世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ 源氏は、朧月夜との密会のことで、弘徽殿大后の激怒をまねき、ついに謀反の罪をきせられて除名(官位の剥奪)された。その事実は、後文「さしてかく官爵をとられず、あさはかなることにかかづらひてだに」、「位なき人」から判明する。「これよりまさること」除名処分以上の罪、すなわち流罪。除名は流罪の準備段階とみられる。「あり経」で一語、月日を過ごす、生き長らえる。
人悪くぞ思し乱るるか 「人悪し」外聞が悪い。みっともない。
逢ふを限りに隔たりゆかむも 「我が恋は行へもしらずはてもなしあふをかぎりと思うばかりぞ」(古今巻12恋2 凡河内躬恒) この恋いこがれる思いは、どうなってゆくやらわからず、終わるときもない。あの人と会えば、それで終わりになると考えるだけだ。
いとつきなく きわめて不似合いで。
もの思ひのつまなるべきを 「つま」端緒。種。かえって心配の種になる。
後れきこえずだにあらば 「おくる」は、あとに残る。「きこゆ」は受手尊敬。/ 連れて行ってくれるなら。
入道の宮 藤壺中宮。
見たてまつり通ひたまひし 「たてまつる」は女君に対する受手尊敬。「たまふ」は、源氏についた敬語。なお、女が源氏を「見たてまつり」源氏が女の所に「かよひたまふ」と考える説もある。
心をのみ尽くすべかりける人の御契りかな 「心をのみつくす」「あらん限りの物思いをする」を強めて「のみ」がついた。「人の御契り」藤壺の宮の宿縁。源氏との運命。/
かねて 接尾語のように使われて、「以前に」の意。
人にいつとしも知らせたまはず 弘徽殿方が源氏の離京を知れば、たちまち流罪の決定に持ち込まれるおそれがあり、源氏は秘密裡に」離京しようとする。
いちはやき 反応が早い。許さない。お目こぼしがない。
みづからのおこたりになむはべる 「おこたり」は、怠慢、過失の意味だが、ここは前世からの身の不運、宿業のつたなさをいう。
あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは 「あさはかなることにかかづらひて」軽い罪科。軽い罪だったとしても。「かしこまり」④とがめをうけて謹慎すること。勘気。勘当。「うつしざま」②平気な様子。いつもと変わらぬさま。
世に思うたまへ忘るる世なくのみ 少しも心に忘れる時とてなく。(玉上)/ ひと時とて忘れる折もなく。(小学館古典セレクション)/ 「世に」(打ち消しの語を伴って)決して。さらさら。「世なく」この[世」は、時期、時(とき)、折(おり)。
かく齢過ぎぬるなかに 左大臣夫婦。左大臣は澪標巻に六十三歳とあるから、逆算すれば六十歳。
なづさひきこえぬ 「なずさう」なつく。まとわりつく。
なほさるべきにて 「とあることも、かかることも、前の世の報いにこそはべるなれば」とあったのを受けて「なほ」という。
人の朝廷にもかかるたぐひ多うはべりけり 「人の朝廷」中国をさす。「かかるたぐい」無実の罪で罰せられる類例。
言ひ出づる節ありてこそ 他人が言いがかりするだけの理由。
明けぬれば 完了の「ぬ」は、確実に予見できる未来にも用いられる。夜が明けてしまいそうだから。
有明の月 陰暦十六夜以降の月。夜明けに空に残っている。
さま変はりたる心地のみしはべるかな 「葵のましまさば、かようにとくは帰り給ふまじきと也」(孟津抄)
鳥辺山燃えし煙もまがふやと海人の塩焼く浦見にぞ行く 鳥辺山で亡き妻を葬った、あの時の煙に似ていないかと、海士の塩焼く須磨の浦を見に行くのです(新潮) / あの折の鳥辺山に燃えた煙に似通ってはいないかと、海人の塩を焼く煙を眺めに須磨の浦に出向いていきます。(小学館古典セレクション)鳥辺山に燃えたあの煙に似ているかと、海人の塩焼く浦を見に参ります。(玉上)
心苦しき人のいぎたなきほどは 「心苦しき人」若君、夕霧。「いぎたない」寝ている。「いぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまふべきを、さしたまはで」(孟津抄)
うたてはべるなる 「うたて」次に「あり」「侍り」「思ふ」「見ゆ」「言ふ」などの語を伴い、心に染まない感じを表す。嫌だ。どうしようもない。「なる」は伝聞。源氏から恋愛経験の富んだ女のように言われたので、別れのつらさは自分の経験ではなく、人から教えられたもののように、はぐらかして答える。侍女のたしなみ。
ただに結ぼほれはべるほど 「むすぼる」気がふさがる。心が晴れ晴れしない。
なまめかしうきよらにて 「なまめかし」は平安中期には、みずみずしい、洗練された美をいう。「きよら」は「きよげ」よりも一段高い高貴な清浄美。
亡き人の別れやいとど隔たらむ煙となりし雲居ならでは あなたが都を離れて須磨に行かれたならば、亡き娘との別れはいよいよ遠くなってしまうことでしょう、同じ煙とは申せ、娘が煙となって上がっていった都の空ではありませんもの(新潮) / 亡き人との別れはますます遠く隔たってしまいましょう。煙ととなって立ち昇った都の空の下をお立ち去りになるのでは。(小学館古典セレクション)亡きあの子との間は一そう遠くなりましょう、煙となったこの京の空でなくては。(玉上)/ 「雲居」⑤皇居のあるところ。みやこ。「都」の意をかねる。
台盤なども、かたへは塵ばみて、畳、所々引き返したり 「台盤」は食器を載せる長方形の台。侍所に置かれる。(板の間に敷いた)畳を、所々上げて、裏返してある。当時の住居は、畳を全部敷き詰めず、座る場所だけに置いた。
例の思はずなるさまにや思しなしつる あなたは、私がよその女の所に泊まったと嫉妬しておいでではないか、の意。(小学館)/ 御身(紫の上)は、例の如く、私(源氏)の考えもつかぬ状態(浮気心)で、女の所に宿った事に、私(源氏)を、敢えてお考えなされたか。(岩波)/ またおきまりで思いもかけない邪推をなさったのでしょう。(玉上)
