宇沢弘文が語る 趙紫陽
1980年台の初め頃、中国・瀋陽の近郊の農村にしばらく滞在して、当時始まったばかりの請負生産制を中心とする農村改革の実態について調査する作業に従事したことがある。
当時の農村の言葉に言い表せないような悲惨な現実と共産党幹部による徹底的な搾取を知って、強烈な衝撃を受けた。「資本主義的な搾取には市場的限界があるが、社会主義的搾取には限界がない」と題する報告書をまとめて、党中央に提出した。すぐ北京に呼び戻されて、厳しい査問を受けて、もう日本には帰れないと覚悟を決めた。
そのとき、一番若い、末席に座っていた人が「宇沢教授の主張には一理ある」と言って、私を弁護してくれた。その人が趙紫陽さんであった。その後、総書記になられてからもよく会っていた。あるとき、中南海のご自宅に招(よ)ばれたとき、それまでいくつかの五カ年計画がすべて失敗してしまったことを話題にされた。私が「党中央は常に誤謬(ごびゅう)を犯すという前提に立てば、それまでの五カ年計画の失敗は合理的に説明することができる」と言った。趙紫陽さんが厳しい顔をして「政府の統計センターに入っているデータ、資料をすべて出すから、証明してほしい」。
その作業は思ったより大変だったが、89年7月21日、北京で国際シンポジュウムを開催しその成果を発表することになった。ところがその直前に天安門事件が起こり趙紫陽は失脚し、亡くなるまで自宅に幽閉され、国際会議どころではなくなってしまった。
『私の収穫』趙紫陽 宇沢弘文 4 朝日新聞 2010年5月14日夕刊より