歴史のなかのわれわれ
いかなる課題をわれわれが自己の課題として認めるかということは、われわれ自身の責任である。われわれは、今日、自己の
運命が人類の運命のなかに共に含まれているのを見る。われわれの課題は、すべての人間を結びつけてくれるものを見いだす
ところにある。
けれども、すべての人々を結びつける生命内容の唯一の意味、信仰と生活様式との唯一の意味は、期待されるべくもないし
望まれるべくもない。かかる唯一の意味は、時間のなかで明らかになる永遠者を無価値なものにしてしまうであろう。共通のもの、
すべての人々を結びつけるものは、現存在の問題における不断の妥協にもとづく平和の政治的共同体でしかありえない。かかる共同体は、
平和への意志という点で一致を求めている。いいかえれば、永続的な平和という絶対的な条件のもとにおける一致を求めている。
・・・
最後に、われわれがわれわれ自身に立ちかえり、事物の根拠にまなざしを向けるかぎりにおいて、歴史はもはやわれわれを
とじこめる牢獄ではない。歴史は、われわれがわれわれ自身の行為と経験によって、本来的なものに到達するのに、どうしても
必要な場所である。
けれども、もしわれわれが歴史から外へ出るならば、われわれは無のなかにおちいる。歴史におけるわれわれの現存在をもたない
ならば、われわれは本来的なものにいたる導きの糸をもたないことになる。この導きの糸がなければ、われわれは、われわれが由来
した根拠、われわれを支えてくれる根拠について、間接的に聞くことのできるいかなる言葉ももたない。
われわれは歴史を超出することはできない。けれども、われわれがいわば歴史をつき破ることによって、歴史は別の観点から
照らし出されてくる。あたかも時間の現象のなかで、─時間を横切って─永遠の現在が体験されるかのごとくである。
(「2 歴史と現在」から)
『哲学の学校』(河出書房新社)カール・ヤスパース著 松浪信三郎訳