父親王、いとおろかにもとより思しつきにけるに、まして、世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを 以下岩波の注釈から。父親王、(紫の上に)いと疎(おろか)にて、(紫の上は)もとより、(源氏に)おぼしつきにけるに、(父親王は)まして、世の聞こえをわづらはしがりて、(紫の上に)訪れきこえたまはず、(又源氏を)御とぶらひにだに(二条院に)渡りたまはぬを、(女房)人の見るらむことも(紫の上は)恥づかしく、中々、(源氏邸在住を父親王に)しられたてまつらで、やみなましを。// 父親王は本とに疎々(うとうと)しくて、この女君はもともと君になじんでいらっしゃったのだが、、なおさら近ごろはいっそう世間の噂を迷惑がってお便りもなさらず、お見舞いにさえお越しにならぬ有様ンあのを、女君は人の手前も恥ずかしくて、「なまじ、父宮に知られないままでいたほうがかえってよかったのに」とお思いになるが (小学館古典セレクション)。父親王とはずいぶん縁薄くて、幼少から君になついておられたため、これまでより一そう、世間の評判をおいやがりなさって、お便りなさることもなく、お見舞いにすらおいでにならないので、皆がなんと思うかと気になって、いっそのこと(自分の事を)お耳にお入れしないですませたかったが。(玉上)/ 「思しつく」心がひかれる。愛着する。
巌の中にも 「いかならむ巌のなかに住まばかわ世の憂きことの聞こえこざらむ」(古今・雑下読み人知らず)
ひたおもむきにものぐるほしき世にて 「ひたおもむきなり」は、ただひとつの方向に向かうさま。源氏を左大臣を政界から追放して、弘徽殿大后一統の勢力がますます凶暴の度を加えることをいう。
帥宮 (そちのみや)源氏の異母弟。大宰府の帥(長官)である親王。源氏の弟で、後の蛍の巻で蛍兵部卿の宮と呼ばれる人。帥には多く親王が任命され、赴任はしない。
たてまつる 奉る。③「乗せ奉る」「着せ奉る」などの上の動詞を略していう慣用的な言い方。④(③が転じたものか)「食う」「着る」「乗る」の尊敬語。
あさましとのみ世を思へる 「あさましい」(意外なことに)驚きあきれる。(良い場合にも悪い場合にも用いるが、現代では悪い意味だけに用いる)「あさむ(浅)」の形容詞化。「あさむ」上記同様、驚きあきれる。
位なき人は 源氏は除名されて、無位無官であることが、ここで明らかになる。
身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影は離れじ わが身はこうして流浪しましょうとも、いつもあなたのお側にある鏡に映った私の影は離れて行きはしないでしょう(新潮) / わたし自身はこうして遠くへ流浪していこうとも、心はあなたのそばを離れない鏡みたいに、あなたからかけ離れはしないでしょう。(小学館古典セレクション)/ わが身はこんなに流れゆこうとも、あなたのお側去らぬ鏡に映る姿は消えず、わたしは思い続けよう。(玉上)
別れても影だにとまるものならば鏡を見ても慰めてまし お別れしても、そこに映る影だけでも止るものならば、せめて鏡を見ても慰めていましょうものを(新潮) / お別れしましても、せめてあなたの影だけでも鏡にとどまるものなら、それを見て心を慰めることもできましょうけれど。(小学館古典セレクション)/ お別れしても影なりととどまりますものならば、鏡を見ても一人慰めておりましょうが。(玉上)
えしもやと思ふこそ 「えしもや(あらむ)」
ことなしにて 平穏無事と解する説と、無為に会うことなしにとする説がある。「是は無為無事之義也」(河海抄)。『奥入』には「君見ずて程のふるやの廂には逢うことなしの草ぞ生ひける」(新勅撰・恋五読み人しらず)によるとする。
来し方行く先のためしになるべき身にて 冤罪で遠流されそうになっているじ自分。過去から未来にかけて、めったにない例に引かれそうな身の上だから。無実の罪で、流浪せねばならぬ運命をいう。
心のどまる 「のどむ」[和む]のどかにする。気持ちを落ち着かせる。
よそへられて 「よそえる」かかわりがある。ことよせる。なぞらえる。/ 「よそへられて、あはれなり」「あはれなり」を源氏の心とする説では、(イ)月の沈むのを逆境に沈むわが身に「よそへられて」とする説、のほか(ロ)昨夜の中納言の君と別れたときの月に、いまの月が「よそへられて」とする説もある。「あはれなり」
を花散里の心とする説では、西の山に沈む月を帰り去る源氏に「よそへ」る、と解する。/ 月が沈んでゆくさまを源氏の今の境遇に「よそえて」、花散里はあわれを感じた。あるいは、(例の)があるので、単に月が沈むのと源氏の帰宅が同じくなるので、花散里はあわれを感じた。(管理人)
月影の宿れる袖はせばくともとめても見ばやあかぬ光を 月影の映る私の袖は狭くとも、止めてみとうございます、見飽きることのない光を。数ならぬ私ですがあなたをお引き止めしたく存じます(新潮) / 月影の宿っているこの袖はたとえ狭くても、いつまでも見ていても見飽きることのない、月の光—あなたをお引止めしたいのです。(小学館古典セレクション)月の光が宿っている私の袖は狭くても、お引きとめしてみたいと思います。いつまでも見あきないあなたのお姿を。(玉上)
いみじと思いたるが 「いみじ」(極端に甚だしい意で、善にも悪にもいう)①たいへん悲しい。辛い。困った。恐ろしい。情けない。②たいそううれしい。素晴しい。立派だ。
