イエスの一行は、ガリラヤ湖沿岸の町々を中心として、ガリラヤ地方一帯を歩いて宣教の旅をしていました。ガリラヤはおよそ 四十キロメートル四方にすっぽり収まるくらいであるから、それほど広い地域ではない。一日行程の先々で町や村はあったと 思われます。しかしイエスの一行は十二人の弟子たちのほかに、数人の婦人たちも一緒だったから、 かなりの大所帯であった。これらの大人数が一度に宿泊できるところは、相当の有力者の家でなければ 難しかったでしょう。普通の庶民の家では宿泊は困難だったと思われます。婦人たちは何らかの縁でイエスを信奉していた 人たちで、食料を調達したり衣類を洗濯したりして、イエスの一行の身の回りの世話をしていたと思われます。 そして婦人たちも、イエスの説教を弟子たちと一緒に、少し離れた処で聞いたことと思います。
81すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、 その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、 七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。 彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(『ルカ伝』8:1-8-3)
福音書には同行した婦人たちの話は、名前以外にはほとんど書かれておりません。上記の他には、ヤコブとヨハネの母マリアと サロメの名が挙がっています。自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたと書かれておりますので、 婦人たちはもちろん自ら進んでイエスの一行についていったようです。後にはイエスの母マリアも、婦人たちの仲間に加わっています。 そして婦人たちは、最後までイエスについてゆき、ゴルゴタの丘で十字架刑になったイエスを遠くから見守っているのである。 そのとき弟子たちはイエスの逮捕に恐れをなして、エルサレムのどこかの家に鍵をかけて隠れていましたので、 イエスの処刑に立ち会ったのは、婦人たちだけでした。イエスが十字架刑に架けられ埋葬されたのは、 安息日の前日でしたが、安息日が明けた早朝にイエスの墓に香料を持って尋ねたのも婦人たちですし、 入り口の石が移動されてイエスの死体が無くなっており、イエスは復活したと告げられたのも婦人たちに対してでした。 ヨハネでは、イエスの最初の復活の姿がマグダラのマリアに現われます。そう考えれば、婦人たちを抜きにイエスの 生涯を語ることは出来ないことになります。
ところで、イエスは最後まで母マリアに対してよそよそしいのである。ヨハネにのみ次のような最後の場面がある。
1925 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 (『ヨハネ伝』19:25-27)
痛ましい情景である。婦人たちのなかに、母マリアが息子の死刑に立ち会っていたのである。しかしこの時になってもイエスは母に、 「婦人よ」といって呼びかけます。実によそよそしい言い方ですが、 原語が分からないのでこれが母と子の一般の言葉使いなのかどうか分かりません。しかしイエスが、アラム語で親しい 関係を表す「アッバ父よ」 ✽1と言って、神との関係を親密な父と子の関係に擬していることに比べれば、 誠につれない呼びかけです。しかしこの最後の場面で、イエスはひとりの弟子に、母マリアの面倒を見ることを託しています。 このあたりにイエスの人間的側面がうかがわれます。 またこの記述からすれば、他の弟子たちは累が及ぶことを恐れて隠れ家にこもっていたが、 弟子たちのうち「愛する弟子」と呼ばれる一人はイエスの最後に立ち会ったことになります。誰かは分かりません。 イエス亡き後、弟子たちはユダヤ教ナザレ派ともいうべき教団をエルサレムに作りました。母マリアとイエスの兄弟は、 その教団でイエスの信奉者たちと一緒に生活をしています ✽2。他の婦人たちも、共同生活に加わっていたと思われます。
公開日2009年8月26日
更新2010年2月2日