イエス伝

9 ナザレへ帰る

イエスは、カファルナウムを拠点としてガリラヤ湖周辺やガリラヤ各地の村や町をまわり、評判がガリラヤ全域に 広まっても、なかなか故郷のナザレに行こうとはしなかった。イエス自身、故郷ではうまくいかないのではないかと感じていたと 思われます。このあたりの感じ方や躊躇の仕方は、イエスの人間的側面を語っているように思われます。 ナザレに行くことを、あえて避けていたようにも感じられます。しかし何故か、一度はナザレに行かなければならない、とイエスは 思っていたのである。そしてある時、意を決して、イエスは弟子たちを連れて故郷の村に行くのである。 その時の状況は次のように記されている。

6 1イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、 弟子たちも従った。2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、 驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような 奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの 兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことが おできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(『マルコ伝』6:1-6:6)

ナザレの村人たちはどう思ったであろうか。かっては互いに助け合って生活し、安息日には村の会堂で共に祈り、 一緒に野良仕事に精を出し、交代でぶどう畑や牧草地で働いたイエスとは全く別のイエスを、 もう自分たちの仲間ではないイエスをそこに発見するのである。 イエスの説教に感心しながらも、何をえらそうなことを言っているんだ、俺たちの仲間だったではないか、 という思いが村人たちの胸のうちを占めていた。うわさの通り、悪霊があの男に取り付いているのだ、と思った村人もいた と思う。いずれにしても、一緒にここで生活した昔のあのイエスではない、どうして突然このように人間が変わることが出来ようか。 こうして結局は、村人たちはイエスに腹を立てることになるのである。 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という言葉も、イエスには珍しく 言い訳がましく聞こえてくる。ルカでは、イエスは町はずれの山の崖まで連れて行かれて、 突き落とされそうになっている✽1

イエス自身は、ナザレの村人たちのこのような反応を、実際どのように感じていただろうか。ナザレではイエスは文字通り 人の子であった。


✽1 『ルカ伝』4:29
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公開日2009年8月5日
更新11月23日