行きめぐりつひにすむべき月影のしばし雲らむ空な眺めそ 大空をゆきめぐって、ついには澄むはずの月が、しばらく曇るに過ぎないのだから、空をながめて物思いなさるな。時が来れば帰京するのだから(新潮) / 再びめぐってきて結局は澄み輝くことになる月影がしばらくの間曇っているのを、愁わしげごらんにならないでください。最後には潔白の証を立ててあなたとともに住むことができるのですから、悲しまないでください。(小学館古典セレクショ)行きめぐってもついには晴れてこの家に宿る月の光なのです。しばらくかげったからとてお悲しみなさるな。(玉上)
明けぐれのほど 「あけぐれ」(明け暗れ)夜が明けきる前の少し暗い感じの残る頃。またその状態。
したためさせたまふ 「したゝむ」は、ととのえる、支度する意。「させ」は使役か敬語か決定しがたい。
聞こえわたしたまふ 申し上げて、お渡しになる。言葉で説明した上で渡す意か。
逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや流るる澪の初めなりけむ 思いを遂げることのできないあなたを恋して泣いたことが。流浪の身の上になるきっかけだったのでしょうか(新潮) / 逢う折もない悲しみの涙川に身を沈めたのが、こうして流されてゆく身の始まりだったのでしょうか。(小学館古典セレクション)あえる瀬のない涙の川に嘆き沈んだのだが、流れ行く身のはじめだったのでしょうか。(玉上)
所狭うなむ 「所せし」[所狭し]、置き場がない。処置に困る。どうしようもない。
涙河浮かぶ水泡も消えぬべし流れて後の瀬をも待たずて 涙河に浮かぶ水泡ーそのようにはかない私は、悲しみにくれたまま死んでしまうでしょう、行く末の逢瀬も待たないで(新潮) / 涙川に浮かぶ水の泡のように、泣き悲しんでいる私はすぐにも死んでしまいそうです。あなたが許されてお帰りになる後の逢瀬を待つこともできないで。(小学館古典セレクション)涙川に浮かぶうたかたの私は、きっと消えてしまうでしょう、流れの後の逢う瀬も待たずして。(玉上)
御倉町、納殿 「御倉町」倉の立ち並んだ一画。または多くの倉。「納殿」財宝を収納する場所。いずれも二条院の敷地内にある。
暁かけて月出づるころなれば 二十四五日頃で、夜更けから暁にかけて月が出る。その間の闇に紛れて入道の宮(藤壺)に会おうとして夕方に出かけた。/ 三月二十五、六日に京を出たとすれば。御陵参拝は二十四、五日で、「あかつきかけて月いづる頃」となる。その月の光を頼りに北山へ分け入ろうとするのだ。夜でなくては出歩けない勅勘の身だし、月が出なくては山道は踏み分けられない。月の出るのを待つあいだ、入道の宮をたずねようとする。(玉上)
見しはなくあるは悲しき世の果てを背きしかひもなくなくぞ経る お連れ添い申した院は亡く、生きておいでのあなたは悲しい身の上になられた世の終わりを、出家して煩悩を捨てたはずなのに、そのかいもなく、泣きながら過ごしています(新潮) / お連れ申した院はお亡くなりになり、生き残っているあなたは悲しいめにあっていらっしゃる世の末を、私は出家したかいもなく、泣きながらくらしています。(小学館古典セレクション)
「見し」は桐壺院、「ある」は源氏。「背きしかいも」世を背く、出家する。
憂しと思しなすゆかり多うて 源氏を気にくわない、嫌な人と思う、の意。「ゆかり」は朧月夜の血縁の者。右大臣、弘徽殿大后、その兄籐大納言、その子頭弁など。源氏がそう感じるとする説もある。
いみじき御心惑ひども 「ども」は複数形なので、二人ともの意である。
別れしに悲しきことは尽きにしをまたぞこの世の憂さはまされる 故院にお別れしたとき、悲しい思いはし尽くしたはずでしたのに、さらにこの世のつらさはひどくなるのでした(新潮)/ 父院にお別れしたときに悲しみの限りを味わいつくしたのに、今またこの世のつらさが以前にもまさることです。(小学館古典セレクション)故院とのお別れで悲しいことは終わったはずですのに、更にこの世の憂さはまさります。
さらなることなれど 言うまでもない。もちろんだが。
ひき連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂の瑞垣 君のお供をして、葵をかざしてお参りしたあの御禊の時を思うと、賀茂の祭神のご加護もなかったのかなと恨めしく思います(新潮) / かって行列をつくって葵をかざしたあの当時を思うと、この賀茂の瑞垣までが恨めしく思われます。(小学館古典セレクション)/ ごいっしょして葵をかざしたあの当時のことを思いますと、恨めしくもある賀茂の御社です。(玉上)
右近の将監の蔵人 紀伊守の弟。伊予介の子。
憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ名をば糺の神にまかせて 住みずらい都を今、離れて参ります、あとに残る噂の是非は、糺の森の神におまかせして(新潮)/ 情けない世の中と別れてこれから遠くへまいります。あとに残りとどまる噂は糾(ただす)の森の神にお任せ申すことにして。(小学館古典セレクション)/ つらいこの世を唯今離れます。あとに残る噂はただすの神にお任せして。(玉上)「ただすの神」下賀茂神社の神。「名を正す」の意をかける。
ものめでする若き人にて 「ものめ(愛)で」は、美しい物事に感じ愛すること。
亡き影やいかが見るらむよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる 亡き父院は、私の沈淪をどうお思いであろうか、父上かと思いよそえて悲しくながめる月も、雲に隠れてしまったことだ(新潮) / 亡き父院の御霊はこの私の有様をどうご覧になっていらっしゃることだろう。父院になぞらえては眺める月までも、雲に隠れてしまった。(小学館古典セレクション)/ なき父君はなんとご覧になるだろう。お姿と思って仰ぐ月も雲に隠れてしまった。(玉上)
