序説 韋提希夫人 と
王舎城 の悲劇
当時、王舎城に
阿闍世
という名の太子がいた。
堤婆達多という悪友に
そそのかされて、父王の
頻婆沙羅を幽閉し、厳重に室内に閉じ込めて、
家臣の者も接触することを禁じた。妃の
韋提希は王を敬愛していたので、身を洗って清潔にし、乳製品に蜜を入れそれを
麦粉に混ぜて身に塗り、もろもろの装身具にぶどう酒を入れて、ひそかに王に差し入れした。王はそれらを食べかつ飲み、それから水で口を
そそいだ。それから耆闍崛山にむかって合掌し釈尊に礼して、こう言った。
⌈
大目犍連よ、
あなたはわたしの親友だ。願わくば、慈悲心を起こして、わたしに八戒を授けてください ⌋
すぐに、目犍連は鷹・隼のごとく王の処にきた。こうして毎日、王に八戒を授けた。
釈尊もまた
富楼那を遣(つか)わせて、王のために説法をさせた。
このようにして二十一日がたった。王は蜜入りの麦粉を食べ、説法を聞いていたので、顔色もよく柔和であった。
ときに、阿闍世が牢番に聞いた。⌈ 父王はまだ生きているか ⌋
牢番は答えた。⌈ 父王の妃は、蜜入りの麦粉を身に塗り、もろもろの装身具にぶどう酒を入れて差し入れています。
目連や 富楼那が空中から来て、王のために説法しています。わたしが禁ずることはできません⌋
これを聞いて阿闍世は、母に怒りをおぼえた。⌈ 母は賊だ、賊に通じているからだ。沙門たちは悪人だ、妖術を使って
父王を生かしているからだ ⌋こうして阿闍世は、剣を取って母を殺そうとした。そのとき月光という家臣がいた。聡明で知恵があった。
医師の耆婆とともに王のもとに行き、礼して言った。
⌈ ヴェーダ聖典を見るに〈大昔よりこの方、悪王は数限りない、王位を取るために父を殺した者は、
一万八千人いる〉という。だが母を殺したという話は聞いたことがない。このような非道な殺人は、高貴な階級のクシャトリアがすることではない、
賎民のなすべきことだ。そんなことをすれば、ここには住んでいられないでしょう⌋ 二人はこう言うと、手で剣をなでつつ、後ずさりして退いた。
阿闍世はこれを聞いて驚き、耆婆に言った。⌈ お前は王の味方をしないのか ⌋耆婆は王に言った。⌈ 王よ、
母を殺してはいけません ⌋王はこれを聞いて悔い、剣をおさめて、母を殺すことを止めた。役人に命じて、母を深窓の宮に幽閉させた。
韋提希は幽閉されると、憂愁に落ち込み、遥か耆闍崛山に向かって、釈尊に礼して言った。⌈ 如来よ、世尊よ、
昔はよく阿難を遣わせて、わたくしを慰めてくれました。今わたくしは憂愁に落ち入っています。世尊はあまりにも尊いお方、お目にかかるには
恐れ多い。願わくば目連・阿難を遣わせて、わたくしに会わせてください ⌋ こう言って涙を流し、世尊に向かって礼をした。しかしまだ頭を上げない
間に、世尊は耆闍崛山にいて韋提希の心を知り、ただちに大目犍連と阿難に言って空中から来させた。釈尊もまた、耆闍崛山を去り王宮に来た。
そのとき、韋提希は礼し終わって頭を上げると、そこに世尊・釈迦牟尼仏を見た。身は紫金
色に輝き、百宝に飾られた蓮の華に座っていた。目連が左に侍し、阿難が右に侍していた。また帝釈天・梵天・護世の天なる神々が空中にいて、あまねく天の
華をふらして釈尊を供養していた。そのとき、韋提希は釈尊を見ると、自らの装身具をはぎとり、身を投地し、釈尊に向かって号泣して言った。
⌈わたくしは昔どんな罪があって、こんな悪子を生んだのでしょうか。世尊もまたどんな因縁があって、
堤婆達多の親族なのでしょうか。
世尊よ、わたくしのために悩みのない世界を説いてください。わたしはそこに往生したい。この濁悪(じょくあく)の世に
住むことを願わない。この濁悪の世は、地獄・餓鬼・畜生が満ちあふれ、悪人が多い。願わくば、わたしの未来に悪声を聞かず、悪人にも会わないことを願う。
今、世尊に向かって五体投地し、慈悲を求めて懺悔します。願わくば、わたくしに清浄な世界を見せてください⌋
そのとき世尊は、眉間から光を放った。その光は、金色で、あまねく十方無量の世界を照らし、還(かえ)ってきて世尊の頭上にとどまり、
また台座にとどまった。全体の形は須弥山のようで、十方諸仏の清浄な国土はみなそのなかに現れていた。ある国土は七宝からなり、ある国土は
