今月の言葉抄 2010年5月

宇沢弘文が語る フェスティンガー

スタンフォードにいたとき、家が近い故もあって、レオン・フェスティンガーと家族ぐるみでしょっちゅう行き来していた。フェスティンガーは戦後、「認知的不協和理論」を掲げて彗星のようの現われた天才的な社会心理学者であった。
フェスティンガーはまたアメリカ陸軍のチーフサイコロジストとしての役割を果たしていたが、自らの理論が残酷な形で、ヴェトナムで応用されているのを知ったときの彼の苦悩はじつに痛ましいものがあった。
ケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン大統領がヴェトナム戦争に全面的に介入しはじめてからしばらくして、フェスティンガーはある日、スタンフォードのキャンパスから姿を消した。魅力的な奥さん、3人の子ども、数多くの友人たち、そしてスタープロフェッサーの地位をすべて捨てて私たちの視界から消えてしまったのである。
ヴェトナム戦争が終わって大分経(た)ってからのこと、日本に帰ってきた私の手もとに一通の手紙がフェスティンガーから届いた。彼は、ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシアルリサーチに一人の学生として入学し文化人類学を専攻した。若い女性と一緒になって新しい人生を歩んでいる。いまはそこで教授をしているという。それから何年か経って、フェスティンガーが亡くなったという報(しら)せを受け取った。彼のカフカ的転身は今でも私の心に重く残っている。

『私の収穫』フェスティンガー 宇沢弘文 2 朝日新聞 2010年5月7日夕刊より

更新2010年5月8日