かかる筋のもの憎み 「かかる筋のもの憎み」は男女の仲の嫉妬。
やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど、浅はかならぬ方に、心とどめて人の隠し置きたまへる人を、物言ひさがなく聞こえ出でたらむにも、さて聞き過ぐしたまふべき御心ざまにもあらざめり (薫が浮舟を)表立って重々しい扱いはなさらないようだが、並々ならぬ御愛着で、あの方(薫)がこっそりお住まわせになっている人なのに、余計な口出しをして(匂宮に)お話したりすれば、そのまま聞き流しになる性分でもないので。
さぶらふ人の中にも、はかなうものをものたまひ触れむと思し立ちぬる限りは、あるまじき里まで尋ねさせたまふ御さまよからぬ御本性なるに 仕えている女房の中でも、一時の慰みで手をつけてみようと思い立たれたものはだれでも、身分柄困るような女房の実家にまで追って行かれる、体裁の悪い性分なのに、
よその人よりは聞きにくくなどばかりぞおぼゆべき (そうなれば、浮舟は血のつながった妹のことゆえ)赤の他人よりは外聞の悪いことだなどぐらいは思うことだろう。嫉妬の思いはさらさらない。
神のいさむるよりもわりなし 神様が禁じて逢えなくなる道よりももっと難儀な恋路である。/「恋しくは来ても見よかしちはやふる神のいさむる道ならなくに」(『伊勢物語』七十一段)を踏まえる。歌意:恋しいのなら来てごらんなさい。恋は神様が禁止なさるものでもないのだから。ある男が伊勢の斎宮の御殿に勅使として参上した。その御殿で女房と色好みの話をした。 歌は女房が詠んだ「ちはやぶる神の斎垣も超えぬべし大宮人の見まくほしさに」に対する男の返歌。
古典和歌サイトより。
渡すべきところ思しまうけて、忍びてぞ造らせたまひける
(薫は浮舟を)京に移すべき所をお心積りなさって、こっそりとその所を用意するのだった。
さばかり月日を経て、思ししむめるあたりは、ましてかならず見苦しきこと取り出でたまひてむ これほど月日が経つのに、深く執着しているのだから、女房どころか必ず不体裁なことが起きるだろう。
異ざまにつきづきしくは、え言ひなしたまはねば (そうかといって)ありもしない嘘をついても、もっともらしく言いつくろったりできないので。
さて、しばしは人の知るまじき住み所して、やうやうさる方に、かの心をものどめおき、わがためにも、人のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ そんな具合にして、当分の間は人に知られないような所に住まわせ、次第にそいうものだと、浮舟の気持ちも気長になるように仕向けておいて、そうしばしば会える間柄でないと浮舟を納得させて(新潮)/ しばらくの間は誰も知らない住処で、だんだんとそのようなことで、あの女の気持ちも馴れさせて、自分にとっても、他人から非難されないように、目立たぬようにするのがよいだろう
(渋谷)
まだ古りぬ物にはあれど君がため深き心に待つと知らなむ まだ年経ぬ松でございますが、若君のおんために、深い心を込めて、千代のお栄えをご期待申し上げている心をお汲み取りください(新潮)/ まだ古木にはなっておりませんが、若君様のご成長を心から深くご期待申し上げております(渋谷)
亥子の時 亥(い)の時は、午後九時から十一時、子(ね)の時は午後十一時から午前一時までをいう。
京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば 京の中でさえ、まるで宮とは知られない忍び歩きは、いくら好色でもできない身の上なので、馬で出かけるのも、何となく恐ろしく気が咎めるが、女にかけては人一倍好奇心が強いので。
いかめしうののしりたまふなれど ご大層に大騒ぎして(匂宮の)婿扱いをしていらっしゃるようですが。夕霧の娘六の君との結婚のこと。
仲信 仲信は、薫の家司。大蔵の太夫、大内記道定の舅。その名を聞いて、右近はすっかり薫と思い込む。
今日、御迎へにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御ことにか 母と初瀬詣でに行く予定で、その車が迎え来ることを言っている。
勘へたまふことどもの恐ろしければ 「勘ふ」(叱り責める)の「ウ」表記。あなたのお叱りが恐ろしいので。
