたいしてわざとそういったと思った中国人はいなかったと思う。「歴史を鏡にする」という言葉はあの世代の人のふつうの会話にしょっちゅう出てくるフレーズだからだ。
歴史を勉強するとき、日本人のなかには「歴史など知らなくても、十分に生きてゆける」と思っている人が少なくないと思う。しかし、中国人は、「よりよい人生を生きるためには、歴史という事例集をしっかりと学ぶべきだ」と思っている。歴史は「過去」のものではなく、「現在」に活かすべきものなのだ。それが中国的な考え方である。
中国人の会話には、よく「従歴史的観点看」という表現が出てくる。日本人が訳すと、「歴史的観点から看れば」「歴史的に見れば」ということになると思う。しかし、この表現をもっとも近い日本語に訳すとすれば、「さあ、始めましょう」というような言葉になる。そのくらい中国人にとって、物事を歴史問題から語りはじめることは当たり前のことなのである。
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それに対して日本人は、「歴史的に見れば」という言葉を使う頻度はとても少ない。その代わりに、日本人は「欧米では」とか「国際的に見れば」というような言い方が好きだ。
ここに、日本人と中国人の考え方の違いがよく現れている。中国人は「タテ」の視点で物事を見るのが得意で、日本人は「ヨコ」の視点で物事を見るのが得意な民族なのだ。日本人は空間的に広い視野を持っており、中国人は時間的に垂直の視野を持っているともいえるだろう。
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日本と中国では、問題解決法を探るときにも違いがある。日本では問題が起こると、外国の事例に問題解決法を見出そうとする。「アメリカでは、同様の問題が起こったときにこう解決した」「ヨーロッパではこう解決した」という事例を参考にすることが多いと思う。あるいは、欧米的な定量的な分析手法を使うだろう。
中国では、過去に問題解決法を見つけようとする。過去の似たような事例をすべて出して、そのときにはどう解決したのか、その処理によってどんな結果が得られたのか、それらを分析して現在のことを処理する。法律家が判決を下すときに、過去の判例を見て問題処理をするのと同じやり方をするのだ。そのときに、「孔子はこのように述べている」「孟子はこう述べている」という過去の教えも参考にされる。現在では、毛沢東やケ小平の発言が引用されることも多い。
問題解決法を外国人に求める日本人と、問題解決法を歴史に求める中国人の発想法の違いがここにあると思う。これもタテとヨコの発想の違いだろう。
(「第2章 中国人にとって歴史とは判例集」から)
『中国人の愛国心』(PHP新書 2005年10月)王 敏 (Wang Min) 著
更新2006年5月8日