蓮の花がいっぱいであった。またある国は自在天宮のようであった。またある国土は玻璃の鏡のようで、十方の国土がそのなかに現れていた。このように、
諸仏の国土が無数あり、その光景は素晴らしく荘厳の極みであった。釈尊はこれを韋提希に見せた。そのとき韋提希は釈尊にいった。
⌈ 世尊よ、この諸仏の国土はみな
清浄で光輝いていますが、わたしはそのなかでも極楽世界、阿弥陀仏のところに生まれたいと願っております。どうかそれをしっかり見ることができる方法を教えて
ください ⌋その時、釈尊は微笑し、五色の光を口から発し、
頻婆沙羅王の頭上
を照らした。その時王は幽閉されていたのであるが、心眼はくもることなく、はっきりと世尊を仰ぎ見て礼拝すると、王の心は自然に増進して、
阿那含の境地に
達した。
その時釈尊は韋提希に言った。⌈ おなたはご存じか。阿弥陀仏はここから遠くないのだ。おなたは一心にかの国を見たいと願いなさい。そうすれば
浄土を観ずることができるであろう。今あなたのためにもろもろの譬えを説き、未来の一切の凡夫や浄土に至りたいと望む者たちをして、
西方の極楽国土に生まれさせよう。その国に生まれたいと望む者は、まさに三善をなすべきである。一つには父母に孝行し、師を敬い、慈悲心を持して人を殺さず
かくして十善を修すること。二つには仏法僧に帰依し、もろもろの戒を守り、常住坐臥その威儀を正しくすること。三つには菩提心をおこし、因果の法をよく理解し、
経典を読誦し、他の人々にもこれを教え勧(すす)めること。この三つをなすことによって、浄土を見ることができる。
この三つは、過去・未来・現在の三世の諸仏の修すべきことであり、浄土を観ずるはじめなのだ⌋
釈尊は、阿難と韋提希に言った。⌈よく聞け、よく聞け、よくよく思え、わたしは今、未来世のすべての人々、煩悩に悩む者たちのために、
浄土を観ずる方法を教えよう。よいか韋提希、よくぞこれを問うた。阿難よ、お前はよく理解し、わたしの言葉を人々に広く教えなさい。わたしはいま
韋提希と未来のすべての人々をして、西方の極楽浄土を見ることができるようにしよう。如来の力のゆえに、かの清浄国土を鏡に映るがごとく明らかに
見ることができるだろう。かの国土の楽しいことを見れば、心が歓喜するゆえにただちに
無生法忍
を得るだろう ⌋ 釈尊は韋提希に言った。⌈ あなたは凡夫だ。心想が劣っているため、天眼を得ることができず、遠くを見ることができない。
もろもろの仏・如来はそれぞれの方便をつかって、あなたが見れるようにするのだ⌋韋提希は釈尊に言った。⌈世尊よ、わたしはいま仏力をもって
かの国土を見れますが、仏滅後は、人々が濁悪・不善で五苦に苦しめられます。どうして阿弥陀仏の極楽世界を見ることができますでしょうか ⌋
正説 1 心を統一して浄土を観想する13の方法
1 釈尊は韋提希に言った。⌈あなたがたは、一心に思いを込めて西方を想いなさい。どのように想いをなすのかと言えば、盲人でなければ人は皆、
日没を見るでしょう。まさに、想いをこらし、正座し、西に向かって、日没を見つめなさい。心を落ち着かせ、気を散らさず、思いをこらして、天空にかかった太鼓
のように日の没する処を見なさい。見終わったならば、目を閉じても開いても、日輪がはっきり現れるようにしなさい。これを「日想」といい、「初観」という。
2 次は、「水想」をする。清らかに澄んだ水を見て、心に刻み付け、思いを集中する。水を見終わったならば、氷想を起こさなければならない。氷の
透き通ったさまをみれば、瑠璃想をなさなければならない。この思いをなせば、瑠璃の大地の内外が透き通っているさまを見るだろう。その下に金剛と七宝でできた
金の幢(はたぼこ)があり、瑠璃の大地を支えている。その幢は八方に面し、八角形をなしている。それぞれの面は百宝からなり、ひとつひとつの宝石には
千の輝きがある。またひとつひとつの輝きには八万四千色の光があり、瑠璃の大地に映じて億千の色に輝き、つぶさに見ることはできない。瑠璃の大地の上には、
黄金の縄がはりめぐらされて区画分けしている。ひとつひとつの宝石には五百色の輝きがあり。その光が花のようで、また星や月のようだ。それらが虚空に