大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ 夕霧大臣のの姫君(六の君、匂宮の正室)の女盛りの美しさのそばに並べたら、お話にもならないほどの人なのに、今はもう夢中になっていらっしゃるときなので、「まだ出会ったことのないすばらしい女」とご覧になる。/ 「こよなかるべき」「こよなし」(よい場合にも悪い場合にもいう)
長き世を頼めてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり 二人の仲は末長くと約束しても、やはり悲しいのは、ただ人の命は明日をも知らぬはかないものだからなのです(新潮)/ 末長い仲を約束してもやはり悲しいのはただ明日を知らない命であるよ(渋谷)
心をば嘆かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば人の心を変わりやすいものと悲しんだりしないでしょうに、命だけが移ろいやすいこの世と思うのでしたら(新潮) /すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて 心変わりなど嘆いたりしないでしょう命だけが定めないこの世と思うのでしたら(渋谷)
すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて 何のかかわりもないはたの者まであたふたさせて。時方自身のこと。「眷属」(渋谷)→「顕証」(はたから見ること)(新潮)
まことに、いとあやしき御心の、げに、いかでならはせたまひけむ。かねて
かうおはしますべしと承らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを ほんとうに、何とも困ったご料簡は、一体どうしてそんなお癖がおつきになりましたのやら。早くからこうしてお越しあそばすと承っておりましたにしても、何分恐れ多いことですから、よしなにお取り計らい申し上げたでしょうに。無鉄砲なお出かけでしたこと(新潮)/ ほんとうに、とても困ったご性質で、おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多いことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。無分別なご外出ですこと(渋谷)
さるべきほどとは言ひながら 親しいのは当然の叔父甥の間柄とはいえ。
世のたとひに言ふこともあれば、待ち遠なるわがおこたりをも知らず、怨みられたまはむをさへなむ思ふ あなた(浮舟)を放っておいた自分(薫)の失態も棚に上げて、
あなたが)恨まれなさるのまで心配だ(新潮)/ 世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります(渋谷)/ 世間の譬えにも、自分のことは棚に上げてと言うように、待ち遠しく思わせた大将自身の怠りは問わないで、女の方が恨まれるであろうことも気になる(円地)/ それからまた男は身勝手で自己の不誠意は棚たなへ上げて女の変心したのを責めるものだというから、自身の愛の足りなかったことは反省せずに、あなたが恨まれることになりはしないかということまで心配されますよ(与謝野)
世に知らず惑ふべきかな先に立つ涙も道をかきくらしつつ またとなく、踏み迷うことだろう、悲しみにくれる私の先に立つ涙ーまず流れ出る涙も、道をかきくらし見えなくするので(新潮)/ いったいどうしてよいか分からない先に立つ涙が道を真暗にするので(渋谷)
涙をもほどなき袖にせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ 涙さえ、人数ならぬ身の私の狭い袖にせき止められませんのに、どうして宮様をお引き止め申すことができましょう(新潮)/ 涙も狭い袖では抑えかねますのでどのように別れを止めることができましょうか(渋谷)
御ありさまはいととく変はりなむかし。人の本意は、かならずかなふなれば あなたの身の上はすぐ変わってしまうのでしょうね。私の死後は薫と結ばれるのだろう、という。人の一念は必ず叶うということですから。
ものはかなきさまにて見そめたまひしに、何ごとをも軽らかに推し量りたまふにこそはあらめ。すずろなる人をしるべにて、その心寄せを思ひ知り始めなどしたる過ちばかりに、おぼえ劣る身にこそ 正式の婿入りという形ではなく私の元へお通いになるといういきさつだったため私を軽々しく振舞うと推し量りなさるのだろう(新潮) /
