イエス伝

33 十字架上の死

ローマ総督ピラトが裁判を行った場所はどこであったか、実ははっきり特定できないのである。共観福音書はどれも 「イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」としか書かれていないからである。ただヨハネには「総督官邸に連れて行った」 と書かれている。公式の総督官邸は地中海に面したカイサリアにあったが、エルサレム滞在時のローマ総督の官邸はどこであったか ということになる。神殿の北西の角に隣接してアントニアの塔と呼ばれていた要塞があるが、ここはローマ兵が駐屯 していた処であった。マルコでは、明らかにここがエルサレム滞在時の総督の官邸で、裁判はアントニアの塔の外で、群集の見守る なかで行われたという前提で書かれている。

裁判が終わると、ピラトはイエスを兵士たちに引き渡した。

1516 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 (『マルコ伝』15:16-20)

こうしてアントニアの塔からゴルゴタまでが、イエスの歩いた十字架の道だと伝統的に信じられていた。 ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれている。しかしここでのローマ兵たちの書き方は、裁判での群集の書き方同様、 非常に意図的である。イエス一人を侮辱するために、部隊の全員を集める必要は全然ないだろうし、 エルサレム城内に茨が生えていたとも思われないし、 紫の衣✽1をすぐに用意できるとも思われない。 当時、紫の衣は高価で、また王族が所有するものであって、 庶民が手配できるものではないのである。またローマ兵はイエスとはかかわりがない はずなのに、どうしてローマ兵がイエスを侮辱する行為をしなければならなかったのか、奇妙なことである。 もっともローマ兵は傭兵も多かったようですので、彼らはユダヤ人の傭兵だとする説もありますが、あまり説得的ではありません。

エルサレムでもっとも総督に相応しい館は、ヘロデの宮殿であろう。この宮殿はヘロデ王が建てたもので、 エルサレムでもっとも壮麗な建物であった。 おそらくピラトは、名実ともに自分の住居にもっとも相応しいヘロデの宮殿をエルサレムの官邸に使っていただろうと 推定する方が自然です。

エルサレムの地図 十字架への道
イエスの十字架への道 
25 カイアファの邸宅 18 ヘロデの宮殿・ピラトの官邸  27 ゴルゴタ 39 アントニアの塔 36 神殿 30 第二城壁 神殿の南北がおよそ500mありますので距離の目安にしてください。右側が北になります。
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出典下記(一部加工)。
http://www.holylandnetwork.com/temple/model.htm

こうして兵士たちはイエスを外に連れ出し、ゴルゴタの丘へ向かった。「されこうべの場所」という名の刑場である。 ゴルゴタは第二城壁の西側の外にあった。刑場とか墓地は神聖なエルサレムの城内には置かなかったのである。ピラトの官邸から エルサレムの城壁の外へ出てゴルゴタの丘まで、およそ五百メートル位の距離であったと思われます。 ローマ兵たちは 石畳の道を、イエスを引いていきました。途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人が通りかかったので、 兵士たちは十字架を無理にシモンに担がせて、イエスの後ろから運ばせた ✽2。 十字架を背負って歩くイエスの姿を想像するのは印象的ですが、このように実際的に事を運ぶローマ兵のやり方のほうが 妙に納得できる場面です。

ゴルゴタに着くと、兵士たちは没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスは飲まなかった。 これは刑の痛みを和らげるために慣例的に行われていたものである。それから服をはいでイエスを裸にし、その服を四人の 兵士で分けた。四人のローマ兵が刑の執行を担当していたのである。下着は一枚ものだったので、くじで分けた。 そしてイエスを十字架に架けた。十字架に架けられてからも、イエスは通りがかりの人や祭司長たちや、一緒に刑に架けられた 強盗にまで侮蔑の言葉を浴びせられた。

1525イエスを十字架につけたのは、 午前九時であった。26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と 書いてあった。27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 (『マルコ伝)15:25-27)

この罪状書きについて、ヨハネはもう少し詳しく説明している。罪状書きはピラトが付けさせたものだが、 ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。刑場は都に近かったので、 多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。これに対して祭司長たちは、 異議申し立てをする。「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」 と頼むが、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えてそれに応じなかった。

ガリラヤからイエスをしたってついて来た婦人たちが、遠くに立ってこれらのことを見ていた。その他にもイエスにしたがって エルサレムに来た婦人たちが大勢いたと書かれているが、刑場の周りにはイエスを信奉する男たちも大勢いたに違いない。 しかしその中に弟子たちは一人もいなかったのである。ゲッセマネの園から逃げ出した弟子たちは、イエスにかかわっていた ことを恐れて、エルサレムのどこかの家に隠れていたようです。ヨハネでは、母マリアが十字架の下に来たので、イエスは声を かけています。

1533昼の十二時になると、全地は暗くなり、 それが三時まで続いた。34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、 サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という 意味である。35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、 「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36ある者が走り寄り、 海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」 と言いながら、イエスに飲ませようとした。37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 (『マルコ伝』15:33-37)