かかり光輝いている。千万の楼閣がたち、すべて百宝からできている。土台のヘリにはそれぞれ百億の幢(はたぼこ)と無数の楽器があり、
壮観である。虚空から八種の清らかな風が吹いてきてこの楽器を鳴らし、苦・空・無常・無我の音を奏でている。これを「水想」といい、「第二観」と名づける。
3 この観想ができるようになったら、これを心にとどめ、目を閉じてもはっきり残像が残るようにする。眠るとき以外は、いつもこのことに思いをこらすこと。
これができれば、「極楽国土をみた」といえるだろう。さらに心を集中し続ければ、かの国土を明瞭に見るようになるだろう。これを「地想」とし、「第三観」
と名づける⌋ 釈尊が阿難に言った。⌈ 阿難よ、わたしの言葉を心にとどめ、未来世のすべての人々、苦を逃れんと欲する人々のため、
この観地の法を説きなさい。もし大地を観想すれば、八十億劫のあいだ生死を繰り返す間その罪を除き、死後には必ず極楽に生まれるだろう。疑うことなかれ。
この観法が正しく、もし他の観法があるとすれば、それは邪道である⌋
4 釈尊は阿難および韋提希に言った。 ⌈ 「地想」が終わったら、つぎに宝樹を観ること。一本一本の樹をみて、七重の並木の宝樹を観想するのだ。
それぞれの樹の高さは八千
由旬
ある。種々の宝樹には宝の花や葉が茂っている。それぞれが異なる宝石の色をしている。瑠璃(るり)の宝石から金色の光をだし、玻璃(はり)の中から
紅の光をだし、瑪瑙(めのう)のなかから硨磲(しゃこ)の光をだし、硨磲(しゃこ)のなかから緑真珠の光をだし、
珊瑚(さんご)・琥珀(こはく)などもろもろの宝石が飾りとなっている。美しい真珠の網が樹上にはられ、それぞれの樹に七重にかけられている。それぞれの網の
間には五百億の美しい宮殿があり、
梵天宮のようだ。もろもろの天童子がその中におり、
一人ひとりが五百億の
如意宝珠を飾りとしている。その如意宝珠の光は百由旬の遠くまで照らす。
それは百億の日月を合わせたようで、その光景は言語に絶する。種々の宝石入り混じるさまは素晴らしいものだ。樹木の列はふれあい、葉と葉は重なり、葉のあいだに
様々な花が咲き、七宝の実がなる。一枚一枚の葉は縦横は同じ長さで二十五由旬ある。その葉は千種の色があり、百種の模様があり、天の瓔珞のようだ。もろもろの
美しい花は
閻浮檀金
の色に輝き、火輪のように葉の間で回っている。果実は尽きることなく生り、
帝釈天の瓶のようだ。果実から大きな光がで、それが幢幡(どうばん)と無数の宝蓋(ほうがい)となる。宝蓋のなかに三千大千世界の一切の仏事が
現れ、十方の仏国もそのなかに現れる。この樹を見終わったら次々に見てゆくべし。樹の幹、枝、葉、花、果実をしっかり見て心に刻みなさい。
これを「樹想」とし、「第四観」と名づける。
5 次に、水を想うべし。「水を想う」とは極楽国土には八つの池がある。それぞれの池は七宝からなり、その宝石は柔らかい。
如意宝珠から生じた池水は
十四の支流をつくる、一つ一つの支流は七宝の色をして、金の渠(みぞ)のなかを流れている。渠のなかは、様々な色のダイヤモンドが底に敷かれている。一つ一つ
の渠のなかに六十億の七宝の蓮の花がある。花は丸く、十二
由旬
の大きさがある。池の水は花の間を流れ、木々をめぐる。その音は微妙で、苦・空・無常・無我・
もろもろの
波羅蜜
の法を説き、また諸仏の姿形を讃嘆するものもあり。さらに如意宝珠から金色の美しい光が放たれ、その光が化して百種の宝石がきらめく色の鳥となる。
その声は心地よく和して、仏を念じ法を念じ僧を念じることを讃える。これをが「八種の功徳がある水の観相」であり、「第五観」と名づける。
6 もろもろの宝石に飾られた国土のそれぞれの境界の上に、五百億の宝石でできた楼閣がある。その楼閣のなかに数えきれない天人がいて、天の音楽を奏でている。
また楽器が天空にかかり、宝幢神の楽器のように、演ずる者がいないのに鳴っている。
この種々の音のひとつひとつが、仏を念じ、法を念じ、僧を念ずることを説いている。この観相に達したら、ほぼ「極楽世界の宝樹と宝地と宝池を観た」といって
いいだろう。これを「すべてを観る観相」といい、「第六観」と名づける。もしこれを観たなら、数えきれない極悪非道の悪行が除かれ、命が終わって後、
