イエスの言動を見ていると、カリスマ性があり、忍耐強く、勇敢で、話し方は上手で、内容は変化に富んでおり、甲高い声はよく通り、 人の痛みに感じ易く、豊かな感性を内に包んでいるが、同時に激しやすい気性をもっていたように思われます。 よく通る甲高い声というのは、福音書のどこにも書かれていないが、イエスは屋外で集まった群衆に語ることが多く、 小高い山の上から、あるいは湖岸に集まった人々に船の上から説教しているから、そのように想像していいでしょう。 屋外で説教するには、声が遠くの群集にまで届いている必要があります。イエスの激しやすい気性というのは、 ファリサイ派の祭司たちに対するイエスの批判の激しさに表れています。イエスは特に偽善的なものに激しい憤りを 感じ、口を極めて罵倒している。一方イエスは、純真なもの、素朴なもの、正直なものを好んでいるのである。幼子(おさなご)、 野の百合、わずかなお金だが精一杯の額を献金する女性、素朴で信仰心の厚いものたち等々です。
イエスの宣教は、大成功のように思われた。行く先々で人々は群がり集まって来た。イエスは説教をし、多くの病人を治した。 弟子たちも宣教に出したし、その反応もよかった。しかしイエスは、これまでの宣教の旅で訪れた町や村の人々のことを考えると、 次第に苛立ってくるのを感じていた。 ガリラヤの町や村を巡り、人々は集まり、一見成功しているように見えても、イエスの一行が次の町へ行ってしまうと、 人々は何事もなかったかのように、また元の生活にもどってしまっている。イエスが説いた証しはどこにも残っていない。 その痕跡すらも残っていないように思われた。このような事態に、イエスは苛立ちを感じ始めるのである。 イエスは、自分の福音を聞いた村や町の人々は、ただちにそれを信じ、悔い改め、「天の国」を待望する ようになると思い込んでいたようです。ところで、そのような悔い改めと天の国を待望する生活が、この地上の日常のなかで どのような生活になるのか、イエスは何も語っていない。イエスが人々の生活にどんな変化を期待していたか、 それは分からない。イエスの福音を聞いた後も、人々は相変わらず昨日までのように、今日もまた同じ生活を繰り返していたのである。 イエスは苛立ち、怒りはじめるのであった。
1120それからイエスは、数多くの奇跡の行われた 町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。21「コラジン、お前は不幸だ。 ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、 これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。22しかし、 言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。23また、 カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。 お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、 お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(『マタイ伝』11:20-11:24)
イエスは腹に据えかねて、怒り狂っています。これ以上ないほどの罵詈雑言を浴びせています。その罵りの言葉も 大変激しいものです。イエスの宣教は、実際はどうだったにせよ、民衆の生活を変えるまでは浸透していない、つまりその町や 村の住人たちは自分を信じていない、とイエスが見ていることが分かります。イエスが順番に槍玉に上げているコラジン、 ベトサイダ、カファルナウムともガリラヤ湖の 北岸に位置する町で、コラジンは福音書では初めて名前が出てくる町であるが、ベトサイダは何度もイエスは行っており、また ペトロやアンデレの出身地でした。カファルナウムはイエスが最初に説教しそして拠点とした町である。 いずれもイエスはよく行って何度も宣教した町と言っていいでしょう。これらの町々をことごとく罵っている。「お前は不幸だ」 (「わざわいだ」口語訳・「禍害なる哉」文語訳・ "Woe to you" NRSV)と穏やかに訳されているが、 これはイエスの激しい罵りの言葉である。またティルスとシドンは旧約時代から地中海に面して交易で栄えた港で、 ユダヤとの境に接した異邦人の地である。イエスもひっそりと行っている。神がユダヤの民のために復讐を誓った町、 いわばユダヤにとって破壊すべき町なのである✽1。 またソドムはゴモラと共に「住民は邪悪で、 主に対して多くの罪を犯した」ゆえに、神に滅ぼされた町である✽2。 それらの町々よりも、この今、イエスが説いて悔い改めなかったコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町々の罪は 重いと言っているのである。これ以上の罵り方はないと言っていいでしょう。
イエスは、自分が福音を説いた処は、すぐにでもその地でその世代で、人々が「悔い改める」ことを期待していたようである。 しかしそのようなことは起こらなかった。イエスの思惑と、現実の生活をしている民衆の意識との乖離は大きかったのである。 イエスは自分の感情を隠さず、幻滅し、苛立ち、怒るのである。しかしこの福音はどうしても伝えて行かなければならない。
公開日2009年8月18日
更新11月23日