英語の学習 get について
get の基本論理
漠然と「獲得する」という意味で使われる外来語の「ゲット」は、いまや完全に日本語として定着しているが、これは原語である
英語の get の一つの側面を表しているにすぎない。英英辞典で get を見ると、自動詞としてのそれも含めて、意味は26ほど載っている。
さらに get away や、get over, get across, get behind, get beyond, get out of 等々の「複合語」も含めると、100を超えてしまう。
英語学習者にとって、これほどたくさんの意味を修得することは大変だろう。むしろ、get の特徴的な基本論理を押さえた上で、そこから
それぞれの使い方を理解した方が現実的ではないかと思う。
意識するほどのプセスの有無
一つの鍵は、先の「使役表現」の「have =仕事上の関係などで、当然してもらえる」とは対照的な、
「get〜(to)=説得や工夫などの、とにかく努力してなんとかしてもらう」という意味を理解することにある。
まず、漠然と「手に入れる」という範疇に入る get においても、こうした感覚は生きている。たとえば、
Could I get a double espresso? ([レストランなどで]エスプレッソ
のダブルを一杯もらえますか。)
I'll get a plane reservation. (飛行機の予約を取っておく。)
Right. I'll get my camera. ([じゃ、出かけようと言われて]分かりました。カメラを取ってきます。)
というような表現を考えよう。
"Could I get a double espresso? の場合、"Could I have a double espresso?" にしても、同じ「エスプレッソ
のダブルを一杯もらえますか」という注文になるのだが、話し手の意識が違う。つまり、"Could I have a double espresso?" は
「この店は、エスプレッソのダブルを当然出している」といった意識がある注文の仕方になる。これに対して、"Could I get a
double espresso?" は、「普通には出していないかもしれないが、それでも、なんとか作ってもらえないかな」といった感じの
注文になる。
また、"I'll get a plane resevation." の場合、"I'll make a plane reservation." と同様、「飛行機の予約
を取っておく」という意味になるのだが、"I'll make a plane reservation." からは、「電話一本ですむだろう」といった
気分が感じられるのに対して、"I'll get a plane reservation." は、「そうすんなりと取れないかもしれないが、少々
の努力はして取っておく」といった意識を表している。
あるいは、「じゃ、出かけようか」と言われて、"Right. I'll get a camera." という場合、いうまでもなく、
カメラを持って出かけるつもりなのだが、もし、そのカメラが目の前にあるなら、「手に取る」のにこれといった「プロセス」
など不要なので、ただの"Right. I'll take my camera." (わかりました。カメラを持って行きましょう)と言う。ところが
そのカメラが、たとえば二階のたんすの上にあるのなら、「手に取る」のに一応意識するほどのプロセスがあるので"Right.
I'll get a camera." と言うのである。
要するに、get a double espresso. get a reservation. get my camera のどの get も、
「それをするには、意識するほどのプロセスがある」といった気分を表しているわけなのである。
部屋に入る難易度の問題
漠然と「状態を変える」という意味合いの get の使用例を見てみよう。
How did you get in here? (この部屋にどうやって入ったのか。[部屋に
入っていない状態から入っている状態へ])
How long does it take to get to the staition from here? (ここから駅までは、どのくらいかかるでしょうか。[ここに
いる状態から駅にいる状態へ])
I finally got her out of my mind. (彼女のことをやっと忘れることができた。[気になる状態から気にならない状態へ])
・・・
簡単に言えば、"She went into the classroom" は、「(意識するほどの努力もせずに普通に)入った」という意味なのだが、
これに対して、"She got into the classroom" は、たとえば「(ドアの鍵は閉まっていたが)なんとか(二階の窓から無事に
入りこんだ」という意味になる。つまり、got into の場合、入るのには、意識するほどのプロセスがあったわけである。
そうした意味で、"How'd you get in here?" (どうやって入ったのか)は「普通に入ったはずがない」という意味を
含んでいる。『カサブランカ』では、リックのセリフとしてこの質問が二回ほど出てくる。一つはキャバレーで若い女性に
How did you get in here? You're under age.(なんだ、どうやって入れて
もらったんだ。おまえは、未成年じゃないか。)
と言い、もう一つは、誰もいないはずの自分の部屋に入ると、そこにイルザがいることに驚いたリック
が、彼女に、
How'd you get in here?
と訊く。すると、イルザは、
The stairs from the street. (裏の非常階段で。)
と説明する。要するに、いづれの場合も、普通に入ることは無理だったのだが、それでも何とかして
入ることができたわけで、「入ったこと自体」より「入ったプロセス」がポイントとなるのである。
だから、「ここから駅まで、どう行けばいいのか」と尋ねるのに、
How can I go to the station?
という表現は、日本語の感覚では「普通の言い方」に思えるかもしれないが、英語としては、この表現は
おかしい。質問自体のポイントは「ここから駅までのプロセスそのもの」だから、英語としては当然、
How can I get to the station?
と言うべきである。
How long does it take to get to the station from here?
の get も同様である。
たどりつけない心配
こうした使い分けは、次の二つのセンテンスではさらにはっきりしている。
Do you think you can go to the party tonight?
Do you think you can get to the party tonight?
いずれも「今夜のパーティーに行けるでしょうか」と訊いているのだが、go の場合は、パーティーに出席する
都合がよいかどうかを問題にしているだけであり、get の場合は、たとえば、吹雪などで会場に行くのが大変だから、果たして
そこまでいけるかどうかを問題にしているのである。
同様に、プロセスそのものを意識する "how" という疑問副詞を使って、
How can I get to that party?