最初からしかるべき儀式もなしに縁を結んだので、何ごとにつけても自分を軽々しい者と推し量っていらっしゃるのであろう(円地)/ ちょっとした関係で結婚なさったので、どんなことも軽い気持ちで推量なさるのであろう。縁故もない人を頼みにして、その好意を受け入れたりしたのが過ちで、軽く扱われる身なのだ(渋谷)
異ざまに思はせて怨みたまふを 他のこと(薫のこと)に思わせて宮が恨み言を言うので、
恥づかしげなる人なりかし。わがありさまを、いかに思ひ比べけむ
とても太刀打ちできない人柄だ、私のような者を(薫と)見比べて(浮舟は)何と思ったことだろう。薫を送り出したあとの匂宮の思い。
右近が古く知れりける人の、殿の御供にて尋ね出でたる、さらがへりてねむごろがる 私(右近)が昔付き合っていた人が、殿様(薫)のお供で来ているうちに私を見つけ出したものですから、また蒸し返して口説いて来るのです。自分の昔の恋人の手紙を受け取っている体に言いなす。
あやしううつし心もなう思し焦らるる人を、あはれと思ふも、それはいとあるまじく軽きことぞかし 不思議なほど夢中になって恋焦がれなさる方を、いとおしく思うのも、それは本当に道に外れた軽はずみなことだ。
造らする所 今造らせている邸は。浮舟を引き取るために新築中の京の家。「わたすべきところおぼしまうけて、忍びてぞ造らせたまひける」とあった。
御心ばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか あなたのお気持ちが、こんなふうではなく大らかだったので、私も落ち着いていられてうれしかったのです。薫の訪れが間遠なので泣くと思ったのである。
宇治橋の長き契りは朽ちせじを危ぶむ方に心騒ぐな あの宇治橋のように末長い二人の契りは口はしないでしょうに、不安に思って心配なさるな(新潮)/ 宇治橋のように末長い約束は朽ちないから不安に思って心配なさるな(渋谷)
絶え間のみ世には危ふき宇治橋を朽ちせぬものとなほ頼めとや 宇治橋は板の絶え間がありますのに、ーお出でが途絶えがちなので、わたしたちの仲はどうなるのかと心配でなりませんのに、それでも朽ちないもの、尽きぬ縁だと頼みにせよとおっしゃるのですか(新潮)/ 絶え間ばかりが気がかりでございます宇治橋なのに朽ちないものと依然頼りにしなさいとおっしゃるのですか(渋谷)
闇はあやなし さながら「闇はあやなし」といったお身の香りやお振舞いで。薫の生得の芳香をいう。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」ー春の夜の闇は効いのないものだ、梅の花色こそ見えないにしても香は隠すことができない(『古今集』巻一春上、凡河内躬恒)
衣片敷き今宵もや 「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」(『古今集』巻十四恋四、読み人知らず)橋姫に浮舟をよそえる気持ち。
かばかりなる本つ人をおきて、我が方にまさる思ひは、いかでつくべきぞ これほど思ってくれる初めからの男(薫)をさしおいて、私の方に勝る愛情をどうして持てるはずがあろうか。
年経とも変はらむものか橘の小島の崎に契る心は 年がたっても変わったりはしない、変わらぬ緑の橘の小島で約束する私の気持ちは(新潮)/ 何年たとうとも変わりません橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは(渋谷)
橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ 橘の小島の色ーお約束してくれるお心は変わらないでしょうけれど、この浮舟のような私はどこへ行きますことやら。巻名、人物の呼称の出所となった歌(新潮)/ 橘の小島の色は変わらないでもこの浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら(渋谷
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峰の雪みぎはの氷踏み分けて君にぞ惑ふ道は惑はず 峰の雪や水際の氷を踏み分けて、難儀しながらやって来ましたが、それもあなたに迷ってのこと、道には迷いませんでした(新潮)/ 峰の雪や水際の氷を踏み分けてあなたに心は迷いましたが、道中では迷いません(渋谷)