必ずかの国に生まれるだろう。この観法が正しく、もし他の観法があるとすれば、それは邪道である⌋
7 釈尊は、阿難と韋提希に言った。⌈よく聞け、よく聞け、よくよく思え、わたしはまさにおまえたちのために苦悩を除去する方法を、分類して説いてあげよう。おまえたちはこれを念じて保持し、広く大衆のために、分類して説きなさい⌋この言葉を言い終わると、
無量寿仏が空中に現れ、
観世音と
大勢至の二人の菩薩が左右に侍していた。仏の光は燃え上がるようで、つぶさには見ることができない。百千の紫金の色も比べようもない。そのとき韋提希は、無量寿仏を見終わって、接足作礼して、仏に申し上げる、「世尊よ、わたしはいま、仏力によって無量寿仏および二菩薩を見ることができました。しかし未来の衆生は、どうやって無量寿仏と二菩薩を観ることができましょう⌋
釈尊は、韋提希に言った、⌈この仏を観たいと思えば、まさにこの想念を起こすべきである。すなわち七宝の地上にいて、蓮の花を思い浮かべ、その蓮の花のひとつひとつの花びらに百宝の色があると思いなさい。その花びらに八万四千の脈(すじ)があり、天の絵のようだ。脈に八万四千の光がある。それを皆が明らかに見えるようにしなさい。花びらの小さいものでも、縦横それぞれ二百五十由旬ある。このような蓮の花には八万四千の花びらがある。ひとつひとつの花びらにはそれぞれ百億の宝玉で飾られている。そのひとつひとつの宝玉は千の光を放っている。その光は天蓋のように、七宝からなって、あまねく地上を覆っている。また如意宝珠を蓮の花の台(うてな)としている。しかもこの蓮の花の台は、八万の金剛の玉、赤い宝石、清らな如意宝珠、妙なる真珠の網で飾られている。その台(うてな)の上から、四本の宝幢(どう)が立っている。ひとつひとつの宝幢は、百千万億の須弥山のようだ。また、宝幢の上の宝幡(まん)は、
夜摩天宮のようであり、五百億の美しい宝珠で装飾している。そのひとつひとつの宝珠には、八万四千の光がある。そのひとつひとつの光が八万四千の異なった金色をしている。さらにひとつひとつの光は、その仏国土に満ちて、あちこちで変化して、それぞれ異なった相を見せている。すなわち、金剛の台(うてな)となり、あるいは真珠の網となり、あるいは色とりどりの花の雲となり、あらゆる処に現れて、仏事を現しているのである。これを「
華座想」とし、「第七観」と名づける⌋ 釈尊は阿難に言った。⌈ このような美しいい花は、もと法蔵比丘の願力によってできたものである。もしあの無量寿仏を念じようとしたいなら、まさにこの
華座想をなすべきである。この想いをなすときは、雑感が入ってはならない。みなひとつひとつ観なさい。ひとつひとつの花びら、ひとつひとつの珠、ひとつひとつの光、ひとつひとつの
台、ひとつひとつの
幢も明らかにして、鏡で自分の姿を見るかのようにしなさい。この想いをなせば、五万劫の生死の罪を滅ぼし、必ず極楽世界に生まれるだろう。この観をなすころを「正観」とし、他の観は「邪観」である
⌋
8 釈尊は、阿難と韋提希に言った。⌈このことを見終ったなら、つぎはまさに仏を想いなさい。その理由は、もろもろの仏・如来は、法界身であり、一切衆生の心のなかに入ってくるのである。この故に、心が仏を想うときは、この心が仏の三十二相・八十随形好となり、この心が仏となり、この心が仏なのである。諸仏の海のごとき正偏知は、心が想うことによって生じるのである。この故にまさに一心に念じて、仏・如来・阿羅漢・三藐三仏陀を観想するべきである。仏を想う者は、まずその姿を想うべし。目を閉じても開いても、その美しい像が紫金のように蓮の花の上の座しているのを見なさい。像が座っているのが見終わったら、心眼を開いて、はっきりと明らかに、極楽国の七宝の飾り・宝地・宝池・宝樹の行列と諸天の宝幡がその上を覆い、沢山の宝石をちりばめた網が空を満たしているのを見なさい。このような事を見るのに、きわめて明らかに、掌を見るかのようにしなさい。このことを見終わったら、さらにひとつの大きな蓮の花が、仏の左にあると想いなさい。先の蓮と同じく、違うものではない。また、ひとつの蓮の花が、仏の右にあると想い、観世音菩薩の像が左の花台に座っていると想いなさい。