と言えば、「そのパーティーへは、どう行けばいいでしょうか」という意味になるのに対して、
How can I go to that party?
は「ぼくがそのパーティーにどうして出られるというのか」と、いわゆる修辞疑問になり、「出るわけにはいかないだろう」という意味になるのだ。
最後に、
I finally got her out of my mind. (彼女のことをやっと忘れることが
できた。)
の場合、「彼女のことを頭からやっと追い払えた」といった感じの表現で、追い払おうとしたプロセス
を意識している。が、もし忘れることが簡単で、忘れようと思ってすぐに忘れたという、つまり、これといったプロセスのない
「忘れ方」だったら、get を使わず、たとえば、
I finally just put her out of my mind. (結局、彼女のことを忘れる
ことにした。)
という表現になる。
迷惑の受身
また、使い方として関連してはるが、ニュアンスがちょっと違う、「ありがたくない状態になってしまう」という意味を表す get
もある。その典型的な例は、こうである。
First, we got caught in the rain and got soaked,
and then we got picked up by the police. (まず、雨に降られてびしょぬれになり、そして警察につかまってしまった。)
これらの get を三つとも、
First, we were caught in the rain and were soaked,
and then we were picked up by the police.
のように、「be動詞」に替えて、「普通の受身」にしてもよいのだが、「普通の受身」には「そうされて
困った」といったニュアンスがほとんどなくなる。逆に、「got caught/ got soaked/ got picked up」では、
「やられて困った」といった気持ちがはっきり表されている。これは、いわば「迷惑の受身」というものである。
日本語にも「迷惑の受身」がある。たとえば、「普通の受身」の「日記が読まれた」を「日記を読まれた」と、「が」を
「を」に替えれば、「読まれた」ことを単なる事実として示すだけではなく、「読まれて困った」という気持ちまで表現される。日本語の
学習者は、この「受動態なのに、その主語を示す格助詞は”が”ではなく、”を”だ」という不思議な現象を、そう教わるのである。
先の例のように、「be動詞+過去分詞」と「get+過去分詞」の二つの受身は、この「”が”と”を”」に似た関係である。
たとえば『ローマの休日』では、深夜の帰り道、ジョーがベンチの上に寝ているアンを見つけて起こそうとすると、アンが
You may sit down. (掛けてよろしい。)
と言う。それに対してジョーは、
I think you better sit up. You're much too young to get picked up
by the police.([ぼくが sit down じゃなくて、きみが sit up, すなわち]起きた方がいいよ。きみみたいに若い子が
警察に捕まってしまったら、かわいそうじゃないか。)
と言う。これを" to be picked up by the police" と言ってもよいのだが、そうなると
「捕まったら困るだろう」という強い含みが消えてしまうのである。
「習うより慣れよ」の部分もある
以上のような get の論理ははっきりしてきても、学生たちを混乱させるもう一つの現象がある。
have got = have
haven't got = don't have
という現象である。つまり、
I have rhythm. (ぼくはリズム感がある。)
と言えばよいのに、なぜか、
I have got rhythm.
と言うときがある。"I have rhythm" と"I have got (I've got) rhythm" とは、
意味がまったく変わらない上に、"I've got rhythm" は、たとえばガーシュインの名曲 "I Got Rhythm" のように、
肝心な have が抜けたりすることさえある(これはかなりくだけた言い方になる)。
『カサブランカ』では、ピストルを取り出したイルザが、リックに
Now, I want those letters. Get them for me. (さあ、出国ビザ
をもらうわよ、取ってきなさい。)
と言う。それに対して、リックは、
I don't have to. I got 'em right here.
(取ってくる必要なんかないよ。[胸のポケットを指して]ここにあるんだ。)
と応じる。同じことを、
I don't have to get them. I have them right here.
と言えば、分かりやすい表現になるだろうが、このごく普通にくだけた言い方では、まず、
I don't have to get them.
は get them 抜きの
I don't have to.
となり、
I have them right here.
は、
have them → have got them → 've got them
→got them → got 'em
というプロセスを経て、
I got them right here.
となってしまう。結果、
イルザ:Get them for me.
リック:
I don't have to.I got them right here.
という、英語学習者にとって理解しにくいやり取りになってしまうのである。
これは「慣れの問題」であり、聞き取りとしてはむろんのこと、活字をじっとにらんだとしても、正しく受け止められるほど
「生きた英語」に慣れている日本人は、きわめて少ないだろう。逆のケース、つまりアメリカの大学で日本語を勉強して「六活用形」
や「自立語と付属語」、「口語での八つの終助詞」などを学ぶ普通のアメリカ人でも当然のことだろう。たとえば、日本人同士の会話で
「だって、そりゃしょうがないじゃないか」と言われ、「なに言ってんだ、しょうがないなんてわけないじゃないか」と反論する、
といったごく当たり前な「生きた日本語」のやり取りは、耳で聞いても、活字で読んでも、最初は何が何だ分からないものだ。が、少し
ばかり日本人同士の会話に慣れれば、問題なくそのまま理解できるようになる。"get" を get するのも、それと同じである。
(「2 日常もドラマだ 3 get をモノにして」か ら)
『心にとどく英語』(岩波新書)マーク・ピーターセン著