啓したまへ 「啓す」は皇后や東宮に申し上げる。王命婦は、藤壺と源氏の密会を仲立ちした女房。藤壺に従って出家しているので、今、東宮に伺候しているのは、不可解。
いつかまた春の都の花を見む時失へる山賤にして いつまた、春の都の花を見ることでしょうか、時節に見捨てられた山がつの身で(新潮)/ いつ再び春の都の花をー東宮のめでたいご時世を見ることができるのでしょうか。時勢から疎んじられているこの山賤の身ですから。(小学館古典セレクション)/ いつかま春の都の花を見る事もありましょうか。時勢にけ押されたこの山賤の身で。(玉上)
ものはかな 「ものはかなし」何となくはかない。頼りない。
あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、折々の御ありさま、思ひ続けらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる 命婦の心中を描写した節。つまらぬ恋に御心労なさった昔のこと、あのときこのときのご様子などが、次々と思い出されるにつけても、なんの苦労もなくてご自分も宮も一生をお過ごしになれたはずの世を、御自分から求めて御苦労なさったことと、くやしくて、自分一人に責任がある事のように思われる。(玉上)詮なきことに君が心をくだかれた昔のことや、あの時この時のご様子を、次から次へと思い浮かべずにはいられないが、それにつけても、何の屈託もなく、君も、宮もお過ごしになれたはずの世のご自分から求めてお苦しみになったのだった、そのことを命婦はわが無分別にすべての責任があるかのように後悔せずにはいられない。(小学館古典セレクション)「心と」自分から求めて。主語は源氏とあるが、出家した宮も含んでよいと思う。
咲きてとく散るは憂けれどゆく春は花の都を立ち帰り見よ 桜は咲いたかと思うとすぐ散るのが悲しゅううございますが、過ぎ行く春は、再び戻ってまいります、都をお立ち去りになっても、またお帰りくださって、東宮の栄える御代をご覧くださいませ(新潮) / 花が咲いてすぐ散るのは情けないことでございますが、いま暮れてゆく春—都を去って行かれるあなた様は再び立ち返って来て、花の都をご覧になってくださいまし。(小学館古典セレクション)/ 咲いてすぐ散るのはつらいことですが、春は去ってもまた花の都にお戻りいただきとう存じます。(玉上)
長女、御厠人 「長女」(おさめ)雑用に従事する下級女官。「御厠人」宮中で便器の清掃にあたった下級女官。厠は川屋で、古代に便所は水流上に仮設したことによる称。貴族の男子は別棟の厠で用を足したが、女は居室内で便器を用いた。
よろしく思ひきこえむ 「よろしく」並ひととおりに。普通のことに。(玉上)
/ よろ・し 【宜し】①まずまずだ。まあよい。悪くない。
②好ましい。満足できる。③ふさわしい。適当だ。④普通だ。ありふれている。たいしたことはない。学研全訳古語辞典。
いちはやき世 「いちはやし」[逸速し]②容赦しない。手きびしい。
思し入りたるに、いとどしかるべければ 「思し入る」思い込む。「いとどし」いよいよ甚だしい。
わが身かくてはかなき世を別れなば 死別と解する説がある。しかし源氏は政界復帰の予言を信じている」のだから(澪標)、自分が死ぬと思うはずがない。京を退去することと見る。(玉上)
生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな 生別ということがあるとも予想もせず、繰り返しお約束しては、命のある限りあなたと共にと申し上げたことです。頼りないお約束でした(新潮) / 生きている間にも生き別れのあることを気づかずに命のある限りは別れまいとあなたに幾度も約束したことでした。(小学館古典セレクション)/ 生きながらの別れがあると気づかず、命のある限りはと、お約束をしましたこと。(玉上)
惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな (あなたとお別れするのなら)もはや少しも惜しくもないこの命に替えて、今のこの別れを、しばらくでも引き止めとうございます(新潮) / 惜しげもない私の命と取り替えてでも、目の前のあなたとの悲しいお別れをしばらくでも引きとめたいものです。(小学館古典セレクション)/ 惜しくもない私の命に代えましても、目の前のこの別れをしばらくとどめとうございますい。(玉上)
道すがら 伏見まで徒歩か馬で行き、そこから川舟に乗って淀川をくだり、難波(大阪)に着く。京から難波までが、当時は一日の行程である。「御舟に乗りたまひぬ」は、京を出発した翌日のこと。難波から船で、海上四十八キロメートルを行き、須磨に着く。
申の時 午後四時ころ。当時は昼と夜の長さを基準としたので、四季により一刻の長さが異なる。
大江殿 斎宮交代の帰京のときの旅宿。淀川の岸の大江の浦にあった。「斎王帰京の時、伊勢をたちて、大和地をへて、摂津国におもむきて、難波にて御はらへありて、七日に大江の儲所につき給ふ。十日に入京し給ふなり。ゆえに大江殿は斎王帰洛の時の旅館り給ふ所なり。一代一度の旅館なれば、あれたると云えるにや」(細流抄)
唐国に名を残しける人よりも行方知られぬ家居をやせむ 唐の国に、後世まで言い伝えられている人よりも、私は一層、行方も知らぬ詫び住まいをすることであろうか。旧註に屈原のことか(新潮) / 唐の国でその名を後世に残した人よりも、このわたしはこれから先行方も知れぬ不安な旅住まいをしなければならないのだろうか。(小学館古典セレクション)/ 唐国にその名を残した流人よりも、更にいっそう、行方も知らぬわび住まいをすることであろう。(玉上)「唐国に名を残しける人」中国で流罪になった有名人は多いが、ここでは屈原と考えるべきだろう。戦国時代、楚の人、名は平、原は字である。王の同族で、重く用いられたが、讒言されて、日夜江畔に流浪し、のち汨羅(べきら)に投身して死んだ。
