HOME | 源氏物語 目次 |
---|
夕霧巻の巻末は、夕霧が子沢山で、雲居雁との間に七人、藤典侍との間に五人、計十二人の子供たちに恵まれていることを記す。落葉宮をめぐっての家庭争議も、多くの子供たちを儲けた二人の妻たちとの間には、畢竟決定的な亀裂を生ずるには至らないことを証するかのごとくである。光源氏との間に子をなし得なかった紫の上の場合とは、本質的に異なる結果となるのは言うまでもない。安定した血の系譜を誇るがごとく、夕霧の子女たちが列挙されるのである。
この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまける。 内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。 (夕霧39.45)この部分、諸本によって異文があるが、代表的な形で示せば、河内本と別本では、大君を雲居雁腹とし、四郎君と五郎君の母を反対にして、四郎君を雲居雁腹、五郎君を藤典侍とする点でで青表紙本と対立する。河内本などが大君を雲居雁腹としたのは、春宮妃が典侍腹の姫君となるのを避けたためであろう。一理ある考えである。四郎君と五郎君の問題は、竹河巻の記述と関連させて後述する。
ところで、この夕霧の子供たちであるが、春宮妃の大君、二宮妃の中君、匂宮と結婚する六の君などの女子に比べると男子はやや影が薄い感が否めない。唯一の例外は、竹河巻で玉鬘大君に求婚する蔵人少将であるが、この人物を除くと、他の兄弟たちは、匂宮3帖、宇治十帖を通して、点景的な人物として描かれることがほとんどで、官暦なども不分明な所が多い。兄弟の長幼なども、どの官職に任じられているのが何番目のこどもであるのか分かりにくいものが多い。註釈書などによっても意見が対立しており、この問題について整理してみたい。紙幅の関係もあり、重要と思われる次の三点を中心にして考える。
1 匂宮巻巻末に出てくる兄弟の人数と年齢の順番について。
2 竹河巻の蔵人少将は何男か、他の兄弟との人間関係はどうか。
3 椎本巻巻頭の五人の兄弟の順序や官職は、1 2 とどう関わるのか。 まず、匂宮巻の記事から考えてみたい。
御子の衛門督、権中納言、右大弁など、さらぬ上達部あまたこれかれに乗じまじり(匂兵部卿42.10)これは、匂宮巻末の六条院の賭弓の還饗の場面である。ここでは夕霧の三人の子供たちの官職が示されている。この場面は年立の上では67年夕霧の最初の子供の誕生は39年であるから、年齢と官職のバランスから考えて、これは夕霧の太郎、二郎、三郎と見るべきであろう。猶、後述するが、三男までであることは、必ずしも兄弟の年齢順に書かれていることを意味しない。因みに、若菜下の46年に、朱雀院の五十の賀で夕霧の子の三人が揃って楽人を務めているから、この三人は年齢が極めて近いことは間違いない。藤典侍腹の二郎を挟んで太郎から三郎まで一つ違いぐらいであろうか。猶、ここでの夕霧の子三人が列挙されていることから、匂巻のこの場面では、若菜下巻の朱雀院の賀の記述がどこかで意識されていたと思われる。 この夕霧の子供たちは、どう理解されているであろうか。最新の注釈書である、小学館の新編全集を見ると、頭註では「夕霧の子息たち」と注するのみであるが、巻別の系図では、衛門督と右大弁の母を雲居雁とし、権中納言の母を藤典侍としている。上述の夕霧巻末の記事では、二男が藤典侍腹であったから、匂宮巻の衛門督以下の三人は、順番も、長男、二男、三男の順と一致すると考えているようである。一応常識的な解釈といえよう。旧版全集、岩波大系、新大系、朝日全書等の巻別系図でも、いずれも同じ立場を取る。実は、この淵源は古註釈に見られ、『岷江入楚』の段階になると、「御子の衛門督、権中納言、右大弁」の部分に「嫡男、母三条上、二男、母藤典侍、三男、母三条上」とそれぞれ傍中の形で記している。このような中で唯一の例外が、新潮社の古典集成である。ここでは権中納言を三男とし、官職の序列と兄弟の長幼とを、一致させないのである。能吏のイメージの強い右大弁(おそらくは頭弁か、又は参議の兼任であろう)は、祖父惟光の血を引く二男の方が相応しいとの判断であろうか。年齢が極めて近いのであるから、雲居雁腹の三男が、藤典侍腹の二男を越えることも不自然ではない。更に推測すれば、右大弁を二男としたのは、次の椎本巻の記事との整合性を」重視したことによるものであろう。