降り乱れみぎはに凍る雪よりも中空にてぞ我は消ぬべき 降り乱れ水際に凍てついてしまう雪よりもはかなく、私は空の中途で消えてしまうことでしょう(新潮)/ 降り乱れて水際で凍っている雪よりもはかなくわたしは中途で消えてしまいそうです(渋谷)
木幡の里に馬はあれど
「山科の小木幡の里に馬はあれど徒歩よりぞ来る君を思へば」(『拾遺集』巻十九雑恋、題知らず、人麻。原歌は『万葉集』巻十一)
あながちなる人の御ことを思ひ出づるに 前後の見境もなく恋焦がれなさるお方(匂宮)のことを思い浮かべると。「あながちなる」①強引だ、無理矢理だ、一方的だ、身勝手だ。②一途である、ひたむきである、熱心である。③むやみに、異常なまでに、強いて。④必ずしも、一概に。
眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るるころのわびしさ あなたのことを思って眺めやる宇治の方の雲も見えないほど、わが心のみか空まで暗い長雨のこの頃のつらいこと(新潮)/ 眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです(渋谷)
いとかかる心を思ひもまさりぬべけれど、初めより契りたまひしさまも、さすがに、かれは、なほいともの深う、人柄のめでたきなども、世の中を知りにし初めなればにや、かかる憂きこと聞きつけて、思ひ疎みたまひなむ世には、いかでかあらむ (格別考え深いというのでもない浮舟の到らぬ心には)本当にこんな思い詰めた気持ち(匂宮のお手紙)には、恋心も一段とつのりそうではあるが、はじめての時から、行く末長くとお約束なさった態度も、さすがに、あちら(薫)はやはり思慮深く、人柄が立派だと思うのなども、男女の仲を知った最初の相手だからだろうか。
あやしかりし夕暮のしるべばかりにだに、かう尋ね出でたまふめり
まるで夢のようだった夕暮れの出来事を手掛かりにしてでも。二条院で、匂宮が浮舟に近づいたことをいう。
女宮に
女二宮。薫の正室。
水まさる遠方の里人いかならむ晴れぬ長雨にかき暮らすころ 川水も増す遠い宇治のあなたはどうしていることだろう、晴れぬ長雨にに私も物思いに閉ざされて過ごすこの頃は(新潮)/ 川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか晴れ間も見せず長雨が降り続き、物思いに耽っていらっしゃる今日このごろ(渋谷)
里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住み憂き 宇治ー憂しと響く里の名を、私の身の上を言うのだと思うと、その宇治の地に住むのはいっそうつらく思われる(新潮)/ 里の名をわが身によそえると山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ(渋谷)
かき暮らし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身をもなさばや 空をかきくらし、晴れ間もない峰の雨雲に、どちらとも定めなくこの世を過ごすわが身をしてしまいたい(新潮)/ 真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように空にただよう煙となってしまいたい(渋谷)
混じりなば 煙となって大空の雲にまじってしまったら。「白雲の晴れぬ雲居にまじりなばいづれかそれと君は尋ねむ(『花月余情』出典未詳)
つれづれと身を知る雨の小止まねば袖さへいとどみかさまさりて 一人さびしく訪われることもないわが身のつらさを知る雨が止む間もありませんので、川の水かさがまさるばかりか、私の袖まで涙でいっそう濡れております。/ 寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので袖までが涙でますます濡れてしまいます(渋谷)
少将の妻 常陸の介の次女で左近少将の妻になった人。
さるべきことも思し入れたりしほどに 姉君のお立場として当然のご心配も、思いつめてお嘆きでしたあまりに。匂宮と中の君の結婚について心を痛めたこと。/ しかるべき事柄をお考えになっていた間に(渋谷)