故郷を峰の霞は隔つれど眺むる空は同じ雲居か 住み馴れた都の山々の霞が隔てていて見えないけれども、ここから悲しく眺める空は、都の人も同じように見ている空なのか(新潮) / 故郷を峰の霞がさえぎり隔てているけれど、わたしがうち沈んでじっと眺めている空は、あの都の人の眺めているのと同じ空であろうか。(小学館古典セレクション)/ 故郷は峯の霞が隔てているけれども、眺める空は同じ空であろうか。(玉上)/ 雲居、雲のあるところ。空。
いぶせき心地 「いぶせし」(恋しさ、待ち遠しさのたま)気分が晴れず、うっとおしい。
うらやましくも 「昔男ありけり。京にありわびて、あづまに行きけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらを行くに、波のいと白く立つを見て/ いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる波かな」(伊勢物語・七段、後撰 業平)
行平の中納言 業平の兄の行平。文徳帝のころ須磨に流されたことがある。『古今集』巻十八、雑下「田村の御時に事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもりはべりけるに宮のうちにはべりける人につかわしける 在原行平朝臣 わくらばに問う人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答へよ』
良清朝臣 源氏の従者。播磨の守の子で、以前、源氏にはじめて明石の浦やその地の入道父娘のことを話した人。
殿人 貴人の家に仕える人。摂津守は、源氏邸に出入りして恩顧をこうむる者だった。
はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ
「のたまひあわす」相談する。言い合わすの尊敬語。「はかばかしい」しっかり。頼りにできる。
埋れいたく 「埋れいた(甚)し」晴れ晴れしない。
松島の海人の苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたるるころ 松島の海士ー尼のあなたはいかがお過ごしでしょうか、須磨の浦に詫び住まいする私は涙に濡れています(新潮) / 須磨の浦に涙の日々を過ごしております今日この頃ですが、私の帰りをお待ちくださる松島の海人—尼君のお住まいでは、どのようにお過ごでしょうか。」(小学館古典セクション)/ 松島のあまのあなたはいかがおすごしでしょうか。須磨の浦のわたくしが涙にくれております今ごろ。(玉上)
こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼く海人やいかが思はむ 性懲りもなくあなたにお逢いしたくてならないのですが、須磨の浦の塩焼く海人—あなたはどうお思いなのでしょうか。(小学館古典セレクション)/ 性懲りもなくお会いしたいとしきりに思いますが、塩焼く海人はいかがお思いでしょうか。(玉上)
こしらへわびつつ 「こしらえる」なだめすかす。説得する。
かとりの御直衣、指貫 「かとり」固織(かたおり)。無地の平絹。かとり直衣や指貫は、無位無官の人の着物。「指貫」は袴の一種。
さま変はりたる心地するもいみじきに 無位無官の人が着る衣を送るのが悲しい。
しほじみぬる 「しほじむ」は人生経験をつむ、の意。
去らぬ鏡 源氏「身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ」
あはれをも多う御覧じ過ぐし 「あはれ」源氏の好意・恋心。
塩垂るることをやくにて松島に年ふる海人も嘆きをぞつむ 涙に濡れますのを仕事にして、尼の私も嘆きを重ねております(新潮) / 藻塩が垂れる— 涙に濡れますのを仕事にして、松島で長年過ごしている海人— 尼のわたしも嘆きを重ねております。(小学館古典セレクション)/ 涙を流しますのが仕事で、松島の年を送る尼の私も嘆きを重ねております。(玉上)/ 「やく」[役]仕事、勤め。
浦にたく海人だにつつむ恋なればくゆる煙よ行く方ぞなき 須磨の浦に塩を焼く海士さえ人には隠す恋ですから、大勢の人目をはばかってくすぶる私の思いは晴らしようもありません(新潮) / 浦で投げ木を燃やす海人さえ人目をはばかる恋の火なのですから、胸にくすぶる煙は行く先もなく晴れるすべもありません。(小学館古典セレクション)/ 須磨の浦に塩焼く(火をたく)海人が、あまたの人に隠す恋ですもの、くすぶる煙、それは晴らし所がないのです。(玉上)
さらなることどもは、えなむ 今さら言うもおろかなことは(源氏に会えぬ悲しみは)、とても筆には尽くせません。「えなむ」は「えなむ書かぬ」
浦人の潮くむ袖に比べ見よ波路へだつる夜の衣を 浦人の潮を汲む袖―あなたの涙にお袖と比べてみてください。波路を隔ててお会いできず泣き濡れている私の夜の衣を(新潮) / 浦人が潮を汲むように 泣き濡れていらっしゃるというあなたの袖と比べてごらんくださいまし。遠く波路を隔てた都で毎夜涙に濡れている私の衣とを。(小学館古典セレクション)/ 浦人の塩をくむ袖とお比べ下さい。波路隔ててお会いできないわたくしの夜の涙の衣を。(玉上)
らうらうじうものしたまふ 「らうらうじう」知恵・才覚に裏づけられた上品に洗練された感をいう。行き届いている。細やかである。
思ふさまにて 思ったとおりに。理想的に。源氏の思う(理想的な)状態なので。「あるべきものを」に続く。
今は他事に心あわたたしう、行きかかづらふ方もなく 他の女との情事に。