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ (わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」。 イエスの絶叫が聞こえてくる。イエスが予期していたことは遂に起こらなかった。イエスは自分が死ぬ前にこの世の終わりが来る かも知れない、と予期していた瞬間があったのではないかと私には思われます。その時はいつか、イエスにも分からないのである。 イエスはその時が近いことを実感していたのであるが、イエスが死ぬまでには起こらなかった。こうしてそのことが起こらないままに、 二千年が経ってしまったのである。

イエスの最後の言葉は、福音書で異なっている。マタイは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫んだ、となっている。ルカは、 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と大声で叫んで息を引き取ったと書いている。ヨハネでは、「成し遂げられた」と言い、 頭を垂れて息を引き取った。マタイとマルコに書かれたイエスのアラム語の最後の言葉は、神に対する絶望の言葉と解釈される ので、伝統的に議論の種になっているようですが、文字通り受け取るのがいいと思います。壮絶な言葉である。もう一つの 解釈は、この叫びが『詩篇』22章の始めの章句であることから、この詩篇を朗誦しようとしたもの、あるいはユダヤの伝統では 文章全体を始めの章句で代表する習慣があったことから、この詩篇は最後に神の賛美で終わるので、それがイエスの意図である というものである。しかしこれはかなり無理な解釈でしょう。

イエスは生前、自分が死ぬ理由を一言も語らなかった。これは本当に 不思議なことである。普通は自分が死ぬ理由を、何々のために、あるいは何々の故に死ぬと語るものである。 世の罪を購うために、自らが小羊の供物になったというのは、人々が後からつけた理由である。 イエス自身はそのことを一言も語っていないのである。 本当に不思議なことである。イエスが十字架刑に架けられた日は、過越しの小羊を屠る日、ニサンの月の14日であった。

この日は安息日の前日であったので、夕方までにイエスの遺体を片付けなけれならなかった。 アリマタヤ出身の議員ヨセフが、ピラトに願い出てイエスの遺体を引きとった。「この人も神の国を待ち望んでいたのである」 ✽3 と書かれており、サンヘドリンの議員たちの中にも、 イエスの信奉者がいたのである。 ヨセフはイエスの遺体を亜麻布に包み、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

律法にしたがって休んだ安息日の翌日、つまり週の初めの日(日曜日)の早朝、前の晩買っておいた油を塗るための香料を持って、 女たちは墓に行った。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメたちである。イエスの母マリアはなぜか同行していない。 墓の入口の大きな石はわきへ転がされていて、なかにイエスの遺体はなかった。洞窟に白い長衣をきた若者がいて、 イエスは復活して先にガリラヤへ行った、と女たちに告げたのである。

168婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、 正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(『マルコ伝」16:8)

『マルコ伝』の最も古いテキストのいくつかは、ここで、つまり16章8節で終わっている そうである ✽4。 私の『イエス伝』もここで終わることにします。復活のイエスに会う情景は、どの福音書もとってつけたように リアリティがない。復活は信仰上の問題である。復活の有無がイエスの神性の証しだとは思わないし、 信仰の証しだとも思わない。イエスの出現自体が、今も、人類史上の奇跡のようなものである。

確かにイエスは、天の国のぶどうを摘み、そのパンを食べた人なのである。


✽1『マルコ伝』では「紫の服」(15:17)、『マタイ伝』 では「赤い外套」(27:28)、『ルカ伝』では「派手な衣」、『ヨハネ伝』でも「紫の服」(19:2)になっている。
✽2『ヨハネ伝』には「イエスは、自ら十字架を背負い」 (19:17)と書かれており、共観福音書にはどれにも、キレネ人のシモンに十字架を運ばせた、と書かれています。 キレネは地中海を挟んでギリシャの対岸、リビアに隣接するアフリカ北部の港町で、当時は大都市であったが、 エルサレムから見れば田舎と思われていたのだろう。シモンは通りすがりにローマ兵の目に留まったのであるが、 多分身体が大きくて、筋骨たくましかったのだろう。
大勢の人たちが見ていたのに、どうしてこのように違った記録になるのでしょう。
✽3『マルコ伝』15:43。
✽4New Revised Standard Version の脚注。
Some of the most ancient authorities bring the book to a close at the end of verse 8. One authority concludes the book with the shorter ending; others include the shorter ending and then continue with verses 9-20. In most authorities verses 9-20 follow immediately after verse 8, though in some of these authorities the passage is marked as being doubtful. (訳―いくつかの最も古い写本は、8節で終了している。ある写本は、続いて短い終章をつけて終わりにしている。 他の写本は短い終章を含み、さらに9節-20節まで続けている。ほとんどの写本で、8節からすぐ9節-20節へ続けているが、 それらの章句は疑わしいと注記している写本もある。)
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公開日2009年11月8日