大輔が娘の語りはべりし 大輔は中の君づきの女房。その娘の右近である。
あな、むくつけや。帝の御女を持ちたてまつりたまへる人なれど、よそよそにて、悪しくも善くもあらむは、いかがはせむと、おほけなく思ひなしはべる まあいやなこと。(薫は)帝の御娘を頂いておいでになる方ですけれども、(その女宮とは)別にご縁もないわけですから、お咎めがあろうとなかろうと(どうなろうとも)それはしかたのないことと、/ まあ、嫌らしいこと。帝のお姫様をお持ちになっていらっしゃる方ですが、他人なので、良いとも悪いともお咎めがあろうとなかろうと、しかたのないことと、恐れ多く存じております(渋谷)
よからぬことをひき出でたまへらましかば、すべて身には悲しくいみじと思ひきこゆとも、また見たてまつらざらまし (しかし匂宮とは実の姉の夫ですから)不都合なことをしでかしたら、たとえわたしにとってどんなに悲しくつらいお思うとも、もうお世話しないでしょう。親子の縁を切る、と言う。
かしこにわづらひはべる人も、おぼつかなし あちら(京の家)で寝ている人も心配です、お産の近い少将の妻のこと。
なほなほしき身のほどは、かかる御ためこそ、いとほしくはべれ 数ならぬ母の身では、こうして出世されたあなたに対して、何もしてあげられなくてお気の毒でなりません。/ 人数ならぬ身の上では、このようなお方のために、お気の毒でございます(渋谷)「なほなほし」(直直し)①普通である、平凡である ②劣っている、下品である。
かの少輔が家にて時々見る男なれば (相手が)あの少輔の家で時々会う下男なので、「少輔」は、大内記道定のこと。式部は少輔兼任している。
あなたに渡りたまひぬ あちらのお住まい。同じ六条院の東北の町。匂宮の正室六の君がいる。
さても、知らぬあたりにこそ、さる好きごとをものたまはめ、昔より隔てなくて、あやしきまでしるべして、率てありきたてまつりし身にしも、うしろめたく思し寄るべしや それにしても、私にかかわりのない女になら、そんな色ごとをしかけなさるのもよかろうが、昔から隔てのない仲で、普通では考えられないことに宇治へ案内したのに、そこで人を裏切ってよいものか。/ わたしに関わりのない女には、そのような懸想をなさってもよいが、昔から親しくして、おかしいまでに手引して、お連れ申して歩いた者に、裏切ってそのような考えを持たれてよいものであろうか(渋谷)
昔を思し出づるにも、えおはせざりしほどの嘆き、いといとほしげなりきかし 昔を思い出しになるにつけても、宮が中の君のもとにお通いになれなかった時のお嘆きは、本当においたわしいご様子だった。
ありがたきものは、人の心にもあるかな。らうたげにおほどかなりとは見えながら、色めきたる方は添ひたる人ぞかし。この宮の御具にては、いとよきあはひなり 難のない人はめったにいないというが、人の心とはそういうものではある。(浮舟は)表面いかにも可憐でおっとりした人柄とは見えながら、色めいたところはある人ではあった。匂宮のお相手としては、全く似合いの人だ、「具」は、身に添える物。
と思ひも譲りつべく、退く心地したまへど (浮舟を)譲ってもいい気がして、身を引きたい思いがなさるが、
やむごとなく思ひそめ始めし人ならばこそあらめ、なほさるものにて置きたらむ。今はとて見ざらむ、はた、恋しかるべし れきとした妻にする積りでかかわりはじめた女ならばともかく、やはり今まで通り心慰みの相手として置くことにしよう。匂宮の女でもよい、と思う。
人のため、後のいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ それが浮舟に取って、あとあとどんな気の毒なことになるか、格別深くもお考えにならないだろう。一時の寵を失ったあとの、浮舟の寄る辺ない身の上まで考えておやりになる。
さやうに思す人こそ、一品宮の御方に人、二、三人参らせたまひたなれ。さて、出で立ちたらむを見聞かむ、いとほしく そんなふうに一時愛された人を姉の一の宮方に二三人出仕させているということだ。浮舟がそんな目にあっているのを見るのはかわいそうだ。
道定朝臣は、なほ仲信が家にや通ふ 道定の朝臣(大内記)は、今でも仲信の家に通っているのか。仲信の娘との夫婦仲について問う。匂宮と女を張り合っているとは、あくまで隠したく、道定自身が浮舟に懸想していると思わせるための用意。