子の道の惑はれぬ 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(後撰・雑一 藤原兼輔)この歌の趣旨に反して、夫婦の仲の方が煩いのなのだろうか、の意。
明けぬ夜の心惑ひかとなむ 無明長夜のやみに迷う。仏教で言うこと。煩悩のため知恵が働かないことをたとえていう。
年月隔てたまはじ 一年もいらっしゃることはありますまい。あなたはまもなく帰京なさるでしょう。
罪深き身のみこそ 斎宮にいるので、仏教を忌んで遠ざかっていることをいう。仏教的立場から、「罪深き身」という。
うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて つらい日々を送っている伊勢の私を思いやって下さいませ、涙にくれていらっしゃるという須磨の浦で(新潮) / 伊勢国で浮海布(うきめ)を刈る海人—憂き目にあっているわたしのことを思いやってください。あなたが「藻塩たれつつ」涙に濡れるという須磨の浦で。(小学館古典セレクション)/ 世のうきめを刈り集めている私をご想像ください。お嘆きとうけたまわりましたその須磨の浦から。(玉上)
伊勢島や潮干の潟に漁りてもいふかひなきは我が身なりけり 遠い伊勢にいて、何のかいもないもないのが、この私なのです。源氏にはやがて帰京の日があろうが(新潮) / 伊勢島の潮の引いた潟で貝をあさっても、何の貝もないように、いまさら生きがいのない私の身の上でした。(小学館古典セレクション)/ 伊勢島の潮干の磯をあさっても、かいがないとは、私のことでございます。(玉上)/ 上の句は、「いふかひなき」をいうための序。
ひとふし憂しと思ひきこえし 御息所が生霊となって葵の上を取り殺した一件のこと。
同じくは慕ひきこえましものを (どうせ京を離れるのでしたら)あなたが伊勢にいらっしゃったとき、わたしも後を追ってゆくのでした。
伊勢人の波の上漕ぐ小舟にもうきめは刈らで乗らましものを こんな憂き目を見ずに、伊勢にお供していればよかったのにと存じます(新潮) / 須磨の浦で浮海布(うきめ)を刈る—憂き目にあうよりも、伊勢人が波の上を漕ぐ小舟にでも乗ればよかったものを。(小学館古典セレクション)/ 伊勢人のあなたが海上を漕ぐ小舟にも、こんなうきめは刈らないで、ご一緒するのでしたのに。(玉上)
海人がつむなげきのなかに塩垂れていつまで須磨の浦に眺めむ 私とて、悲しみの涙にくれて、いつまで須磨の浦でもの思いを続けるのでしょう(新潮) / 海人が積む投げ木—嘆きの中に泣き濡れて、いつまで須磨の浦で物思いに沈んでいなければならないのでしょう。(小学館古典セレクション)/ 海人の積む投げ木ならぬこの嘆きに、悶々としていつまでこの須磨の浦に侘び住まいをすることでしょう。(玉上)
おぼつかなからず 不安にならないように。
御心々 (みこころごころ)花散里に住む麗景殿の女御とその妹君。二人の心。
荒れまさる軒のしのぶを眺めつつしげくも露のかかる袖かな (お別れして以来)荒れまさる軒の忍ぶ草を眺めながら悲しみに沈んでおりますと、涙がしきりに袖を濡らすのでございます(新潮) / ますます荒れてゆく軒の忍ぶ草を眺め眺めしながら、あなたをしのんでおりますと、涙の露がしとどにかかる私の袖でございます。(小学館古典セレクション)/ 荒れてゆく軒の忍ぶ草をながめては、ひどいこと露がかかる私の袖でございます。(玉上)
生ける世に 「恋ひ死なむ後はなにせむ生ける日のためこと人の見まくほしけれ。(拾遺・恋一 大伴百世)解釈:恋い死にしてしまったら何になろう。生きている今の日のためにこそあなたの顔を見たいのに。
やまとうた
心尽くしの秋風 「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(古今秋上 読み人知らず)「心づくし」物思いにふけらせる。
行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波 「旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(続古今 津の国の須磨という所に侍りける時によみ侍りける/中納言行平)
恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ 都恋しさに耐えかねて泣く音かとも聞こえる浦波の音は、私の思う都の方から風が吹いて来るからであろうか。都に残した女たちを思う自分の気持ちから、浦波が悲しく聞こえるのであろうか(新潮) / 恋しさに堪えかね泣く声かとも聞こえる浦波は、わたしのことを思っている人たちのいる都の方から風が吹いているせいであろうか。(小学館古典セレクション)/ 恋いわびてなく泣き声にも似る浦波の音、あれは、思いしのぶほうから風が吹くからだろうか。(玉上)
作り絵 墨の線で書いた下書きに、重ねて彩色すること。
心もとながりあへり 「こころもとながる」待ち遠しがる。はがゆく思う。
白き綾のなよよかなる 下着(単衣)をいう。
紫苑色などたてまつりて 指貫か。一説に、白い綾の衣に紫苑色の衣を重ねたものとする。/ 紫苑色(しおんいろ)とは、紫苑の花の色のような少し青みのある薄い紫色のことです。紫苑はキク科シオン属の多年草で、古名を「のし」といい、平安時代には「しおに」とも呼ばれていました。秋には薄紫色の美しい花を咲かせることから、古くからとても愛されており、紫苑色の色名はその可憐な花の色からきています。
紫苑色は、紫根で染めて椿の灰汁で媒染した物。特に紫を賛美した平安期に愛好され、秋に着用されていました。『源氏物語』などの王朝文学にも「紫苑の織物」「紫苑の袿 」「紫苑の指貫」などとたびたび登場します。襲 の色目 としても秋を表わし、「表・薄色、裏・青」、「表・紫、裏・蘇芳」などの組み合わせがありました。https://irocore.com/shion-iro/