観音が金の光を放つのは、先の仏と変わらない。大勢至菩薩の像が右の花台に座っていると想いなさい。この想いがなると、仏や菩薩の像が、みな光を放つ。その光は金色で、もろもろの宝樹を照らしている。ひとつひとつの樹下にまた三つの蓮の花がある。それぞれの蓮の花の上に、ひとつの仏と二つの菩薩の像があり、その仏国土に満ちている。この想いがなると、もろもろの宝石の樹木や鴨やおしどりが、みな妙法を説いているのを聞くだろう。想に入定しているときも、出定するときも常に妙法を聞くだろう。行者が入定中に聞いたものは、出定のときも忘れないであろう。これを経典と照合してみなさい。もし合わなかったら、「妄想」であり、合えば「粗略な想いで極楽世界を見る」
とする。それを「像の観想」とし、「第八観」と名づける。この観をなせば、無量億劫の生死の罪を滅ぼし、現身のままで、念仏三昧を得るだろう⌋
9 釈尊は、阿難と韋提希に言った。⌈この想いをなしたら、つぎに無量寿仏の身相と光明を観るべきである。阿難よ、まさに知るべきである。無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天の紫金のようである。仏身の高さは六十万億那由他、恒河沙由旬である。眉間の白毫は、右周りに旋回し、五つの須弥山のような大きさである。仏眼は、四大海水のようで青と白がはっきり別れている。身はもろもろの毛穴から光明を出し、大きさは須弥山のようである。あの仏の円光は、百億の三千大千世界のようだ。その円光のなかに、百万億那由他、恒河沙の化仏がいる。ひとりひとりの化仏にも、数多く無数の化菩薩がいて従者となっている。また無量寿仏は八万四千の相がある。ひとつひとつの相に、それぞれ八万四千の小さな好がある。そのひとつひとつにまた八万四千の光明がある。ひとつひとつの光明があまねく十方世界を照らし、念仏する衆生を取り上げて捨てない。その光明と相好と化仏とは、つぶさ説くことはできない。ただ、ひたす思い浮かべて、心眼で見るほかはない。これを見る者は、すなわち、十方の一切の諸仏を見るのである。諸仏を見るがゆえに「念仏三昧」と名づける。この観をなることを、「一切仏身を観る」と名づける。仏身を観るゆえに、また仏心を見るのである。仏心とは大慈悲である。 無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生を取り上げるのである。この観をすれば、身を捨ててのち他世にて、諸仏の前に生まれて、
無生忍を得るだろう。このゆえに、知者は心をかけて無量寿仏を明らかに観るべきである。無量寿仏を観る者は、仏のひとつの相好から入りなさい。すなわち眉間の白毫を観て、きわめて明らか観なさい。眉間の白毫を見れば、八万四千相好は自ずから現れる。無量寿仏を見れば、すなわち、十方の無量の諸仏を見るだろう。無量の諸仏を見ることができるがゆえに、諸仏は現前にて将来仏になることを約束されるであろう。これを「あまねく一切色身を観るの想い」とし、「第九観」と名づける。この観をなすのを「正観」とし、他の観は「邪観」である。⌋
10 釈尊は、阿難と韋提希に言った。⌈無量寿仏を見ることが、明らかならば、つぎに、観世音菩薩を観なさい。この菩薩の身長は八十万億那由他由旬である。身体は紫金色で、頭の頂に肉髻があり、項に円光があり、円光の面はそれぞれ百由旬ある。その円光のなかに五百の化仏があって、釈迦牟尼仏のようである。ひとつひとつの化仏には、五百の化菩薩と無量の諸天が従者としてついている。全身から放たれる光の中に、五道の衆生の一切の色相がみな現れている。頂上の如意宝珠を天冠とする。その天のなかに、ひとつの化仏が立っている。高さ二十五由旬ある。観世音菩薩の面は、紫金の色のようだ。眉間の白毫相は七宝の色をたたえ、八万四千種の光を放っている。そのひとつひとつの光に、無量無数の百千の化仏がある。ひとつひとつの化仏は、無数の化菩薩を従者としている。これれらはみな変化自在で、十方の世界満ちている。たとえば赤蓮華の色のようだ。またこの菩薩は、八十億の光があって、飾りとしている。////⌋
結語
to be continued・・・・・・・・・・
— 観無量寿経 完—