椎本巻は、匂宮が初瀬詣ででの帰途、宇治に中宿りする場面から始まるが、その御供として夕霧の子息たちの名前が列挙されている。
御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。(椎本46.1)
以上の矛盾を完全に解決する方法が皆無ではない。それは。『湖月抄』や『対校源氏物語新釈』の傍注に見られるものである。『湖月抄』では匂宮巻の「御子」の横に「夕霧の君達也」と傍注したあと、二人目の「権中納言」の横に、「青表紙ニハナシ」と記すのである。
問題は、「権中納言」の部分を欠く『源氏物語』の伝本が、実際はほとんど現存しないことである。『源氏物語大成』を検するかぎり、「衛門督、右大弁」となっているのは、三条西家本(所謂三条西家証本、現日本大学蔵)のみである。この状況は、『大成』に取られていない青表紙本」の重要写本である。書陵部蔵三条西家証本、穂久〇文庫本、細川幽斎本、伝伏見本などを視野にいれても変わらない。また、河内本や別本にも「権中納言」の部分を欠く証本は見当たらない。結局、『湖月抄』がここでいう「青表紙本」の本文は青表紙本系統の中でもごく一部の、三条西家本に近い伝本に特有のものであったといえよう。もっとも近世初期にはこの系統の本文は比較的流布していた可能性もあり、『万水一露』の寛文三年版の坂本では「衛門督、右大弁」となっている。三条西家周辺の源氏物語の伝本研究が更に進めば、同様の本文を持つものが多少現れる可能性が残ろうが、総伝本数に占める比率の決定的な低さや、室町初期以前にさかのぼる伝本に全く見られないという点は大きな弱点であり、直ちにこの本文に拠るのは問題があろう。
結局、匂宮巻の記事は、新編全集などのように順番に長男から三男と考えても、三条西家証本のように「衛門督、右大弁」の二人とするのも、なんらかの形で弱点があるのであり、完全な解決策は見いだせない。ここで目を転じて、もう一つの問題である竹河巻について考えてみたい。
竹河巻では、夕霧の子息の蔵人少将が、玉鬘の大君に求婚する主要人物の一人として描かれている。
「右の大殿の蔵人少将とかいひしは、三条殿の御腹にて、兄君たちよりも引き越し、いみじうかしづきたまひ」(竹河44.3)と紹介される。「兄君たちよりも」云々に符合する記述はこれ以前の巻にはないが、雲居雁腹となると、夕霧巻末の記事からすれば、夕霧の五男か六男が該当する可能性があろう。事実、新編全集では「夕霧の五男もしくは六男」と注する。蔵人少将が大君に求婚するのは、年立上は62年頃のことである。『源氏物語事典』(東京堂)では19、20歳とするので、43、4年の生れとなり、同腹の長兄とは4、5歳程度年下になる。この人物は後に「少将なりしも、三位少将かいひておぼえあり」(竹河44,26)「三位の君は宰相になりて」(竹河44.27)と昇進する。宰相中将の竹河巻末は、蔵人少将として紹介されてから約8年後のことである。蔵人少将、三位中将、宰相中将という閲歴は、母方の祖父であり、父方の大伯父でもある致仕太政大臣(頭中将)とほぼ重なり、蔵人少将が両親の寵愛を受けていることの間接的な証左ともなろう。
ところで、竹河巻の冒頭近くで、夕霧が6人の子供を連れて玉鬘を年賀の訪問する場面が描かれているが、この巻で具体的に名前が挙げられる夕霧の子は、蔵人少将のほかに、源少将、兵衛佐の二人がいる。大君が冷泉院に参院する時、夕霧は子息の「源少将、兵衛佐など奉れたまえり」と記されている。この二人と蔵人少将の年齢関係はどうなろうか。新編全集では「蔵人少将の兄たち」と注す。前引きの「兄君たちよりもひき超し」と結びつけての解釈であろう。ところが、新編全集の巻別系図では、この二人を雲居雁腹ではないとしているから、夕霧巻末の記述で言えば、藤典侍腹の二郎と四郎とになってしまう。比較的年齢が近い四郎はともかくとして、五郎とか六郎にあたる蔵人少将が二郎まで官職の上で越えてしまうと、二郎の地位が著しく低くなってしまうから適切ではない。匂宮巻の巻末の記事では、二郎は権中納言か右大弁であったから、あまりにも大きな矛盾である。この二人をともに蔵人少将と異腹とする必要はないであろう。古註釈でも『岷江入楚』は兵衛佐を「四位少将、母雲居雁、蔵人兵衛佐ト椎本にいひし人」としている。現代の註釈でも、古典集成は兵衛佐を雲居雁の六男と見ている。この二人の母親が誰であるかという問題はさて置くとしても、この二人を兄であるとすれば、蔵人少将は五男とはなりえないのではないか。五男であれば、必然的にこの二人は三男か四男あたりとなり、藤典侍腹の四男はともかくも、雲居雁腹の三男が近衛少将では、年齢に比べて官職が低くなりすぎる。このふたりを「蔵人少将の兄たち」とするのであれば、この二人を蔵人少将の兄または弟とすべきであろう。