こまやかなる御直衣 縹色(はなだいろ)の濃い直衣。
釈迦牟尼仏の弟子 経を読みあげげるとき、まず「釈迦牟尼仏の弟子何のなにがし」と名前を名乗る。
初雁は恋しき人の列なれや旅の空飛ぶ声の悲しき 初雁は恋しい人の仲間なのだろうか、旅の空を渡ってゆく声がとても悲しきう聞こえる(新潮) / 初雁は都にいる恋しい人の同じ仲間なのかしら、旅の空を飛ぶ声が悲しく聞えてくる。(小学館古典セレクション)/ 初雁は恋しい人の仲間なのかしら、旅の空を飛ぶ声がとても悲しい。(玉上)
かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世の友ならねども 次々と昔のことが思い出されます。雁は昔の友ではありませんが(新潮) / 次々とつらねて昔のことが思い出されてなりません。雁はその当時の友というわけではないけれども。(小学館古典セレクション)/ 次々と昔の事が胸に浮かびます。雁があのころからの友だったわけでもありませぬのに。(玉上)
心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな 自分から進んで故郷の常世を捨てて旅の空に鳴く雁を、私にはかかわりのないよそごとと思っていたのでした(新潮) / 自分から進んで故郷の常世の国を捨てて旅の空に鳴いている雁を、今まで雲のかなたのよそごとと思っていたのですが。(小学館古典セレクション)/ 自分から常世を捨てて鳴いていく雁を他人事のように思っておりましたが・・・。(玉上)/ 雁は、「常世」(海のかなたにある不老不死の仙境)の鳥とされた。
常世出でて旅の空なる雁がねも列に遅れぬほどぞ慰む 常世を出て旅の空を飛ぶ雁も、仲間と共にいるから慰められているのです(新潮) / 常世の国を出て旅の空を飛んでいる雁も、その仲間から遅れずにいる間は心が和みます。(小学館古典セレクション)/
民部大輔 (みんぶのたいふ)民部省の次官。惟光のこと。
前右近将督 (さきのうこんのぞう)紀伊守の弟。伊予介の子。
二千里外故人心 月光の下に、二千里のかなたにいる知友の心を思いやる、の意。『白氏文集』
見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども 月を見る間だけしばらく心が慰められる、都に再び帰れる日は、はるか先であるけれども(新潮) / この月の顔を見ている間だけはしばらくでも心が和んでくる。再び月の都—京へ帰れる日は遠くはるか先のことであるけれども。(小学館古典セレクション)/ 眺めているうちだけはしばらく心が慰められる。月はめぐりめぐるが、月の都は京は、はるかだけれども。(玉上)
主上の 朱雀帝の。
憂しとのみひとへにものは思ほえで左右にも濡るる袖かな 帝に対してただつらいとだけは思われず、懐かしさとつらさに泣く涙に、左右の袖がそれぞれに濡れることであるよ(新潮) / 帝に対して一途に恨めしいとばかりも思われず、懐かしくもあって、左に右にそれぞれの涙で濡れる袖であるよ。(小学館古典セレクション)/ つらいとばかりひたすら思うこともできず、恋しさとつらさの両方に濡れているわたしの袖なのだ。(玉上)/ 主上を「憂し」と思う(須磨退去)のと、主上を恋しいと思うのと、両方の意味で、左右の袖が。
あいなう 理由もなく。若い娘たちがそうしたからといって、どうなるものでもないのに。
大弐 大宰府の次官。従四位下相当。地方長官の中で、もっとも高い地位である。職掌も広大である。西街道を統括するほか、外交と国防の第一線である。長官として太宰の帥(そつ)がいるが、たいてい親王が任ぜられて、現地には赴任しない。それで大弐が実際上の長官となるから、帥と呼ばれたりする。
琴の音に弾きとめらるる綱手縄たゆたふ心君知るらめや 琴の音に引き止められている私の、綱手繩のようにたゆたう心をあなたはご存じでしょうか(新潮) / お琴の音に引き止められ、綱手縄のようにたゆたっております私の心を、あなたさまはお察しくださいましょうか。(小学館古典セレクション)/ 琴の音に引きとめられた綱手縄の、たゆたう心をあなたはご存知ないでしょうね。(玉上)
人な咎めそ いで我を人なとがめぞ大舟のゆたのたゆたに物思う心ぞ。(古今恋一 読み人知らず)
とかくして聞こえたり 恋文だから、内密に工夫して筑前守とは別に使者を遣わした。
好き好きしさも 女の方から源氏に便りをする態度についていう。
心ありて引き手の綱のたゆたはばうち過ぎましや須磨の浦波 本当に私を思う気持ちがあって心が揺らぐのなら、このまま素通りするでしょうか(新潮) / わたしのことを思って引き手の綱のように心が揺れるというのでしたら、このまま素通りできるものでしょうか、この須磨の浦を。(小学館古典セレクション)/ まこと真心があって引手綱のたゆたうなら、素通りするだろうか、この須磨の浦を。(玉上)
いさりせむとは思はざりしはや 「思ひきや鄙の別れに衰へて海士の縄滝いさりせむとは」思いもしなかった都に別れて田舎の生活にやつれ、海士の釣縄をたぐって漁りするとは(『古今集』巻十八雑下、隠岐の国に流されてはべりける時読める 篁の朝臣)
なべてならぬ際の人びと 上臈の女房。源氏の召人。中務・中将なども含まれよう。
え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど ひとり暮らしには堪えられない。紫の上を呼びたい。
つきなからむ 「つきなし」[付無し]②不似合いだ。不相応だ。
めざましうかたじけなう 「めざましう」目がさめる思い、はっとする。「かたじけなう」①恥ずかしい。面目ない。②身にしみてありがたい。③もったいない。恐れ多い。ここは②か?