波越ゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな 私をおいてほかの人に心を移している、そんな頃だとも知らず、待っていてくれるものとばかり思っていました。「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(『古今集』巻二十東歌。読み人知らず)(新潮)君を忘れて私が浮気心を持ったなら、末の松山をも波が超えることでしょう、決してそんなことはありません。/ 心変わりするころとは知らずにいつまでも待ち続けていらっしゃるものと思っていました(渋谷)
いたくもしたるかな。かけて見およばぬ心ばへよ うまい言い逃れをしたものだ。今まで見たこともない機転だ。
殿はもののけしき御覧じたるべし 薫殿は事の様子をお気づきになったのでしょう。
ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさるもの思ひなるべし 生きていて間違いを起こし、世間の物笑いになるような有様で、つまらぬ生涯を送るのは、死ぬにまさるつらいことだろう。/ 「もて損なふ」(もては接頭語)そこなう。失敗する。
児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさまをも知る方すくなくて、思し立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし いかにもおっとりとして、たおやかな感じだが(表面はおとなしそうに見えるが、の意)高貴な姫君のように気位が高く、世情に通ずることも少なく(母君が)育て上げた人なので、少し乱暴なことを、考えついたのであろう。(新潮)/ 子供っぽくおっとりとして、たおやかに見えるが、気品高く貴族社会の様子を知ることも少なくて育った人なので、少し乱暴なことを、考えついたのであろう(渋谷)
心細きことを思ひもてゆくには、またえ思ひ立つまじきわざなりけり (一人で死出の道に旅立つのだと)心細いことを思い続けてゆくと、またそれは(身を投げることは)とても決心のつきかねることなのだった。
いづくにか身をば捨てむと白雲のかからぬ山も泣く泣くぞ行く どこに身を捨てようかと捨て場も知らない、白雲がかからない山とてない山道を泣く泣く帰って行くことよ(渋谷)/ (恋しい人にも会えないで、いっそ死にたいと思いながら)どこに身を捨てたのかも分からず、白雲のかからぬ山もない山道を、泣く泣く帰ってゆくことだ(新潮)
右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに 右近が、きっぱりと(匂宮との対面を)お断わりした旨を話しているところへ。
かの、心のどかなるさまにて見む、と行く末遠かるべきことをのたまひわたる人も あの、落ち着いた住まいでゆっくり会おう、と末長く変わらぬことをいつも約束してくださる方も。薫のこと。
嘆きわび身をば捨つとも亡き影に憂き名流さむことをこそ思へ 嘆き嘆いて身を捨てても亡くなった後に嫌な噂を流すのが気にかかる(渋谷)/ 悲しみ悩んだあげく、耐えきれずにわが身を捨てるにしても、亡きあとに情けない評判の残るのがたまらない。川に身を投げても、憂き名は濯ぐことができない(新潮)
からをだに憂き世の中にとどめずはいづこをはかと君も恨みむ 亡骸をこのつらい世に残さなかったら。どこを目当てに宮様もお恨みになれましょう(新潮)/ 亡骸をさえ嫌なこの世に残さなかったらどこを目当てにと、あなた様もお恨みになりましょう(渋谷)
後にまたあひ見むことを思はなむこの世の夢に心惑はで 後の世でまたお会いできるよう祈ってください、この夜の不吉な夢にお心を痛めないで(新潮)/ 来世で再びお会いすることを思いましょうこの世の夢に迷わないで(渋谷)
鐘の音の絶ゆる響きに音を添へてわが世尽きぬと君に伝へよ あの読経の鐘の音が消えてゆく響きに、私の泣く音を添えて、私が死んでいったと母に告げてほしい(新潮
)/ 鐘の音が絶えて行く響きに、泣き声を添えてわたしの命も終わったと母上に伝えてください(渋谷)/ 寺の鐘の音が消えてゆく響きに、私の泣き声を添えて、私の人生は終わったと、風よ母君に伝えておくれ
(
名歌鑑賞)
巻数 読経した経文の名や度数を書き付けて願主に送る文書。
公開日2021年3月11日