明快な立場を取るのが、古典集成である。蔵人少将初出の部分では「正五位上相当」と注する程度であるが、源少将と兵衛佐のところでは、「源少将は、四男(藤内侍腹)であろう。兵衛の佐は従五位上相当。名門の子弟がなる。六男」と極めて具体的な説明な説明がある。更に、巻末系図では、源少将を四男、蔵人少将を五男、兵衛佐を六男と規定する。このような形にすると、夕霧の子供のイメージが鮮明になる。四男と五男ははともに近衛少将(左右は不明だが)であるが、雲居雁腹の五郎は更に五位蔵人を兼任して、藤典侍腹の兄の四郎より一歩先んじている形である。この後、頭中将を経て(これだけは本文に記されていないが)三位中将、宰相中将と進んだと考えられようか。一方兵衛佐を六男とする考え方であるが、これは二つの点においてすぐれている。一つは、兵衛佐から近衛中将に進のが十一世紀初め頃のもっとも一般的なコースであったから、蔵人少将、源少将の二人の兄弟より年少であるのは極めて自然であるという点である。今一つは椎本巻頭の記述であるが、そこで示されていた兄弟五人の官職のうち、最も低いのが「蔵人兵衛佐」であった。恐らく竹河の時点では年少で、元服直後の兵衛佐といったあたりで、近衛の官職はそのままで位階が多少進み、やがて蔵人を兼任するに至ると考えればこれも納得いくのである。
もっとも、古典集成の考え方に弱点がないわけではない。それは、蔵人少将が「兄たちよりもひき超しいみじうかしづきたまひ」と記されながら、実際に官職で越えているのは、すぐ上の異腹の兄四郎だけだからである。この矛盾は最後まで残るものである。そのような矛盾を内包しつつも、古典集成の考え方は、椎本巻で記される官職との整合性において注目される。これも巻末系図の部分であるが、集成は「右大弁、侍従宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐」と列挙された官職と兄弟の長幼の順を同じものと考えず、権中将を五男、頭少将を四男とする。椎本巻末では、薫はまだ宰相中将で、この年権中納言に進むから、竹河巻の記事(「薫中将は中納言に、三位の君は宰相になりて)と照応させれば、この時点でかっての蔵人少将は三位中将である。したがって、「権中将」という呼称は矛盾しない。一方源少将と呼ばれていた兄の四郎は、この近衛の官職でが五郎に差をつけられたが、近衛少将としては異例の蔵人頭を兼任するという形で、地歩を進めているのであろう。猶、この部分七豪源氏では「頭中将」という異文を持つが、これが不適切であることは勿論である。
最後に、夕霧の巻の本文に戻りたい。四郎と五郎の母を逆にしている河内本と別本であるが、これは、竹河巻を同時に考えようとすると、相容れないものである。五郎が藤典侍腹であれば、蔵人少将が五郎であることはありえない。たとえ、六郎が蔵人少将でも、「兄君たちよりもひき超し」であれば、二人上の兄で同腹の四郎を官職で越えることになるので、これもむずしい。結局、四郎は藤典侍腹の方が穏当であり、五郎は雲井雁腹の方が妥当なのである
このように、夕霧の子供たちのその後の記述では、相互に矛盾する点が多い。特に、匂宮三帖と宇治十帖の記述では、相容れない点が多い。この三帖が、別作者、別構想とする説があるのも、故なしとしない。別筆説を取れば、少なくとも、夕霧の子供たちを考える上では、障害は格段に少なくなる。極めて魅力ある考え方であるが、早急には結論の出ない問題であるので、現在の形で、矛盾を最小限に食い止める読みの提出が必要であろう。矛盾が多い、と言いぱなしでは先に進まない。少なくとも、一つの巻の中での相互矛盾は極力解消すべきであろう。
HOME | 源氏物語 目次 |
---|