山賤の庵に焚けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人 / (自分はこんな見知らぬ世界に暮らしているが)しばしばも便りをよこしてほしいものだ、恋しい京の人よ(新潮)/ 山がつがあばら屋に焚く柴のように、しばしばわたしを尋ねて来てはくれないか、恋しい京の人よ。(玉上)/ 山賤の小屋で焚いている柴ではないが、しばしば便りを寄せてほしい。恋しい故郷の人よ。(小学館古典セレクション)
いづ方の雲路に我も迷ひなむ月の見るらむことも恥づかし これから先、自分も果てしない旅の空のどこにさすらうのだろう、まっすぐ西をさして行く月が、私を見てどう思うか気恥ずかしい(新潮) / これから私はどちらの雲居に迷ってゆくのだろうか。ひたすら西へ急ぐ月が見ていることだろうが、そう思うと恥ずかしく感じられる。(小学館古典セレクション)/ どの方向の雲路に私も迷って行くのか。月の見ている手前も恥ずかしいことだ。(玉上)
友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚の床も頼もし 友千鳥が、声を合わせて鳴く明け方は、旅の宿りにただ一人目覚めて私も心強く思われる(新潮) / 友千鳥が声をあわせて一緒に鳴いているのを聞くと、暁の床にひとり目を覚ましているのも心丈夫に感じられる。(小学館古典セレクション)/ 友千鳥の声を合わせて鳴く暁は一人寝覚めている身も頼もしい感じがする。(玉上)
あからさまにも ②一時的であるさま。ちょっと。しばらく。
うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし 「うけひく」承諾する。同意する。「後手」(うしろで)うしろ姿。「おこ」おろかなこと。ばか。たわけ。「行きかかりて」行ってかかわりあう。
心をやりて言ふもかたくなしく見ゆ 「こころをやる」思うとおりにする。思いのままに振舞う。「かたくなし」頑固である。
いかにものしたまふ君ぞ 「此の源氏君は、いかなる君とおぼすぞ」(岷江入楚)/ どう言う風でおられる御方(君)であるか、そなたは知っているのか。
按察使大納言 地方官の治績をしらべ民情を視察する官として、奈良時代に設けられたが、やがてそれも名義だけとなって大・中納言の兼務となった。
ほどにつけたる世をばさらに見じ 身分相応の結婚など渇してするまい。
所狭く思ひかしづきて 「所狭く」手厚く。(岩波大系)
心苦しかりし人びと 「こころぐるしい」心に苦しく思う。つらくてやりきれない。
院の御けしき、内裏の主上 「院」桐壺帝、当時は帝。「内裏の主上」朱雀帝、当時は春宮。
いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり いつと限らず都の人が恋しいのに、昔、花の宴に桜を挿して遊んだ日もめぐってきたことだ(新潮) / いつと限らず大宮人が恋しく思われるけれども、わけても桜をかざして楽しんだ春の日の今日がまためぐってきたことよ。(小学館古典セレクション)/ いつでも大宮人は恋しいのに桜は咲き、私が宮中に桜の花を頭にさして、かって遊び楽しんだ、花の宴の今日(その日)もまた、めぐって来てしまったのであったっけなあ。(岩波大系)
ひとつ涙 「うれしきも憂きも心はひとつにて分かれぬものは涙なりけり。(後撰・雑二 読み人しらず)
ゆるし色の黄がちなるに、青鈍の狩衣、指貫 「ゆるし色」誰が着てもよい色。濃い紅や紫は「禁色」であるのに対し、薄いのを「ゆるし色」という。ここは薄紅色。/ 延喜十八年、深紅色の禁止とともに薄紅色の絹を下賜されたことにもとづく称か。「鈍色」(濃いねずみ色)に青花を加えた色で、縹色(はなだいろ・藍色の薄いもの)の青みのあるもの。
泣きみ笑ひみ 「・・・み・・・み」の形で、動作が反復される。
なかなかなり 会わないほうがましである。「なかなか」(逆の状況や意味をもたらすこと)かえって。
故郷をいづれの春か行きて見むうらやましきは帰る雁がね なつかしい都をいつの年の春に見ることだろう。うらやましいのは北に帰る雁だ。雁に寄せて中将が帰るのをうらやむ(新潮) / 故郷をいつの春になったら帰って行って見ることができるのだろうか、うらやましいのはこれから帰ってゆく雁—あなたです。(小学館古典セレクション)/ 故郷をいつの春にか見ることだろう。羨ましいの、帰り行く雁、あなたです。(玉上)
あかなくに雁の常世を立ち別れ花の都に道や惑はむ 心残りのままこの地を去れば、花の都に帰るにも、心乱れて道も分からなくなるでしょう(新潮) / まだ思いも尽きいないうちに、あなたが仮住まいをおられる異境から立ち別れて行く私は、花の都に帰る道にも迷うことになるでしょう。(小学館古典セレクション)/ 心残りのまま雁は常世を別れますが、花の都への道にも惑いそうです。(玉上)
苞 (つと)土産。携えてゆくその土地の産物。わらづと。
ゆゆしう思されぬべけれど 罪人である源氏からの贈り物だから。
風に当たりては、嘶えぬべければなむ 「駒はもと胡国の獣也。仍(よって)北風にあたれば旧里を慕ひていばゆる也」(河海抄)
雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ我は春日の曇りなき身ぞ 雲井近く飛び交う鶴ー都のあなたも、明らかにお見通しください、私はこの春の日のように、一点のやましいところのない身です(新潮) / 雲—内裏近くを飛びかう鶴—あなたも空—宮中にあってごらんください。私はこの春の日のように、曇りのない潔白な身です。いつまでもこんな目にあうはずがない。(小学館古典セレクション)/ 雲居近く飛び交う鶴も君も宮中からご覧なさい、私は春日のように一点のやましさもない身なのです。(玉上)
かつは頼まれながら (帰京を)当てにしながら。つい期待するものの。
たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く翼並べし友を恋ひつつ あなたがいらっしゃらなくて頼み処のない宮廷で私は一人声をあげて泣いています。ともに帝にお仕えしてきた友を慕っては(新潮) / 鶴—私は頼りなく心細い雲居」—宮中にひとりで声を立てて泣いています。つばさを並べた友—あなたをいつも恋い慕いながら>(小学館古典セレクション)/ 心細い雲居にひとり声を立てて泣いています。翼をならべて育った君を恋い慕いつつ。(玉上)/ 「たづきなき」たずきなしに同じ。頼りとするものがないこと、寄る辺ないこと。
いとしもと 「思ふとていとこそ人に馴らざらめしかならいてぞ見ねば恋しき(拾遺・恋四 読み人知らず)。『源氏釈』『河海抄』には「いとしも人にむつれけむ」
弥生の朔日に出で来たる巳の日 厄除けに祓いをする。源氏はただ海岸の風景を楽しむために禊に出かけたが、桐壺帝の死霊を招じる結果となった。
知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき (人形のように)見も知らぬ大海原に流浪してきて、さまざまな悲しい思いをすることだ(新潮) / 人形のように、まだ知らぬ大海原に流れきて、ひとかたならず、あれこれと悲しい思いを重ねている。(小学館古典セレクション)/ 見も知らぬ大海原に流れきて、人形に悲しく思おうか。そればかりか悲しむことが数多い。(玉上)
八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ 八百万の神々も私をあわれと思召すだろう、これという犯した罪はないのだから(新潮) / 八百万の神々も私を哀れんでくださるだろう。これといって犯した罪もないのだから。(小学館古典セレクション)/ もろもろの神々も私をあわれと思ってくださるだろう。これといって犯した罪はないのだから。(玉上)
肱笠雨 あまりにわかなので、笠もかぶることでできず、肘で防がなければならぬほどの雨。
公開日2018年3月30日